Ⅱ
ノアは用事があると言って、厨房から出て行った。今、この場にはロルフとノアの同級生、クレアの二人きりだ。
若干の気まずさはあるものの、会話をしないことには何も進まない。年上であるロルフから話し掛けることにした。
「あ~……と、バレンタイン用の菓子が作りたい、だっけ?」
「は、はい! そうです!」
「何を作るかは決めてるのか?」
「えっと、その……できればエクレアを作りたくて……」
「エクレアか……」
「初心者にはやっぱり難しいでしょうか……?」
ノアがクレアは料理が苦手だと言っていた。どの程度の苦手具合なのかは分からないが、ひとまずロルフが横にいて、大きな失敗をすることはまずないだろうと判断する。
生地さえちゃんと膨らめば、例え見た目が悪くなったとしても、飾りつけでいくらでもカバーできる。その点で言えば、コツさえ掴んでしまえば、後は特に問題はないように思えた。
「まぁ……なんとかなるだろ。やってみるか」
「っ! はい! よろしくお願いします!」
クレアの丸くて大きな瞳が、ガラス玉のようにキラキラと輝いた。
その姿に、もしも妹がいたらこんな感じか……?と、そんなことを考えてしまったロルフであるが、その思考はすぐさま遥か彼方へと飛んで行く――とんでもない事態が発生した。
ロルフはクレアの”料理が苦手”という事実を甘く見ていた。
「――君はうちを燃やすつもりか……?」
今朝までは清潔な状態を保っていた厨房。それが今や見事なまでに悲惨な状態へと化していた。
シンクには焦げてすぐには使えなさそうな鍋や、洗う暇なく溜まっている調理道具達。作業台は粉にまみれ、所々チョコレートが飛び散っている。
極めつけは、焦げ臭くなった室内だった。最大火力で熱された鍋が火を噴き、危うく火事になりかけたのだ。
幸い誰も怪我せず事なきを得たが、未だ心臓がバクバクとしているのは、すぐには治まりそうもなかった。
クレアは大きな瞳に溢れんばかりの涙を浮かべ、下唇を噛む。眉を八の字に寄せ、震える声を発した。
「本当にごめんなさい……私のせいで……大事なお仕事場を、こんな……」
「あー、いや、今のは別に責めたつもりはなくてだな……とりあえず、怪我がなくてよかったよ」
こういう時、弟のノアならば気の利いた言葉の一つや二つ、すぐにかけてあげられるのだろう。しかし、ロルフには残念ながらそんな芸当は持ち合わせていない。
何の自慢にもならないが、人を笑わせた回数より怯えさせた回数の方が圧倒的に多い男だ。年下の、しかも異性相手を慰める方法だなんて、当然ロルフが知っているはずもなかった。
何か話題はないかと、ロルフは頭を必死に働かせる。
「……何で、作ろうと思ったんだ?」
「え……?」
「いや、ほら……苦手、なんだろ? なのに何で、挑戦しようと思ったのかが、気になって……」
目の前の惨状を苦手という言葉で片付けるにあまりにも無理があったが、それを口にしてはいけない……と、さすがのロルフでも理解できる。
クレアはきょとんとした表情で、潤んだ瞳をロルフに向けた。
そんな表情を向けられたことのないロルフは一瞬、胸がドキリとして、それを誤魔化すかのように慌てて口を動かした。
「あー、っと、バレンタイン用だって言ってたよな! 好きな男に渡すために決まってるか!」
「!」
何気なく発したロルフの言葉に、クレアの顏はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。その様子を、ロルフは思わず凝視してしまう。
「あ、あの……えっと……はい……」
恥ずかしそうに、少し俯きながら答えるクレア。耳まで赤く染めた彼女に、ロルフは好奇心でつい聞いてしまった。
「……付き合ってる、やつ?」
「え!? い、いえ、そんな……! 私の片想いですっ!」
「へぇ……」
それもそうか、とロルフは納得する。いくら菓子作りのためとは言えど、他の男と二人きりだなんて、相手が許すはずもないだろう、と。
だからこそ、思ったのだ。
「よっぽどそいつのことが好きなんだな」
「……え?」
そうでなければ、わざわざ苦手な料理に挑戦しようとも思わないはずだし、ロルフのような側にいるだけで恐怖を感じてしまう、威圧感ある人間に頼るわけがないからだ。
きっと藁にも縋る思いだったのだろう。自分ではどうすることもできない苦手をどうにかしたくて、ただその一心で。
ノアが彼女にロルフのことをどう説明したのかは不明だが、自分の兄ならば何とかするはずだ、とか何とか無責任なことを言ったに違いない……兄には分かる。
彼女もどうせ教わるなら、同性か、もしくはノアのような雰囲気の人間が良かっただろうに――
ロルフはそこまで考えて、ふと気付いた。
もしかしたら彼女の好きな相手というのは、弟のノアなのでは……?
二人が通う王立学校は、ここから少し離れている。学生が気軽に行き来できる距離ではなかった。
希望する生徒は学校近くの学生寮に入寮することができるため、ノアもそこから通っていた。
こんな下町の有名でも何でもない洋菓子店に、わざわざ彼女が足を運んだ理由。
いくらクラスメイトの実家だからとはいえ、同性ならまだしも異性の家に普通、赴くだろうか?
仮に他の相手が好きだったとして、休日に他の異性と出掛けたとなれば、本命に変な誤解を与えてしまう可能性があるだろう。そんなリスクを冒してまでここに来る理由が、ロルフにはないように思えた。
そもそも第一の根拠は、教わる相手がこんな人相の悪い男であるということだ。
今は仕事用の白い制服を着ているおかげで雰囲気がそこそこ緩和している(と思いたい)が、私服姿で裏通りなんて歩いた日には、間違いなく喧嘩を売られるか、恐れられるか、職務質問されるかの三択である。
そんな男に関わってまで作りたい菓子など、その男の弟であるノアに好意を寄せている以外、どうしたって考えられなかった。
好きな相手の家族だから、どんなに顏が怖かろうと(辛うじて)接することができる……いわゆる愛の力……?なんて、小っ恥ずかしい発想に達してしまったが、それが色恋に疎いロルフが導き出した答えだった。
だとしたら弟は相当この子に好かれていると見た。そしてまた、ノアも彼女を家に連れて来るということは、それだけ彼女に気を許しているのだと推測する。
ならば、この菓子が二人の未来を創るきっかけになるのではないだろうか。そう考えると、知らず知らずのうちにロルフはとんでもなく重要な役割を担っていることになる。
兄として、弟の色恋に巻き込まれてだいぶ複雑な心境ではあるのだが……致し方ない、青春真っ只中を生きる可愛い弟達のために、ロルフは一肌脱ぐことにした。




