part 1
第一章『黒薔薇』
五月の上半期。
柔らかな春の陽射しが、東京の高級マンションの一室に差し込んでいた。
本国イギリスで数々の問題を起こし、父ジョンの逆鱗に触れたカレン・エンフィールドは、事実上の「島流し」としてこの極東の島国へとやってきていた。
ふかふかのベッドから身を起こし、大きなあくびを一つ。今日は、日本の高校の二年生として転校する初日だ。
洗面台の鏡の前に立ち、指定された見慣れない制服に袖を通す。メイクは日本の学校事情に合わせて、あえて薄めにしておいた。
鏡の中に映るのは、ロンドンの夜の街を暴れ回っていたワイルドな少女ではない。透き通るようなプラチナブロンドを揺らし、誰が見てもため息をつくような、完璧な「深窓の令嬢」としての姿だった。
「……忌々しいことですわ」
カレンは小さく毒づいた。これが本来の自分に向けられる世間の目録なのだが、窮屈で仕方がない。
リビングに向かうと、すでに香ばしい匂いが漂っていた。
ダイニングテーブルには、ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、焼きトマト、マッシュルーム、そしてトースト。シンプルな英国の伝統的な朝食——イングリッシュ・ブレックファストが完璧な配置で並べられている。
やはり、どれほど遠い異国へ飛ばされようと、慣れ親しんだ食生活だけはそう簡単には変えられない。
「おはようございます、カレンお嬢様」
それを手際よく用意してくれたのは、メイドのシャーロットだ。
カレンは席に着きながら、身内ならではの流暢なブリティッシュ英語で話しかけた。
「ねえシャーロット。毎朝こんなに凝った朝食じゃなくて、別にビーンズオントーストでも構いませんわ。……わざわざ、敬愛する兄様のご家庭から私のお世話に来るのは大変でしょう?」
本来、シャーロットはカレンが心から慕う兄・ジャックの専属世話係である。
ジャックは世界中を飛び回るビジネスマンであり、たまに日本人の妻・美咲とその十歳になる息子・湊に会うために日本へ立ち寄る生活を送っていた。シャーロットも普段は、その美咲と湊の世話をしているのだ。
「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫ですよ」
シャーロットは涼やかな微笑みを浮かべて紅茶を注いだ。
「奥様の美咲様から、『時々で良いから、妹のカレンさんをお世話しに行ってあげて』と命じられておりますので。それに、お嬢様の栄養管理も私の務めです」
「……お義姉様が。会ったこともないのに、お節介なことですわね」
ふいっとそっぽを向きながらも、カレンは出された朝食を優雅に平らげた。
「そろそろ行くわ」
食後、カレンは制服の上に愛用の黒いライダースジャケットを羽織り、玄関を出た。
地下駐車場に向かうと、そこには彼女の現在の愛機——『ロイヤルエンフィールド ハンター350』が静かに停まっていた。
「皮肉なことですわね」
ヘルメットを被りながら、カレンは一人呟いた。
本国イギリスでは、年齢の壁があって乗りたい排気量のバイクに乗れなかった。だからこそ偽造屋から免許を買い、足がつかないよう裏ルートで車体を仕入れたのだ。それがすべての騒動の発端である。
しかし、この日本では十六歳から堂々と中型バイクの免許が取れる。カレンはこちらに来てすぐさま本物の免許を取得し、合法的にこの鉄の馬を所持できるようになったのだ。
「これだけは、日本の良い所ですわ」
エンジンを吹かし、カレンは春の風を切って走り出した。
転校先は、東京都の北多摩地域にある『北多摩高校』。
校門を抜け、指定された駐輪場にバイクを停めると、登校中だった生徒たちの視線が一斉にカレンへと集まった。
「ねえねえ、美鈴ちゃん、春一くん! 見てよあの子、すっごく綺麗〜♪」
野次馬の中で、ボブヘアの少女——冬木凪沙が目を輝かせた。
「ほんとね。ハーフどころか、完全に向こうの人じゃない? それにあのバイク……ロイヤルエンフィールドね。ずいぶんシブいのに乗ってるわ」
ポニーテールの少女——秋山美鈴が、感心したように腕を組む。
「すっごいな……映画の撮影か何かかと思ったよ。転校生かな?」
二人の隣で、少年の桐生春一が圧倒されたように呟いた。
彼らがのちに深く関わることになるクラスメイトだとは、ヘルメットを脱ぎ、サラリとプラチナブロンドをなびかせたカレンは知る由もなかった。
(私は反省中の身。お父様の監視の目もあるでしょうし、この学校では大人しく猫を被って過ごしますわ)
彼女は内心でそう固く決意し、校舎へと歩き出した。
本作品は既に出来上がっています。毎日投稿出来るように心がけます。




