part 1
第四章『誘拐』
東京湾から吹き付ける潮風が、古びた港の倉庫群に生ぬるくまとわりついていた。
深夜の薄暗い倉庫内。半グレ組織『リコリス』のアジトの一つとして使われているその場所で、鈍い打撃音と苦悶のうめき声が響き渡っていた。
「……てめえら、集団でガキ一人囲んどいて逃がした上に、ボロボロにされて帰ってきただと?」
リコリスの幹部クラスである男――古川は、苛立ちを隠そうともせずに、血まみれになって床にうずくまる下っ端たちを見下ろした。
その中には、先日カレンによって左耳の耳たぶをスローイングナイフで吹き飛ばされたリーダー格の男もいた。彼は耳に分厚い包帯を巻き、ガタガタと震えている。
「ほ、本当なんです古川さん! 男子学生を追い詰めた時、突然、謎の黒いライダーが現れて……! そいつが、重てえバイクをまるで鈍器みたいに振り回して、俺たちを……っ!」
「冗談も休み休み言え、ポンコツが」
ドンッ!
古川は容赦なく、革靴の爪先で男の腹を蹴り上げた。
「ぐえっ……!」
「バイクで格闘するだの、ナイフを投げてくるだの……映画の見すぎか、クスリでもキメて幻覚でも見たか? まったく、使えねえクズどもだ」
古川は呆れたように短く息を吐き、オールバックにした髪を撫でつけた。
「まあいい。お前らの失態なんて、どうでもいいくらいに俺の気分は最高潮なんだからな」
古川の顔に、底知れぬ邪悪な笑みが浮かんだ。
「これから、ある『弁護士』の娘を誘拐する」
数年前のことだ。古川は、街で見かけた大人しそうな女子高生を気に入り、部下たちを使って拉致し、廃ビルで強姦した。被害者は恐怖で心を壊し、証拠も不十分だったため、古川は優秀な裏の弁護士を雇って無罪を勝ち取れるはずだった。
だが、被害者側についた当時の女性弁護士――冬木しのぶの執念が、それを阻んだ。彼女は泥臭く足を使って決定的な証拠を集め、古川を有罪にし、刑務所へとぶち込んだのだ。
「あのクソアマ……っ。俺の貴重な数年間をムショで奪いやがって……!」
古川の目に、ドス黒い憎悪の炎が宿る。
最近になってようやく刑務所からシャバに出た古川は、すぐさまリコリスの下っ端を使い、冬木しのぶの身辺を徹底的に調べ上げた。そして、彼女に高校生の娘がいることを知ったのだ。
「あいつの娘を拐って、身代金をふんだくる。それだけじゃねえ……あの高飛車な弁護士の娘を、俺が直々にたっぷりと可愛がってやる。犯して、痛めつけて、絶望に染まったその写真を、あのクソアマの弁護士事務所に送りつけてやるんだ!」
古川が狂気に満ちた声で叫ぶと、周囲のチンピラたちも下卑た笑い声を上げた。
「チラリと古川は部下たちを見回し、舌舐めずりをした。
「俺がたっぷりと楽しんだ後……お前らにもお下がりを楽しませてやるよ。極上の獲物だ、せいぜい期待してろ」
倉庫内に、男たちの悍ましい歓声が響き渡った。
†
その悲報がカレンの元に届いたのは、学校から高級マンションの自宅に帰った直後のことだった。
『カ、カレンさん……っ、どうしよう……! 凪沙が……凪沙が、拐われた……っ!』
スマートフォン越しに聞こえてきた秋山美鈴の声は、今まで聞いたことがないほど震え、涙声になっていた。
話を聞けば、下校中に一人になったところを、見知らぬワンボックスカーに無理やり押し込まれ、連れ去られたのだという。
現在、美鈴と春一は、警察の事情聴取も含めて冬木の実家に集まっているらしい。幼馴染として、そして家族ぐるみの付き合いがある彼らもまた、生きた心地がしていないのだろう。
「……すぐに向かいますわ」
カレンは電話を切るや否や、脱いだばかりの制服を再び身に着けてライダースジャケットを手に取った。
リビングを足早に横切ろうとした時、ちょうど身の回りの世話に来ていたシャーロットが怪訝そうな顔で立ちはだかった。
「Miss Karen, where are you going in such a rush? It's already late.」
(カレンお嬢様、そんなに慌てて何処へ行かれますの? もう遅い時間ですわ)
カレンは立ち止まることなく、ブリティッシュ英語で短く返した。
「My friend is in trouble. Don't wait up.」
(友人がトラブルなの。帰りは待たなくていいわ)
呆気にとられるシャーロットを置いて、カレンは足早に地下駐車場へと向かい、ハンター350のエンジンに火を入れた。




