あなたにネコを飼う資格があるのかについて答えなさい。
「しっかりするんだ! しっかりするんだ!」
犬飼ダイスケは、ネコを抱いて商店街を駆けぬける。もう30代も半ばの犬飼だから、500メートルも走ったあたりでフラフラになった。
だが足を止めている場合ではない。
今朝、ペットのネコが吐いたのだ。
ニャーン。
ニャーン。
9歳の茶トラ。
昨日ぜんぜんゴハンを食べなかったので、おかしいと思ったのだ。水しか飲まなかった。なんだか元気もなさそうに見えた。
なにかおかしいと思い、明日には動物病院に連れて行くつもりだった。
そしたら翌日。
つまり今日だが、ネコは吐いた。青天の霹靂(A)である。
犬飼は驚きのあまり飛び上がり、大あわてでネコを抱いて走りだした。最近、商店街のなかに動物病院が開院したはずだ。
そこなら家から3キロも離れていない。
連れて行かねば、病院に連れて行かねば!
ネコを抱いて走る、走る。
「いま助けてやるからな! いま助けてやるからな!」
ネコを励ます犬飼。
なんとか助けてやりたい一心だった。いや、※錯乱状態だった。大切なネコを失うのではないかと恐怖した。
ネコはぐったりとしたまま動かない。ただし全力疾走する犬飼の腕のなか、振動でメチャクチャに揺さぶられている。
「ニャッ、ニャンッ」
切り刻むような鳴き声。
どうも犬飼の呼びかけに答えるというよりは、振動のせいで自然に声が漏れているだけのようだ。
「着いたぞお! ああ着いたぞお!」
やっと到着した。
新しく開業したばかりの動物病院だ。小ぢんまりした居ぬき物件だが、さすがに改装したばかりでキレイな外見である。
ウィイイン……
ドガシャン!
「痛え!」
自動ドアが開くのを待ちきれず、犬飼は体当たりをかます。自動ドアは安全装置によって止まってしまった。
中途半端に開いたスキマに、ぐいぐい体をぶつけながら院内に押し入る。まるでラグビーだ。腕のなかでネコは圧迫され、またニャンと悲鳴をあげた。
「ネコが吐いたんです! ああ、ネコが吐いたんです!」
メチャクチャに叫ぶ。
受付の女性はドン引きしながらも、興奮状態の犬飼をどうにか落ちつかせた。とにかく順番を待つように促した。
待合室のイスに、犬飼はようやく腰かける。ゼーゼー、ハーハー、もう息も絶え絶えだ。日ごろの運動不足のせいか、足はガクガクだった。
クリニックには、すでに先客がいた。
品のいい老婦人だ。
しかし、彼女は動物を連れていない。たぶん彼女のペットは、今まさに診療中なのだろう。だとすれば、次が犬飼のネコの順番なはずだ。
ゼーハー!
ゼーハー!
ニャーン。
ニャーン。
やかましい犬飼とネコ。
老婦人の視線は、珍しいものを見るかのようだった。
そこへ。
さっきの受付が、ボードとペンを持ってきた。
「こちらの問診票に記入をお願いします」
「も、問診……だってネコですよ!?」
おどろく犬飼。
も、問診票!?
「あ、はい。書いていただきます」
「いえ、吐いたのは私じゃなくてネコなんです!」
「わかってます、大丈夫です。みなさんに書いていただいてますので」
「そ、そんな! 私はネコで手がふさがって書けないんです!」
「キャリーは今日はお持ちじゃありませんか」
「キャリーって? 財布はあります! お金ならありますから、どうかネコを……!」
「あの、バッグです。ネコを入れるカゴはお持ちですよね」
「いいえ! ネコしか持ってきてません!」
「なぜ……じゃあ、どうやってここまで」
「家からネコを抱いてきたんです! ああ、抱いてきたんです!」
「……うちのケージをお貸ししますんで、そちらをご利用ください」
「は、はやく診てやってください。お願いします……!」
受付の人が、診察用のケージを持ってきてくれた。上下がぱかんと開く、小動物用のカゴだ。犬飼は泣きそうになりながら、ネコを慎重にケージに寝かせた。
ようやく両手が自由になった犬飼は、いそいで問診票を書き終える。
そして、ネコの入ったカゴを抱きしめた。
犬飼には、カゴが小さな監獄のように見えた。まるで虫かご……いや、ネコと自分を分断する鉄格子のように感じた。
哀れにもネコは、暴れる元気もなくケージに横たわっている。
ニャーン。
「ああ、ああ……」
犬飼は心配そうにカゴをなでる。本当ならケージから出して撫でてやりたい。だが触れると壊れてしまいそうな我がネコの小さいことよ。
苦しむネコに、犬飼はただただ無力だった。ただ診察の順番を、ひたすら待つことしかできない。まるで1分が1時間にも感じられた。
できることなら代わってやりたい。
自分には祈ることしかできない。
犬飼は無力感でいっぱいだった。なぜ自分は若いころに、獣医師を志さなかったのだろう。もし自分に獣医の資格があれば、自分がネコを診てやれるのに。
犬飼は、タイムマシンで過去の自分を殺しに行きたい気持ちになった。そして現在の自分も消滅するのだ。
いやいや。
「心配なさらないで。きっと大丈夫ですよ」
「は、はあ」
老婦人が、心配そうに声をかけてくれた。たぶん70代くらいの女性は、憔悴する犬飼をほっとけなかったのだろう。
「かわいらしいネコちゃんだこと。すぐに先生に見てもらえますからね。ここの先生は、こないだまで大きな病院にお勤めだったんですよ」
女性は犬飼を励ますように、ケージのネコをほめた。それに、病院の先生がたしかな腕だと教えてくれているようだった。
彼女の親切な言葉に、犬飼もどうやら落ち着きはじめた。
だが、話が病状のことになったのがマズかった。
犬飼はまた取り乱した。
「朝に吐いたんです、吐いたんです!」
「よくあることです。うちのネコも、ときどき吐くんですよ」
「お宅でもですか!? うちのネコは、吐くなんてはじめてで……水しか飲んでないのに吐いたんです。まるでマーライオン……!」
「よくあることです、心配いりませんよ」
「ほ、本当ですか……しかし、しかし……!」
「きっと大丈夫ですよ。ほんとに行儀のいいネコちゃんねえ、名前はなんておっしゃるの?」
「犬飼ダイスケです。信用金庫に勤めてます」
「あ、いえ。ちが……ネコちゃんのお名前は?」
「……え? はい?」
「……ネコちゃんのお名前です」
「名前って、ネコですか?」
「え?」
「え?」
「あの、ネコちゃんのお名前……」
「え? ありませんが……」
「……え?」
「え?」
「え、ちょっと待って。ネコちゃんに名前つけてあげてないんですか? そんなことないわよね?」
「つけてません……え、だってネコですよ? 名前なんかいります?」
「おほほ、面白いご冗談だこと!」
「……え?」
「……冗談でしょ?」
「名前はありません……ネコですし。え、お宅のネコは名前があるんですか?」
「当たり前です! 名前つけない人なんていませんよ!」
「いえ、うちではつけてません」
「じゃああなた、このネコちゃんをなんて呼んでるの!」
「オイ、とか。お前とかですが」
「あなたなに!? 本当にこの子を飼ってるの?」
「飼ってるかって……飼ってます。いやいや、よそのネコなわけないでしょう!」
「愛情は無いの!? ネコちゃんに!」
「バ、バカなことを……! ありますとも、だからこそこうして病院に!」
「じゃあなんで名前つけてないの!」
「名前をつけてなかったらネコを愛してないって言うんですか!」
「愛してるわけないでしょ!」
「愛してます!」
「あなたにネコを飼う資格なんかないわよ!」
ニャーン。
「お静かに願います! 高杉さん、モモちゃんの検査が終わりましたので、診察室にお願いします」
「す、すいません」
「すいません……」
ケンカになりそうだった2人だが、そろって受付の女性に怒られる。しゅんとなった老婦人は、促されるまま診察室へ入っていった。
待合室に残された犬飼も、さすがに反省していた。動物病院で言い争いなど、大人がすることではない。
ましてネコの名前などという、わけのわからないテーマの口論など……恥ずかしい。
「どうもありがとうございました」
「お大事になさってください」
さっきの婦人が、シャムネコの入ったキャリーバッグを持って、診察室から出てきた。ただちに会計をすませ、薬を受け取った。
「モモちゃん、さあ帰りましょうね」
婦人はわざと聞こえるように、ネコの名前を呼びつつ犬飼の横を通りすぎた。そして早々と去って行った。
犬飼はモモちゃんどころではない!
は、はやく順番が来てくれ……はやく呼んでくれ!
「犬飼さん、どうぞ」
「はははははい!」
名前を呼ばれるや、すさまじい速さで診察室に飛びこむ犬飼。あろうことか、ネコの入ったカゴを持っていない。
興奮のあまり、床に置いたままだった。
ネコを忘れて、手ぶらで診察室に入ってしまった。
「朝から吐いたんです! ネコが……あれっ?」
「犬飼さん、ネコネコ!」
「え、ああ! ネコ!」
受付の女性が、ネコを持ってきてくれた。
ニャーン。
ケージから出されたネコが、ただちに診察台に寝かされる。ふつうなら暴れそうなものを、ネコはぐったりしていた。
ニャーン。
とりあえず、まだ生きてる。
診察台をはさみ、若い獣医師が質問してきた。問診票を読みつつ、ネコの腹をやさしくなでる獣医師。
さすがにプロだけあって、なでるというより触診といった感じだ。
「えっと、朝から吐いたと?」
彼がこのクリニックの院長にちがいない。若いのに大したものだ。いや、今はそんなことどうでもいい!
犬飼は、若い獣医に取りすがるように叫んだ。
「朝から吐いたんです! ああ吐いたんです!」
「なるほど、ちょっとお腹が張ってますね。下痢はしてましたか」
「朝から吐いたんです!」
「なるほど。えっと、下痢は……」
「よくわかりません! ああわかりません!」
「なるほど、ちょっとお腹の音を聞いてみますね。もしかしたら胃の炎症かもしれません」
「昨日から水しか飲まないんです! 食事をしないんです!」
「なるほど、えっと犬飼さん。まずあの、心音を聞きますんで」
「朝から吐いたんです! マーライオンのように!」
「なるほど、あの犬飼さん。聴診器の音が聞こえないんで。あの……いや、待合室でお待ちください」
診察室を追いだされる犬飼。
どうしようどうしようと泣きそうになりながら、ふたたび待合室のイスに座った。
神に祈った。
人生ではじめて、犬飼は神に祈った。
なにとぞ、なにとぞネコをお助け下さい。
どうか……
そして10分も経っただろうか。
犬飼は、受付の女性に名前を呼ばれた。
「犬飼さん、診察室にどうぞ」
「はははははい!」
すごい速さで犬飼は診察室に飛びこんだ。診察台には、さっきのケージが置かれている。
そのなかにネコはいた。
だが。
だが、その姿はどうだ。
「ネコ! あああ!」
「ニャーニャー」
ネコはピンピンしていた。
犬飼を(イ)あざわらうかのように、軽快にケージの中でジャンプしているではないか。どったんばったん。
自分はもう大丈夫。
そうアピールしているようだった。
「綿ぼこりを飲みこんだことで、吐き気を(ロ)もよおしていたようですね。さっきまた吐いたんですが、ぜんぶ吐き出したみたいです」
若き獣医師の持つトレーに、ごっそりホコリの塊が乗っている。なんというか、子どもの握りこぶしくらいの大きさだ。
こんなものが胃に入ってたら、そりゃ具合も悪くなる。
「先生! ああ先生!」
「胃薬を出しておきますので、朝夕の食後に飲ませてあげてください」
「ああ、ありがとうございます先生! ありがとうございます」
「はいお大事に」
再三再四(B)、犬飼は礼を言って動物病院をあとにした。来たときと同じように、ネコを抱いてだ。
元気になったネコ。
よほど犬飼の腕の中が(ハ)ここちよいのか、ぐっすりと眠っている。まるで※全幅の信頼を寄せているように眠っていた。
ニャーン。
時計を見ると、まだ11時にもなっていない。
あれだけ大さわぎしたというのに、家を出てからまだ2時間も経っていなかった。
「あなたにネコを飼う資格があるのか」
筆者 古川アモロ
※ ※ ※ ※
あなたにネコを飼う資格があるのかの本文を読んで、以下の問題に答えなさい。
問1.
文中の(イ)(ロ)(ハ)を漢字で書きなさい。
(配点 各10点)
(イ) あざわらう ( )
(ロ) もよおす ( )
(ハ) ここちよい ( )
問2.
文中の(A)(B)の読みと、その意味を書きなさい。
(配点 各10点)
(A)青天の霹靂 ( )
( )
(B)再三再四 ( )
( )
問3.
文中の※の語句の意味を20字以内で説明しなさい。
(配点 各10点)
※錯乱状態
( )
※全幅の信頼
( )
問4.
犬飼が病院に来たとき、受付の女性はなぜドン引きしたのか。
次の選択肢の中からもっとも適当なものをひとつ選びなさい。
(配点 10点)
ア.犬飼がネコをキャリーに入れずに連れてきたから。
イ.犬飼がネコに名前をつけていなかったから。
ウ.犬飼が受付で叫びはじめたから。
エ.犬飼が自動ドアにぶつかったから。
問5.
なぜ老婦人が犬飼に怒ったのか、下の3語をすべて使って説明しなさい。
(配点 10点)
① 一般的 ② 不信感 ③ 見識
( )
問6.
文中で、直喩法が用いられている箇所を、2つ抜粋しなさい。
(配点 各5点)
( )
( )
問7.
作中の描写から、犬飼はどういう人間性の人物だと推察できるか。
次の選択肢の中から、ふさわしくないものをひとつ選びなさい。
(配点 5点)
ア.行動力があり、決して頭がよくないわけではない。
イ.情熱に対して、注意力や一般的常識が追いついていない。
ウ.正義のためなら、社会のルールを破ってもいいと思っている。
エ.非常に錯視的で、結果を考えない行動を取る。
問8.
ネコの飼い主に、犬飼と名付けた作者の意図はなにか。
次の選択肢の中から、ふさわしくないものをひとつ選びなさい。
(配点 5点)
ア.ネコの飼い主が犬飼だというギャップの面白さ。
イ.本文にネコという単語が頻発するため、まぎらわしくないように。
ウ.動物好きの主人公であると印象づけるため。
エ.犬なのかネコなのか? という導入部のつかみ。
問9.
文中から、ネコが犬飼を信頼している様子をあらわすシーンを抜粋し、またその根拠を記述しなさい。
(配点 15点)
( )
問10.
文中から、ネコが犬飼を信頼していない様子をあらわすシーンを抜粋し、またその根拠を記述しなさい。
(配点 15点)
( )




