part 3
翌朝。
春の柔らかい陽射しが、高級マンションの寝室に差し込んでいた。
桐生春一は、ふかふかのベッドの中でゆっくりと意識を浮上させた。
身体が妙にだるい。そして、隣から伝わってくる、やけに生々しい人肌の温もりと、甘い石鹸と香水が混ざったような匂い。
春一は寝ぼけ眼をこすりながら、ゆっくりと隣を見た。
そこには、透き通るようなプラチナブロンドの髪を散らし、スヤスヤと美しい寝息を立てているカレン・エンフィールドの姿があった。
しかも、シーツから覗くその白い肩には、何も布地が掛かっていない。
そして、自分自身の身体にも、何一つ身につけていないことに気づいた。
「…………えっ?」
数秒間のフリーズの後、春一の脳が状況を完全に理解した。
「ええええええええええええっ!?」
春一は弾かれたようにベッドから跳ね起き、頭を抱えて絶叫した。
「な、なんで!? なんで俺たち、やっちゃってんの!?」
その騒々しい声に、カレンは「んん……」と艶っぽい声を出してゆっくりと目を開けた。彼女は春一が慌てふためいているのを見ても全く動じることなく、シーツが滑り落ちて豊かな胸が露わになるのも気にせず、優雅に伸びをした。
「うるさいですわね、朝から……。だって、年頃の男女が一つ屋根の下、同じ部屋にいたら、そりゃあやるでしょう?」
「いや、やらねえよ! 普通は客室と寝室で別々に寝て終わりだろ! なんで俺の部屋に夜這いかけてきてんだよ!」
春一は顔を真っ赤にしてツッコミを入れた。
そう、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってくる。
カレンに「客室を使って泊まっていきなさい」と言われ、春一は緊張しながらも客室のベッドに潜り込んだ。リコリスの恐怖と、カレンの正体を知ったショックで眠れるわけがないと思っていたのだが……。
深夜、ガチャリとドアが開く音がした。
薄暗い部屋の中、ベッドに潜り込んできたのは、なんと一糸纏わぬ全裸のカレンだったのだ。
『なっ、カレンさん!?』
パニックになる春一の腰の上に、カレンはしなやかな動作で跨った。月の光に照らされた彼女の両腕の黒薔薇のタトゥーが、妖しく浮かび上がっていた。
カレンは春一の胸に手を這わせ、顔を近づけると、小悪魔のようにウィンクをしてペロッと舌を出した。
『私、東洋人の男ってまだ食べたことないんですの。味見させてくださる?』
その瞬間、春一の頭の中で理性が吹き飛んだ。
彼女の恐ろしい裏の顔への恐怖、清楚なお嬢様という幻想が壊れたショック、そして何より、ずっと好きだった女の子が全裸で自分に跨っているという圧倒的な状況。すべての感情が複雑に絡み合い、春一は「あ、ああ……っ」と情けない声を出すことしかできず、そのまま彼女のペースに完全に飲み込まれてしまったのだ。
「あーもう、俺のバカ……! 完全に流された……!」
頭を抱えてベッドの上でうずくまる春一を見て、カレンは「ふふっ」と楽しそうに笑い、ベッドから降りた。
「ごちそうさまでした。案外、悪くなかったわよ? それじゃ、私シャワー浴びてきますから。あなたも適当に着替えておきなさい」
カレンが鼻歌交じりにバスルームへ消えていくのを見送りながら、春一は深いため息をつき、昨夜脱ぎ散らかした自分の服を拾い集めた。
†
カレンがシャワーを浴び終えてリビングに戻ると、そこには見慣れたメイドの姿があった。
今朝早くに合鍵を使って入室してきたシャーロットが、手際よく二人分の英国風朝食――ベーコン、目玉焼き、焼きトマトにトースト――をテーブルに並べていたのだ。
カレンはあらかじめ、スマートフォンで「今日は友人がお邪魔しているから二人分の食事を」とシャーロットに伝えていた。
しかし、シャーロットの機嫌は最悪だった。
「Miss Karen, what peculiar tastes you have... sleeping with a monkey...」
(カレンお嬢様、あの猿と寝るなど、とんだ物好きですこと……)
シャーロットは紅茶を注ぎながら、春一には絶対に聞き取れないほどの小声のブリティッシュ英語で、ブツブツと呪詛のように呟いていた。
「Why on earth did she let a monkey from this Far East island into her room...」
(お嬢様はなんであんな極東の島の猿なんかを部屋に入れたのかしら……不潔極まりない)
他にも数々の侮蔑的な発言を並べ立てながら作業をこなすシャーロットを見て、カレンは(まあ、彼女の思想からすればしょうがないわね)と内心で肩をすくめた。
やがて、制服に着替えた春一が、どこか居心地の悪そうな顔でリビングにやってきた。
「お、おはようございます……」
春一が控えめにシャーロットに挨拶をするが、シャーロットはピクリとも反応せず、春一の存在がまるで空気であるかのように完全に無視して通り過ぎた。
カレンの向かいの席に座った春一は、身を乗り出して小声で話しかけてきた。
「な、なあカレンさん。あのメイドさん、挨拶しても完全に無視してくるんだけど……俺、何か怒らせるようなことしたかな?」
カレンはトーストにナイフでバターを塗りながら、事もなげに答えた。
「まあ、そりゃそうでしょうね。彼女、ガチガチの白人至上主義者ですのよ」
「えっ?」
「彼女にとって、日本人だけじゃなくアジア人全般は『動物園から逃げ出した、少し言葉を喋れるだけの猿』ぐらいにしか思っていませんわ。だから、あなたに挨拶を返すわけがないのよ。猿がキキーッと鳴いているのと変わらないんですから」
春一は絶句した。
「な、なんでそんなヤバい思想の人が日本に来てんだよ……!」
「言ったでしょう、お兄様の家族の世話と、私の監視役よ。仕事だから仕方なくこの国に滞在しているだけですわ」
カレンは紅茶を一口飲み、春一をジッと見て忠告した。
「一応、注意事項として言っておきますけれど。彼女、アジア人に気安く触れられるのを何よりも嫌がりますわ。もし間違って彼女に触れたら……腕の骨を容赦なくへし折られますから、絶対に気をつけてちょうだいね」
「えぇ……っ!?」
春一が恐怖で顔を引き攣らせてキッチンの方に視線を向けると、ちょうど作業の手を止めたシャーロットとバチリと目が合った。
シャーロットの瞳には、汚物を見るような、絶対的な冷たさと嫌悪感が宿っていた。
『何を見ていますの、薄汚い猿が』
言葉に出さずとも、その冷酷な視線からそんなメッセージがはっきりと伝わってきた。
(これが、カレンさんが言っていた例のメイドかよ……! エンフィールド家、ヤバい奴しかいねえ!)
春一はガタガタと震えながら、出された朝食を急いで胃に流し込んだ。
†
朝食を終え、二人はマンションの地下駐車場へと向かった。
春一は昨夜逃げ回っていたため、自転車も何もない状態だ。電車で帰ってから登校するには時間がギリギリだった。
「仕方ありませんわね。後ろに乗りなさい」
カレンは春一に予備で買ったシールドの付いていないジェット形のヘルメットを投げ渡した後、黒いライダースジャケットを羽織り、ハンター350のエンジンをかけながら顎で後部座席をしゃくった。
「え、でも、学校にバイクで二人乗りなんて……」
「遅刻するよりマシでしょう? ほら、早く」
春一は恐る恐る後部座席に跨り、振り落とされないようにカレンの細い腰に腕を回した。昨夜の肌の感触を思い出してしまい、春一の顔がカァッと熱くなる。
ハンター350は朝の通勤ラッシュの車列を器用にすり抜け、北多摩高校へと向かった。
校門前の通りに入ると、登校中の生徒たちの視線が一斉に突き刺さった。
「うそ、あれカレンさん!?」
「えっ、後ろに乗ってんの桐生じゃん!」
「なんだよあいつら、どういう関係!?」
イギリスから来た超絶美少女の転校生が、地味な男子生徒をバイクの後ろに乗せてタンデム登校。周囲がどよめかないはずがなかった。
指定の駐輪場にバイクを停め、春一がフラフラと降りたところに、ものすごい勢いで足音が近づいてきた。
「ちょっと、春一っ!!」
「カレンちゃん!!」
目を丸くして駆け寄ってきたのは、秋山美鈴と冬木凪沙の二人だった。
「なんでカレンと一緒に登校してんのよ! しかもタンデムって、どういうこと!?」
美鈴が春一の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「あ、いや、えっと! これには深い事情が……!」
春一は脳内をフル回転させ、必死で言い訳をひねり出した。
「け、今朝さ! 登校中に突然お腹が痛くなって、道端でうずくまってたら、たまたま通りかかったカレンさんがバイクで拾ってくれたんだよ! 歩くのも辛そうだったからって、見かねて後ろに乗せてくれて……!」
「そう、なんですの。彼、顔面蒼白で倒れそうでしたから、緊急措置として乗せてあげましたの」
カレンもすかさず完璧なお嬢様スマイルで話を合わせた。
「そ、そうだったんだ……春一くん、大丈夫?」
純粋な凪沙はすぐに信じて心配そうな顔をしたが、美鈴はジト目で春一を睨みつけていた。
カレンが先に「少し職員室に寄ってから教室に向かいますわ」と言ってその場を離れると、美鈴と凪沙はすかさず春一の両腕をガシッと掴み、駐輪場の隅へと連行した。
「ちょ、痛い痛い! 何するんだよ二人とも!」
「誤魔化せると思ってんの? あんた、カレンさんのこと好きなんでしょ!?」
美鈴が小声で、しかし鋭く追及する。
「なっ……!?」
「バレバレなのよ! 前にハンカチ渡した時だって、顔真っ赤だったじゃない! 正直に言いなさい、いつの間にあんなに距離縮めたのよ! もしかして、朝から家に行ったりしたわけ!?」
「そ、そうだよ! 春一くん、抜け駆けはずるい! 私だってカレンちゃんのバイクの後ろ乗ってみたいのにぃ!」
凪沙も羨ましそうに春一の背中をバシバシと叩く。
「ち、違うって! マジでただの偶然で……!」
(まさか昨日の夜、リコリスに殺されかけて黒いライダーに助けられて、そのままカレンさんの家でお泊まりして、あまつさえ全裸で押し倒されて童貞を捧げたなんて、絶対に言えるわけねえええええええ!!)
春一は真っ赤な顔をして必死に首を振った。
「俺とカレンさんは、そんな変な関係じゃないって!」
そんな春一の必死の抵抗を、遠くから見つめているカレンの姿があった。
カレンは自販機で買ったペットボトルの紅茶を口元に運びながら、友人たちに揉みくちゃにされている春一を見て、フッと妖しく、そして楽しげな笑みをこぼした。
(さて。これで私の『秘密』の共犯者が一人できましたわね)
極東の島国での退屈な令嬢生活は、カレンにとってますます面白く、そしてスリリングなものへと変わり始めていた。
既に作品出来上がっているので、なるべく毎日投稿を心がけます。




