part 4
深夜の湾岸エリアから少し離れた、大通り沿いの深夜営業のファーストフード店。
その裏手にある薄暗い路地で、リコリスの幹部である古川は、壁に背中を預けて荒い息を吐いていた。
「ぜぇ……はぁ……っ、くそっ、なんだってんだ……!」
高級スーツは汚れ、オールバックに決めていた髪も乱れきっている。
古川の脳裏には、先ほどまで自分がいた放棄倉庫での光景が、悪夢のように焼き付いていた。
最初は完璧な計画のはずだったのだ。自分を刑務所の冷たい檻へと追いやった憎き女弁護士、冬木しのぶ。その復讐として、彼女の愛娘を拉致し、身代金を要求しつつ、最終的には性的玩具として凌辱し尽くしてやるつもりだった。女弁護士の絶望に歪む顔を想像するだけで、古川は最高の気分だった。
しかし、その目論見は、突如として現れた正体不明の戦闘集団によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
警察の特殊部隊などという生ぬるいものではない。対物ライフルという戦場に出るような狂った兵器を持ち出し、部下たちを文字通り「肉の破片」へと変えたのだ。
倉庫から這々の体で逃げ出す最中、古川は数え切れないほどの部下の遺体を見た。上半身が消し飛んだ者、コンテナの上から頭を撃ち抜かれた者、急所を的確に破壊され血の海に沈んでいる者。
あんなものは、半グレの抗争などではない。理不尽極まりない一方的な『蹂躙』だ。
「ヒッ……思い出しただけでも吐き気が……。いったいどこのどいつだ、あんなバケモノどもを雇いやがったのは……!」
古川は首を激しく振り、ファーストフード店の裏手から抜け出して、近くの路肩に停めてあった自分の高級セダンへと向かった。
無事にここまで逃げ延びたのだ。ひとまずはここを離れ、身を隠して体制を立て直さなければならない。
車のフロントガラスに目をやると、黄色い駐車違反の切符がベッタリと貼られていた。
「チッ……こんな時に、クソポリ公どもめ……!」
古川は苛立たしげに切符をむしり取って地面に投げ捨てると、乱暴に車のドアを開けて運転席に乗り込んだ。
鍵を回し、エンジンをかけようとする。
キュルルッ……キュ、キュ…………。
セルモーターが弱々しい音を立てるだけで、一向にエンジンがかからない。
「あぁ!? なんでだ! 動け、クソポンコツが!」
何度も鍵を回すが、車は沈黙したままだ。
古川が焦燥感に駆られてハンドルを叩いたその時。
スーツのポケットに入れていたスマートフォンが、無機質な着信音を鳴らし始めた。
画面を見ると『非通知』の文字。
古川は一瞬躊躇したが、逃げ延びた他の部下からの連絡かもしれないと思い、通話ボタンを押して耳に当てた。
『——ごきげんよう、半グレさん』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、冷たく、そしてどこか楽しげな、若い女の声だった。
古川の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
「てめえ……何者だ!?」
『あら。いきなりレディの名前を尋ねるなんて、随分と躾のなっていない犬ですわね』
女はふふっと上品に笑い、古川の怒声を軽くいなした。
「ふざけんな! てめえの仕業か! あの倉庫のバケモノどもは、てめえが差し金か!」
『ええ、そうですわ。驚かせてしまったのなら謝りますけれど……あなたは、我がエンフィールド家の可愛いペットに手を出してしまいましたの。裏社会でコソコソと這いずり回っているあなたなら、その名くらいは聞いたことがあるでしょう?』
「……エン、フィールド……?」
古川の動きが、完全に停止した。
エンフィールド。ただの不良やチンピラなら知らないかもしれない。だが、古川のように裏社会でシノギを削り、ある程度の地位にいる人間であれば、その名前の持つ『絶望的な意味』を知らないはずがなかった。
イギリスに本拠地を置く、伝統的な武器商人の一族。
表向きは世界有数の巨大な軍需産業貿易会社として振る舞いながら、その実態は世界中の軍隊、テロリスト、国家の裏側に兵器を卸し、戦争の火種をコントロールしている絶対的な権力者。
日本のヤクザや半グレ組織など、彼らからすれば路傍の石ころ以下の存在だ。
「う、嘘だろ……なんで、そんな雲の上の連中が……俺のシノギに……っ」
『真実を受け入れるのが遅いのは、三流の証拠ですわ』
電話越しのカレンの声が、一段と冷酷な色を帯びた。
『お別れの挨拶をさせていただきますわ。あなたがいない間に、少しその車に細工を仕掛けさせていただきましたの。もう、その車から出ることはできませんわよ』
「なっ……!?」
古川は慌てて車のドアノブを引き、外へ出ようとした。
ガチャガチャッ! ガンッ!
開かない。内側からのロックが完全に固定されているどころか、ドアの機構そのものが物理的に破壊され、ジャム(噛み込み)を起こさせられている。窓ガラスを叩いても、高級車特有の防弾仕様に近い強化ガラスが古川の拳を弾き返すだけだ。
『後ろをご覧なさい』
女の言葉に従い、古川は震える首をゆっくりと回し、バックミラーを覗き込んだ。
遠く、路地の奥の暗がり。
街灯のわずかな光に照らされて、黒いライダースジャケットを着たプラチナブロンドの少女が立っていた。
少女は片手にスマートフォンを持ちながら、もう片方の手でライダースのポケットから一本の煙草を取り出し、形の良い唇に咥えた。
そして、銀色のジッポライターを取り出す。
カチン。
暗闇の中で、オレンジ色の小さな炎が灯る。
少女は煙草に火をつけると、ゆっくりと紫煙を夜空に吐き出した。そして、まだ赤々と火種の残るその煙草を、指先で弾くようにして足元の地面へと落とした。
ボワッ!!
煙草が地面に落ちた瞬間、アスファルトの上を這うように、炎のラインが一気に燃え上がった。
炎はまるで生き物のように、導火線となって古川の乗る車へと向かって一直線に伸びてくる。
古川はそこでようやく気づいた。車内に微かに漂っていた、鼻をつくような揮発性の匂いに。
「ガ、ガソリン……!? てめえ、タンクに穴を……っ!!」
カレンは古川がファーストフード店で息を潜めている間に、この車のガソリンタンクの下部に穴を開け、さらにはドアが内側から絶対に開かないように細工を施していたのだ。車から漏れ出したガソリンは、緩やかな傾斜に沿って路地の奥——カレンの足元まで一直線に流れていた。
「開けろ! 開けろォォォォォッ!!」
炎が自らの車へと到達するまでの数秒間。
古川は発狂したように叫びながら、開かないドアを蹴り、窓ガラスに頭を打ち付け、血塗れになって命乞いをした。
しかし、バックミラー越しの少女は、ただ冷たく、人形のように美しい微笑みを浮かべてこちらを見つめているだけだった。
炎の先が、ガソリンタンクから漏れ出す液体の源流へと到達した。
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
深夜の街を揺るがすような、凄まじい大爆発。
古川の乗った高級セダンは、一瞬にして巨大な火柱を上げ、真っ赤な紅蓮の炎に包み込まれた。車体の破片が宙を舞い、熱波が路地裏の空気を歪ませる。
断末魔の悲鳴すら上げる暇もなく、一人の下劣な悪党が、東京の夜の闇の中で完全に消滅した瞬間だった。
その圧倒的な熱と光の暴力から少し離れた場所で。
カレン・エンフィールドは、燃え盛る炎にプラチナブロンドの髪を照らされながら、うっとりとした表情でその光景を眺めていた。
「Ah... what a beautiful sound. It's simply exhilarating.」
(ああ……なんて美しい音。本当に、最高に快感ですわ)
爆発の轟音と、パチパチと車体が焼け焦げる音。
それらを心地よい音楽のように聞きながら、カレンはほんのりと頬を紅潮させ、母国語であるブリティッシュ英語で悦楽の吐息を漏らした。
極東の島国で偽りの令嬢を演じる彼女の、心の奥底に眠る兵器商人の娘としての血。それが最高潮に満たされた夜だった。
サイレンの音が遠くから近づいてくるのを耳にすると、カレンは満足げに微笑み、くるりと踵を返した。
黒薔薇の令嬢は、燃え上がる復讐の炎を背に、再び誰にも知られることなく夜の闇へと溶けていった。
既に作品出来上がっているので、なるべく毎日投稿を心がけます。




