part 1
第五章『救出』
冬木家を後にしたカレン・エンフィールドは、愛車のハンター350のアクセルを限界まで捻り、夜の東京を弾丸のように駆け抜けていた。
ヘルメットのシールド越しに流れる街のネオンが、今の彼女にはただの不快な光の線にしか見えない。胸の奥でどす黒く渦巻いているのは、見ず知らずの半グレどもに対する苛立ちと、自分の手の届く範囲にある「日常」を土足で荒らされたことへの絶対的な怒りだった。
猛スピードで高級マンションの地下駐車場に滑り込むと、カレンは足早にエレベーターへと乗り込み、最上階の自室へと向かった。
暗証番号を乱暴に叩き込んで玄関のドアを開ける。
「あら、カレンお嬢様。お帰りが随分と早かったですね」
広々としたリビングでは、世話係のシャーロットがティーセットの片付けをしていた。だが、カレンが纏っている尋常ではない切迫した空気と、底冷えするような殺気に、シャーロットは即座に手を止めた。
「……お嬢様。友人のトラブルとおっしゃっていましたが、どうなさいましたか?」
カレンはヒールを鳴らして自室へと歩を進めながら、一切の感情を排した、氷のように冷たい声で指示を飛ばした。
「シャーロット。今すぐ本国のエンフィールド家、サイバー部隊に連絡を取って頂戴」
「サイバー部隊、ですか」
「ええ。日本の『冬木凪沙』という少女の現在の居場所と、『リコリス』という半グレ組織に関する全ての情報を収集させて。それと……ジャック兄様に暗号回線を繋いで。兄様の傭兵を手配したいの」
その言葉に、シャーロットはピクリと柳眉を動かした。
普段は極東の島国での退屈な生活をやり過ごし、夜な夜な不良ごっこをして遊んでいるだけの主が、本国最高峰のサイバー部隊、さらには次期当主の私兵を動かそうとしている。それはつまり、エンフィールド家の力を以て、明確な『戦争』を仕掛けるという意思表示に他ならない。
事の重大さを即座に察したシャーロットは、余計な詮索は一切せず、スッと目を細めた。
「……畏まりました、お嬢様。すぐにご用意いたします」
完璧なメイドは深く一礼すると、即座に手元の専用端末を操作し、本国へのハッキング網と通信網の構築を開始した。
カレンは自室のクローゼットに入り、忌々しい日本の高校の制服のボタンを乱暴に外して脱ぎ捨てた。
プリーツスカートも、清楚なブラウスも、今の彼女にはただの足枷でしかない。
カレンは黒いタンクトップを身にまとい、その上から長年愛用している使い込まれた黒のライダースジャケットを羽織った。鏡の前に座り、目元には太く鋭いアイラインを引き、昼間の可憐な令嬢の仮面を完全に塗り潰していく。
左耳にはジャラジャラと大量のシルバーピアスを飾り、形の良い唇にも冷たい輝きを放つピアスを通した。ライダースの袖の下では、両腕に刻まれた黒薔薇と茨のタトゥーが、持ち主の闘争心に呼応するように妖しく蠢いている。
これこそが、偽りのない彼女の本来の姿。
普段の夜遊びであれば、護身用のガングリップ式スタンガンと、ホルスターに忍ばせた数本のスローイングナイフで事足りた。チンピラを痛めつけるだけなら、それで十分すぎるからだ。
だが、今夜は遊びではない。血の匂いが立ち込める本物の殺し合いだ。
カレンは部屋の隅にある隠し金庫のロックを解除し、中から黒光りする無骨な鉄の塊を取り出した。
自動拳銃、グロック。
手にした瞬間に伝わってくる、冷たい鋼の感触と、微かに香るガンオイルの匂い。
エンフィールド家は、イギリスで誕生した歴史ある武器商人の家系であり、世界中の軍隊や裏組織に兵器を卸している巨大な軍需産業貿易会社だ。外交官レベルの特権と裏社会のネットワークを悪用すれば、この日本という島国に最新の銃器を密輸することなど、彼らにとっては息をするより簡単なことだった。
カレンは弾倉に9ミリパラベラム弾がフル装填されていることを確認し、スライドを引いて初弾を薬室に送り込む。そして、その重たい死神をジャケットの内ポケットへと滑り込ませた。
「お嬢様、ジャック様との回線が繋がりました」
リビングに戻ると、壁掛けの巨大なモニターに本国イギリスの映像が映し出されていた。
画面の向こう、豪奢なアンティークチェアに優雅に足を組んで座っていたのは、カレンと同じ透き通るようなプラチナブロンドの髪と、吸い込まれるような美しい碧眼を持つ青年だった。
彫刻のように整った顔立ち。彼がただ微笑むだけで、数多の女性が喜んで跪くほどの圧倒的な魅力を放っている。
彼こそが、エンフィールド家の若き重要人物であり、カレンが心から敬愛する実の兄、ジャック・エンフィールド。
今年で二十三歳になる彼は、若くして裏社会の血みどろの修羅場をくぐり抜け、世界中に武器を売り捌く底知れない実力者だ。そして同時に、純血主義が根強い一族の中で、あえて日本人の女性である美咲と結婚したという、なかなかに物好きな男でもあった。
「やあ、カレン。日本での生活は楽しんでいるかい?」
画面越しのジャックは、最愛の妹からの通信に、甘く優しい微笑みを浮かべてワイングラスを傾けていた。
「お兄様、ごきげんよう。単刀直入に言いますわ。お兄様の兵隊を、私に貸して頂戴」
カレンの切迫した、そして一切の迷いがない声に、ジャックはグラスの動きを止め、少しだけ目を丸くした。
「物騒だね。いったい極東の島国で何があったんだい?」
「私の友人が、リコリスという現地の半グレ集団に誘拐されましたの。これから私が直接救助に向かいます。確実にドブネズミどもを殲滅するために、手が空いている傭兵を回してほしいんです」
ジャックは驚きを隠せない様子で、モニター越しにカレンをまじまじと見つめた。
あの誇り高く、他人を見下して生きてきた問題児の妹。同国人の貴族にすら心を開かなかった彼女が、わざわざ異国の、しかもアジア人のために軍隊を動かそうとしているのだ。
「まさか……君が、アジア人の友達を作るとはね。驚いたよ」
ジャックは嬉しそうに目を細め、フッと微笑んだ。
「これなら、俺の妻の美咲とも上手くやっていけそうだ。彼女も君と仲良くなりたがっていたからね」
「もうっ、何でもいいですのでお兄様!!」
からかうようなジャックの言葉に、カレンは図星を突かれたように顔を赤くして声を荒らげた。
素直に『大切な友達だから助けたい』などと、この絶対的な自信家である兄の前で認めるわけにはいかなかった。カレンは本国にいた頃の傲慢な態度を取り繕い、ツンとそっぽを向いて言い放った。
「勘違いしないでくださいな! 彼女たちが極東のイエローモンキーだろうが、ジャップだろうが関係ありませんわ! 私はただ、この私を慕ってすり寄ってくる可愛いペットを、薄汚い連中に奪われたまま放置しておくような真似が許せないだけです! 私の所有物に手を出した代償は、血と命で払わせなければエンフィールド家の名折れですわ!」
必死に悪ぶって言い訳を並べ立てるカレン。だが、ジャックはその言葉の裏にある、妹の不器用な優しさと本質を完全に見抜いていた。
本当にただのペットだと思っているなら、わざわざ自分が前線に立つ必要はない。彼女は今、友人を傷つけられたことに対して、本気で怒り、本気で焦っているのだ。
「ふふ……いいだろう。可愛い妹の頼みだ。全力で支援させてもらうよ」
ジャックは妹の成長を喜ぶように優しく微笑むと、手元の端末を操作した。
「とはいえ、今すぐ本国から部隊を日本に送り込むことは地理的に不可能だ。だが運が良いことに、ちょうど日本の関東近郊で待機させていた俺の直属の兵隊が数人いる。彼らの指揮権を、一時的に君に移譲しよう」
「ありがとうございます、お兄様!」
ピコン、と。
リビングの別のモニターから、無機質な電子音が鳴り響いた。シャーロットが操作していたサイバー部隊からの情報解析が完了した合図だった。
「お嬢様。サイバー部隊より、目標の現在位置が送られてきました。東京湾岸エリアの放棄倉庫群。リコリスのアジトと完全に一致します」
「上出来よ、シャーロット」
カレンは画面越しの兄に深々と感謝のカーテシー(お辞儀)を示すと、すぐさま通信を切った。
黒のライダースジャケットを翻し、弾丸の装填されたグロックの重みを胸に感じながら、カレンは再び夜の街へと駆け出していく。
待ち受けるのは、理不尽な暴力と悪意が渦巻く敵地。
しかし、黒薔薇の令嬢の瞳に迷いは一切なかった。
(待っていなさい、凪沙。今夜、エンフィールド家の恐ろしさを、あの愚か者どもにたっぷりと教えてやりますわ)
地下駐車場に再び野太いエキゾーストノートが轟く。
カレンを乗せた黒い鉄の馬は、獲物を引き裂くための牙を剥き出しにして、深夜の東京湾岸へと一直線に飛び出していった。




