間章(その3)『法と秩序、そして悪魔の爪痕』
間章『法と秩序、そして悪魔の爪痕』
冬木凪沙が奇跡的な生還を果たし、冬木邸が安堵の涙に包まれてから数時間が経過した。
依然として余韻が残るリビングで、藤原アキたち所轄の刑事と警官は、これ以上家族の時間を邪魔するべきではないと判断し、撤収の準備を進めていた。
「冬木先生、本日は本当にお疲れ様でした。家の周辺には念のため警官を配置しておきます。何か少しでも変わったことがあれば、すぐに私に連絡してください」
アキが静かに声をかけると、疲れ切った顔のしのぶが深く頭を下げた。
「ええ……。藤原さん、本当にありがとう。あなたたち警察が迅速に動いてくれたおかげよ」
「アキさん、色々と協力してくれて本当にありがとう!」
目を赤く腫らした美鈴と、その隣で深く息を吐く春一に見送られながら、アキは冬木家を後にした。
夜の冷気が肌を刺す中、アキは愛車のカーキ色のスズキ・ジムニーに乗り込み、エンジンをかけた。
向かう先は、東京湾岸の放棄倉庫街。
先んじて現場へ急行している先輩刑事、秋山剛造と合流するためだ。誘拐事件そのものはカレン・エンフィールドというイレギュラーな存在によって解決したが、警察としての仕事はここからが本番である。
ジムニーを走らせ、湾岸エリアに近づくにつれて、空気が異様な焦げ臭さを帯びてくるのがわかった。
現場に到着すると、そこはまるで映画のセットか、あるいは本物の戦場のような惨状だった。黄色い『KEEP OUT』の規制線があちこちに張られ、無数の赤色灯が暗闇を毒々しく照らしている。
防刃ベストを着込んだ警官たちが慌ただしく走り回り、救急車と鑑識の車両が所狭しと停まっていた。
「ひぃぃっ! あ、悪魔だ! 悪魔が軍隊を引き連れて俺たちを殺しに来たんだぁっ!!」
「いやだ、いやだぁっ! 身体が、あいつらの身体が弾け飛んで……っ!」
規制線の内側で手錠をかけられ、毛布を被せられている半グレ組織『リコリス』の生き残りたちは、一様に焦点の合わない目をし、狂ったように悲鳴とわめき声を上げていた。麻薬の禁断症状かと思うほどの錯乱ぶりだ。屈強な警官が数人がかりで押さえつけても、恐怖でガタガタと震え続けている。
「……何よ、これ」
アキは信じられない思いでその光景を見つめながら、規制線をくぐった。
「おお、来たか藤原」
パトカーの陰から、ひどく険しい顔をした秋山剛造が姿を現した。手には吸いかけのタバコが握られているが、全く吸っている様子はない。
「秋山さん、これは……いったいどういうことですか? ただの半グレ同士の抗争の跡じゃないですよね」
アキが問うと、剛造は重々しい溜息をつき、タバコを携帯灰皿に押し付けた。
「ああ。中を見た鑑識の連中も青ざめてたぜ。完全な、プロの軍隊による銃器戦闘の跡だ。アサルトライフルやフラッシュバンが使われた形跡があるばかりか……表にいた連中の中には、身体が文字通り『吹き飛んで』原型を留めてねえ遺体もあった」
「身体が、吹き飛んだ……? まさか、爆弾ですか?」
「いや、着弾の痕跡と肉片の散らばり方からして、極めて大口径の狙撃銃によるものだ。それこそ、対戦車ライフルクラスのな」
「対戦車ライフル……!?」
アキは驚愕に目を見開いた。
「そんな馬鹿な。この平和な日本の、東京のど真ん中で、対物兵器が使われたっていうんですか!?」
「ああ。俺も耳を疑ったが、事実だ。生き残っているリコリスのクズどもが口を揃えて『兵士が現れて蹂躙された』って喚いてる。詳しいことは後で取調室でたっぷりと搾り取るがな」
剛造は顎をさすりながら、さらに言葉を続けた。
「それとだ。例の『黒いライダー』もここに現れたらしい。俺が部隊を引き連れてこの倉庫街に向かう途中、すれ違ったんだよ。夜の街を爆走する、あのロイヤルエンフィールドにな」
「秋山さんも、見たんですか!?」
「ああ。運転していたのはヘルメットをしていない女で、後ろにはヘルメットを被った小柄な奴がタンデムでしがみついていた。一瞬だったが、運転していた女の顔は見えたぜ。プラチナブロンドの髪に、派手なメイクをした女だった」
その特徴を聞き、アキの脳裏に、先ほど冬木家の前に現れた少女の姿が鮮明にフラッシュバックした。
「……秋山さん。その黒いライダーは、凪沙ちゃんを冬木家に送り届けて走り去っていきました。高い確率で……いえ、間違いありません。あれは、カレン・エンフィールドです」
アキの断言に、剛造は眉間を深く揉んだ。
「お前が昼間に会ったっていう、あのイギリスから来た清楚な令嬢か? 俺もすれ違った瞬間は別人かと思って見逃しちまったが……あの太いアイラインに、耳やら唇やらの大量のピアス、それに黒のライダースジャケット。今思えば、完全にあのカレンお嬢さんだな。昼と夜で、あそこまで化けるとは恐れ入るぜ」
「ええ……本当に」
昼の姿の、誰もが振り返るような美しく可憐な深窓の令嬢。それが、夜になればあんな攻撃的でアウトローな姿へと変貌し、あまつさえこんな凄惨な戦場を駆け抜けている。
アキも、実際にこの目で見るまでは信じられなかっただろう。
「それに、だ」剛造が声を潜める。「少し離れたファーストフード店の近くの路地裏で、幹部である古川の焼死体が出た。車内に閉じ込められた状態で、ガソリンタンクから引火した爆発に巻き込まれたらしい。周囲の防犯カメラには、炎を背にしてバイクで逃走する例のライダーの姿がバッチリ映っていたよ」
「車内に閉じ込めて、爆殺……」
アキは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「俺たちは、とんでもない相手を敵に回しているのかもしれねえ」
剛造は腕を組み、夜空を見上げた。
「『エンフィールド』って名前に聞き覚えがあってな。本庁のデータベースの奥底を少し調べてみたら、真っ黒な噂の絶えない、世界的な巨大軍需産業貿易会社だった。もしその噂が本当なら……この日本にプロの傭兵を連れ込んだり、対戦車ライフルなんかの重火器を密輸することだって、不可能じゃない。どういうルートを使っているかまでは知らねえがな」
「……」
アキは唇を噛み締めた。
凪沙を無事に救出してくれたこと。そして、春一が必死に彼女を庇い、「根は悪い奴じゃない」と信じていること。アキ個人としても、大切な家族同然の少女を救ってくれた彼女には、心から感謝している。
しかし。
「……秋山さん。現行犯じゃないから今すぐ逮捕はできませんが、これだけの証拠と状況が揃えば、令状を取って強制捜査に踏み切れます。例のハンター350に仕組まれている偽ナンバー機構を調べれば一発でアウトですし、家宅捜索をかければ、犯罪に関わる証拠が芋づる式に出てくるはずです」
アキの瞳には、刑事としての揺るぎない決意が宿っていた。
「やるのか、藤原」
「やります。凪沙ちゃんを助けてくれたことには感謝しています。でも……ここは法治国家です。この国で、こんなマフィア顔負けの蛮行を許すわけにはいきません」
アキは拳を強く握りしめた。
「相手がどれほどの権力者で、どれほどの資産家だろうと関係ない。ここは日本です。彼女の母国や他の国のように、賄賂や権力で警察の目を誤魔化せると思ったら大間違いです」
その言葉に、剛造はフッと口角を上げ、「違いない」と短く同意した。
その時だった。
「秋山警部補! 藤原刑事!」
若い制服警官が、血相を変えて二人の元へ駆け寄ってきた。
「倉庫の奥のコンテナの隙間に、半グレの生き残りが隠れているのを発見しました! ですが、極度のパニック状態に陥っており……ショットガンを抱えて暴れています!」
「チッ、まだネズミが残ってやがったか!」
剛造とアキは顔を見合わせ、すぐさま警官の案内で現場の奥へと駆け出した。
倉庫の最奥部。サーチライトに照らされたコンテナの陰で、一人の男が目を血走らせ、周囲の警官たちに向かって銃口を振り回していた。
「来るな! 来るなぁっ! 悪魔め、俺の身体を吹き飛ばす気か! ぶっ殺してやる!!」
男の手にある無骨な銃火器を見て、剛造は舌打ちをした。
「やれやれ、立派なポンプアクションのショットガンだ。日本に長物を密輸するのは簡単じゃねえぞ。ロシアルートか、フィリピンルートか……あるいは、米軍基地からの横流しか。どっちにしろ、俺たち警察の捜査権限じゃ踏み込めない厄介な出処だろうな」
そんな愚痴をこぼしている間にも、男は狂乱状態で引き金に指をかけている。
「下がってください!」
アキは周囲の警官を制止し、ホルスターからニューナンブ(警察官用拳銃)を素早く抜き放った。
銃口を夜空に向け、一切の躊躇なく引き金を引く。
パーーーンッ!!
乾いた威嚇射撃の銃声が、倉庫内に響き渡った。
「武器を捨てなさい! それ以上抵抗すれば、あなたを撃ちます!」
アキは銃口を男に向け、鋭い声で警告した。
しかし、恐怖で完全に理性を失っている男の耳には届かなかった。
「うわあああああああっ!!」
男は絶叫とともに、アキに向けてショットガンの引き金を引いた。
ドンッ!!
散弾が放射状に放たれる。アキは瞬時に身を翻したが、完全に避けきることはできず、数発の散弾が彼女のスーツの肩口を掠め、布を切り裂いて微かに血が滲んだ。
「藤原っ!」
剛造の叫びを背に受けながら、アキは痛みで顔をしかめることもなく、冷静に照準を合わせ、引き金を引いた。
パンッ!
「ぎゃあっ!?」
放たれた銃弾は、男がショットガンを構えていた右腕を正確に撃ち抜いた。男が激痛に悲鳴を上げ、ショットガンが床にガシャリと落ちる。
その瞬間、アキは弾かれたように地面を蹴った。
男が痛みにうずくまる隙を与えず、一気に距離を詰めると、その身体を勢いよく男の胸ぐらへとぶつけた。
そして。
ゴォッ!!
アキの額が、男の顎を強烈にカチ上げた。完璧なタイミングの、容赦のない頭突きである。
「が、はっ……」
脳を激しく揺らされた男は、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「確保ぉっ!」
待機していた警官たちが一斉に飛び出し、気絶した男に素早く手錠をかける。
「馬鹿野郎!!」
剛造が足早に近づいてくるなり、雷のような怒声を浴びせた。
「無茶しやがって! 散弾がモロに当たってたらどうするつもりだったんだ!」
アキは肩を押さえながら、少しだけバツの悪そうな顔で苦笑した。
「すみません、秋山さん。かすり傷です。相手がパニックを起こしていたので、変に時間をかけるより一気に制圧した方が安全だと判断しました」
「たく……。昔、刑事になりたての頃にお前と連続殺人犯を追い詰めた時も、お前は無茶苦茶な突撃をして俺の寿命を縮めさせたのを思い出したぜ」
剛造は呆れたようにため息をつきながらも、アキの怪我が大したことないのを確認して、ホッと目尻を下げた。
「まあともあれ、藤原。俺たちの仕事はこれからだ。カレン・エンフィールドの裏付け捜査に、この大事件の事後処理……仕事は山積みだぞ。まだまだ油断ならねえからな」
「はい、了解しました」
アキは真剣な表情に戻り、力強く頷いた。
極東の島国で暴れ回る、規格外の黒薔薇の令嬢。彼女を法の裁きの下に引き摺り出すため、アキは痛みも忘れて、目の前に広がる夜の戦場の処理へと意識を集中させるのだった。
既に作品出来上がっているので、なるべく毎日投稿を心がけます。




