週末のワルツ
日が昇った。日が落ちた。日が昇った。日が落ちて、月が昇った。
幾度か物音や足音がした。その度に意識は覚醒し、再び眠りにつくことは難しくなる。やっとの思いで眠りについても数時間も経たずに覚めてしまうのが日常となっていた。
その日は珍しく入りそうだった深い眠りを拒絶する。なんとなく、眠ってはいけないような気がした。無理やり目を擦って、体を起こした。そして目の前に出てきた人影に驚き思わず声が出る。
「うおっ……。俺、か……」
前日の雨に嫌気がさして窓から離れた位置に寝床を移したのを忘れていた。そしてそこに置いてあった鏡のことも。何週間ぶりだろうか、対面したその姿は酷くやつれ、目の下には濃い隈ができていた。眠っているようでもそれは決して質のいいものではない。日に日に疲労が体を蝕んでいくのが嫌でもわかった。
辺りは散乱していた。懐中電灯。ジャムのような何かが入った瓶。先端が欠けたナイフ。薄汚れたタオル。空の缶詰。どこかで拾った浄水器のようなもの。知識がないながらのサバイバルの賜物たちだ。そのどれもがボロボロになっていた。丁度手元に転がっているラジオに手を伸ばす。耳に当て、できるだけ小さな音で聞こうと試みる。しかしどのチャンネルを合わせても雑音しか聞こえなくなっていた。最後に人の声を聞いたのはいつだったか。
いつの日か、ラジオで聞いた声が最後だろうか。運良く生き残れた誰かが垂れ流していた断末魔のようなラジオ。聞いてしまった身としては、運が悪かったと思う。抑えきれなくなった恐怖が溢れ出るような叫びと壮絶な痛みと苦しみにもがく息遣い。誰からも助けが望めないとわかっていても助けを呼ぶ声が止むことはなかった。
一言で言えばトラウマだった。
嫌な記憶を呼び起こしてしまい、何かをせずにはいられなくなる。少年は枕、のように扱ったリュックから乾パンを取り出し無理やり頬張る。食欲などはとうに消え去っていた。生き残るための必要最低限の食糧。押し込んだ乾パンを咀嚼しながら辺りを見渡す。教室はカーテンに屈折して月明かりが優しく微笑む。そのまま立ち上がり、引き寄せられるように窓に手を伸ばし、カーテンの隙間から外を見る。
「晴れてんじゃん」
昨日は一日中雨だった。そのくせ素知らぬ顔をして太陽が堂々と顔を出していたらしい。雲一つ見えない明るい夜だった。最早自然現象にすら文句を言いたくなるような日々。
視線を落とすと、生きたまま死んでいる有象無象が見えた。もしかしたら死んだまま生きているのかもしれない。しかしそんなことは少年にとってはもうどうでもよかった。虚ろな顔でただ街を徘徊する。そこには知性も理性も何も無い。
良い夜だ。それは自分にとってもアイツらにとってもそうだろう。
まるでゾンビのようだと。いつかのテレビで誰かが話していた気がする。世界は安っぽい映画の設定のような状況になってしまっているのだと。他人事のように誰もが笑った。あらゆる人がいいネタを手に入れたと言わんばかりに口をそろえる。ゾンビだ。陰謀論だ。ッ闇の組織だ。宇宙人だ。人々はそれをエンタメとして消費していた。笑って。笑って。そして知らないうちに、未知の恐怖は普通の生活に侵入していた。気が付かないうちにその脅威はすぐそばまで来ていた。他人事だと思っていたものが、馬鹿にするように嘲っていたものが、今までの普通を容赦なく奪っていった。
「ん……」
寝起き特有の喉の渇きと乾パンによる追撃を受ける。手早く水分を取り出そうとリュックを漁る。カコッという音と共に掴まれ出てきたペットボトルはあまりにも軽かった。その中身は四分の一すら残っていない。
「終わりかぁ〜」
全身を脱力させ天井を眺める。必死にここまで生きてきた。このまま生き残っても何にもならない。そんなことは初めの方からわかっていた。ただ、ここまで来れてしまった。
天井には誰かの上履きの跡が付いている。それに手を伸ばし輪郭をなぞる。音を吸収するための無数の穴が空いた天井を無心で視界に入れた。
疲れた。
生きているように死んでいる自分も化け物ではないか。あれらと変わりはない。何の為に生きてきたのか。どうして死んでいくのか。分からないままだった。幼い少年にとっては難しいものだった。まだ幼いのだ。たった十数年しか生きていない彼は幼い。それでも必死になって生き延びた。何より恐ろしく感じたのは、日を追うごとに電気も水も通らなくなっていったことだった。当たり前だったライフラインの消滅。それが死が目前に迫っていることを自覚させた。
今のペットボトルを水で満たしたあの時、この中身が無くなったらもうやめよう、と決めた。生きるための水を得ることですら、その行動自体が自らの寿命を早めているように感じていた。諦念に近かったのかもしれない。それでもなぜか意地を張ってしまうもので、少しずつ、少しずつ飲んでいたのも事実だった。
やっとだった。やっと自分は今日、頑張ることをやめる。
果たしていつから自分は、死ぬことが悲願となってしまったのだろうか。
「ぃよしっ!」
残る力を使って体を動かす。立ち上がるたびに足が震えるのも、動くたびに頭が痛むのも、慣れたものだった。
最後にやりたかったことをやる。ただそれだけのために危険を冒す。そう、これは冒険だ。たった一人の、生きた理由も分からず、なぜ死んでいくかも分からない、普通の少年の冒険。
どうせ死ぬんなら、星で満ちた夜空に呑み込まれて死にたい。
いつからかそんな小さな思いを胸に抱いていた。叶いそうで実は難しい、子供じみた願い。
最期くらい楽しい気持ちのまま終わりたい。
乾パン一つと僅かな水だけを持って扉の外へと繰り出す。静かな夜だった。こんなにも静まり返った夜は久々だった。体力があるうちに上の階に移動していて正解だった。今では段差の一つ一つが足を捕らえ、更には重力が重く体にのしかかる。
息を切らし、やっとの思いでたどり着いた扉があった。ここまでの人生で開けたことのない扉。屋上への扉。頑張ってきた少年のために閉ざされていた扉。
取手に手を掛け、思い切り体重をかける。両の足が後ろへずれる。思い切り押しているはずなのに、その扉は少しだって鳴きもしない。今の少年には扉一つすら開けることができない。上がる息を押さえながら再度の挑戦をしようと体重をかけた瞬間。
不意に扉が開いた。
「どわぇっ⁉︎」
勢いのまま何かを下敷きにして前に倒れ込む。少し湿ったコンクリートの匂い。砂利と土と草の匂い。風に乗ってくるのは初夏の香り。そして少しツンと香る人間特有の臭い。バタン、と大きな音を立てて背後の扉が閉まる。それをきっかけとして声が漏れる。
「……え?」
「えっと……?」
慌てて距離を取り、お互いにお互いを探るように見る。どうやら生存者のようだ。
「生きてる」
怯えたように目の前の相手は頷く。先に扉を開けたのは彼だったようだ。彼の手を借り少年は立ち上がる。
同じような背丈。しかし体はとても細くなっているように思えた。髪は少し湿っている。くたびれた洋服に靴はすでに履いていない。裸足が黒く染まっていた。
「……君は?」
屋上の先住民は少し困った顔を見せたのちに答えた。酷く掠れた声で。
「この、がっこうの、に、ずっといた」
取り残された側だろうか。自らここに残っていたのか。真偽は定かではないが、少年にとってはどうでもよかった。篭っていた空気から解放されたその瞬間から、脳汁が止まっていないようだった。触れる空気が彼らを包む。久々に胸が満たされた気がした。きっと生きている人間に会えたのだからだろう。
「俺は、明。明るいって書いてあきら」
「いい、名前だね。ぼくは、せいいち。星に一って」
屋上の少年は咳き込む。相当な期間を喉を使わずに過ごしていたようだ。迷わず彼に残りのペットボトルを渡す。
「いいよ。飲んで」
彼は再び困ったような顔をしてから水分を受け取り、流し込んだ。
「ありがとう、明」
「ん」
なんだ。碌でもないエンディングかと思ったらそうでもなかったらしい。なんて言ったって最後に感謝されて終わるのだから。
空を見上げる。満点の星空だった。周囲に明かりを放つものは殆どなくなった。だからこそ少年の目には異常に美しく映った。今にも飛び出してきそうな丸い月。いつにも増してその円は大きいような気がした。
「……ねえ」
視線を下げて彼と目を合わせると、無性に踊りたくなってきた。こんな状況で頭がおかしいと思う。ただ、ここまで生きてきた苦しみと絶望と葛藤が全て報われるような気がした。きっと彼も自分と同じだ。
ふと、昔に見た動画を思い出す。ショート動画を無心でスクロールしていた当時、突然ワルツを踊る二人組が流れてきた。アニメやゲームの内容しか流れてこなかったあの時間に、たった一つの偶然が迷い込んだ。もちろん興味はない。ただ興味はなかったとしても、気付けばその動画を何周も眺めていた。彼はそれを見ながら、感じたことのない羨望を感じた。彼の目は、踊る二人が穏やかな時を過ごしているように映した。忙しなく動き続ける世界の歯車の中で、少しの休息を見た気になっていたのかもしれない。大きな衝撃が少年の心に刻まれた。
綺麗だった。楽しそうだった。ただ美しかった。
「ワルツ、踊れる?」
「え?」
「ワルツ。二人で踊れればなんでもいいんだけど、できればワルツがいい」
こんなにも素晴らしい光景に辿り着いた高揚感が彼を突き動かした。ダンスなんて習ったことも取り組んだこともないくせに。見たこともない言葉だけでは形容しきれない、遥か上空の美しさが彼をキザに染めた。満点の星空の下。しかも満月ときた。それならワルツしかない。あの時見たようなワルツを。今ここで。
「何でワルツ?」
「かっこいいじゃん。このシチュでワルツやってたら」
しばらく目を見開いて驚いていた彼は、ふっと笑って手を差し出す。
「実は、すこしだけなら」
「まじか。最高だ、星一!」
差し出された薄汚れた手をなんの躊躇もなく掴む。泥臭くていい。綺麗じゃなくていい。格好つかなくていい。不細工だっていい。ただ生きてきた喜びを共有するように四つの足は動き出す。見様見真似の足捌き。できるだけ相方に合わせようとするも、まるで自分の体ではないかのように上手くコントロールが効かない。ステップを意識すれば上半身が置いていかれ、相手の上半身を追いかけると足が追いつかない。それでもしばらくして慣れが始まる。彼もそれを感じたのか、動きだけの空間に言葉が混ざってくる。
「明は踊ったこと、ある?」
「ない。一切ない。どう? いい感じ?」
「ううん。最悪のステップ」
「なんだよぉー」
ブツクサと文句を言いつつも二人は止まらない。無機質な砂利を転がす音と二人分の呼吸だけが聞こえる。そのうちに酸素を求めるだけの苦しげな呼吸は鈴を転がしたような笑い声に変わる。まるで幼い二匹の子犬がじゃれて遊んでいるかのように。
「でも、センスあるかも」
「本当ですか、星一先生」
「えぇ、本当です」
もつれる足を必死に立たせ続け、足の感覚がほぼ無くなっても、足の裏がいくら傷つこうとも止まることはなかった。靴紐が解けても気にすることはなかった。
誰が見ても酷いワルツ。雰囲気のある音楽はない。二人をよく照らす照明はない。長く踊り続けるような体力もない。それでも世界のどこを探しても見つからないほどに楽しそうに踊っていた。
五分を過ぎた頃だろうか。一つの足が他三つの足を巻き込んで倒れ込む。ただ、たったさっき出会ったばかりの二人の少年を通じさせるのには充分な時間だった。
「あーーー……」
「つかれたー……」
底の見えない美しい夜空が降ってくるようだった。
「きれい」
少年は手に入れたばかりの潤いを手放し、からからの喉でその美しさを形容する。
風が彼らを嘲笑うように吹き去った。少し火照った身体をなぞられ、思わず体を震わせる。
「ずっとここに?」
息を整えながら疑問を投げる。静かな夜は二人だけの時間になった。
「うん。たまに、下の階に降りてたんだけどね。ごはん探して。……でも一週間くらい前にやめた」
「……怖くなったから?」
怖い。そう口にしたのは初めてだったかもしれない。今まではその感情をどうにかして抑えていた。一度口にしてしまえば、それを認めてしまようで動けなくなりそうだったから。
「多分ね。結構長く、ここに残ってたんだ。避難指示が出て、皆がグラウンドに散ってく中で、一人だけ、教室に隠れてた」
「すげぇ度胸じゃん」
「そう? 怖かっただけだよ。人一倍臆病で、避難しようにも足が動かなかった」
「でも一人でここまで生きたんだろ? すごいよ」
素直に褒めると、何かを諦めたような笑い声が返ってきた。
「……なんでこんなんになっちゃったのかな。あの時はもう全員どうにかなっちゃえとか、どうとでもなれって、軽く考えてたのに」
彼も自分が傍観者だと勘違いをしていた。奪われるはずのない世界で生きていると思い込んでいた。
だから同情というにも違うが、ほんの少しだけ歩み寄ることだけをした。
「俺たちも今、どうかしちゃってるけどな」
その通りだ、と彼は僅かな気遣いに感謝を述べるかのように穏やかに笑いかけた。
「ここに残るんじゃなくて、家に帰っていれば、もしかしたら家族と一緒に死ねてたのかなとか」
「……」
「よく分からないまま死ぬのも一人で死ぬのも怖くて。だらだら生き続けちゃってさ」
天を仰いだ彼は叫んだ。
「でももう、どうでもいい!」
下で何かが大きく動き出す気配があった。それを認識してなお、一人は話し続け、一人は聞き続けた。
「今日でおしまい! 最期くらい何も考えずに楽しく終わりたいもん。それに明に会えた。すごく心強いよ」
運命とでも言うのだろう。出会ったことのない二人がそこで出会うこと、同じ目的を持っていることを。そして二人の呼吸が合った時。あの扉を開けた時から感じていたことを聞いてみる。なぜ、扉の向こうにいるものが人間だと分かっていない状況で開けたのか。その答えは出ていた。
「なぁ。星一も終わりにしようとしてたんだろ?」
「うん。明もそうでしょ」
その一言で救われた。生きた価値があった。もしかしたらもっと違うもっと価値のあるものがこの先の人生にあったかもしれない。それでも今は今で、未来はわからない。だからもう大丈夫だった。これ以上を求めて苦しむこともなくなる。
終わりには贅沢すぎる報いだ。星に目を輝かせたまま思いを口にする。今までのように抑えていない声で。
「星一! 夜明けまで、踊ってみない?」
「バカだ」
ケラケラと笑う泥だらけの二人。上から下まで黒く汚くなっていた。声の大きさは考えなくなっていた。考えることは無駄だと気付いた。だからこそ思い切り笑う。死の気配が歩を進め、確実に近づいているのを横目にしながら。
「そういうときは、シャルウィーダンス? って聞くんだよ」
「そうかー」
自分よりも小さな体躯の少年が自分を引き上げる。そしてそのまま手を取り合い、体を支え合う。
世界の終わりに屋上でワルツを。終わってしまった日常の延長線上で。
「夜明けまで、なんて、無理に決まってるよ」
所々が掠れて聞こえない、彼の声が響く。
「じゃあ、このまま終わろう」
「このまま?」
「このまま、明るすぎるくらいの、星空のまま」
夜が明ける前に。夢であったこの景色と共に消える。最期に残る記憶として上々だった。夢のまま終わってしまえば、覚めることはない。いっそのこと、夢の中に閉じこもってしまおう。
経験者の彼は鼻歌でリズムを取ろうとする。その鼻歌は決して上手いとは言えなかった。それでも充分だった。途切れ途切れの音楽に合わせて、滅茶苦茶になりながらも動き続ける。
あの扉を強く叩く音がする。最早人ではない声が響き渡る。多くの足音が聞こえる。この時間ももう長くはない。奪う者がそこまで来ている。
不思議と恐怖はなかった。
二人の視線はその扉に注がれた。もうすぐあそこも開けられるだろう。ただの重いだけの扉なのだから。夢を叶えた少年は体の向きを直し、彼にしてもらったように手を差し出す。
星々は彼らを照らし、二人の足元に明かりをもたらす。泥と共に満ち満ちた少年達の顔が年相応の美しさを取り戻していた。
「シャルウィーダンス?」
「イエス、オフコース」
バン! と始まった音楽に合わせてワルツが始まる。先程までの貧相なBGMに、重い足音たちと何かを引き摺る音、唸り声のような無数の楽器が参加してくる。
二人の間に声はない。必要なかった。
その足取りは、何故か人工的に壊されたであろうフェンスに近づいていく。わざとタイミングをずらしてみたり、足を引っ掛けあったり。多くの熱狂的な観客に寄られながら、ゆっくりとされど確実に終わりに近付く。苦しくなるほど笑って、何がそんなにも可笑しいのか分からないまま、また笑って。笑い過ぎて涙が出るほどに笑って。
「ねぇ!」
「なに?」
「シャルウィーダンス、アゲイン、インザフューチャー?」
「ははっ。イエス、オフコース!」
そして仕上げに、二人は重力に従った。




