Ⅰ
予期せぬ展開とは、突然やって来るものだ。
「――それじゃあ、兄さん、後はよろしくね」
「……は?」
それはとある小さな洋菓子店の厨房で交わされた、とある兄弟の会話だった。
「ちょ……ちょっと待て、ノア!」
兄であるロルフは弟の不可解な言動に、動揺せずにはいられなかった。
弟の名を呼び、この場から立ち去ろうとしているその背中を引き止め、一呼吸置いてからロルフは問う。
「……これは一体、どういうことだ?」
「え? やだなぁ、兄さん。今日の約束忘れちゃったの?」
不思議そうな顔をする弟のノアに、ロルフは益々混乱した。
そんな表情をされる理由が、ロルフには分からなかったのだ。
何故ならロルフには、見知らぬ少女と二人きりにされる約束など、した覚えがないのだから――
今しがた、厨房では弟と大して変わらない年頃の少女が、ロルフと共にこの場に取り残されようとしていた。
少女を連れて来た張本人は面識のない二人を置いて、さっさとこの場から立ち去ろうとしている。
ノアの言う約束とは一体――
弟の考えが読めず、兄の表情は険しくなるばかりだった。
兄弟の実家は中心街から少し離れた場所で、小さな洋菓子店を営んでいた。
長男であるロルフは王立学校を卒業後、実家を継ぐべく菓子職人としての腕を日々磨いていた。
今年で二十五歳になるロルフは、休業日である今日も試作品作りに没頭する予定だったのだが、数週間前に、今は王立学校に通う七つ年下の弟、ノアから予定を空けておいて欲しいと頼まれていたことを思い出す。
何でも、作りたい菓子があるからその指導をして欲しいという話だった。
弟はどちらかというと、職人より接客の方が向いている性格だったため、兄弟で厨房に並ぶことはほとんどなかった。
それ故に、珍しい頼みだとは思いつつも、ロルフはその件を引き受けた訳なのだが――
「兄さんってば、そんなに怖い顔しないでよ。彼女が萎縮しちゃうよ? ほら、こんなに震えちゃってる」
一体誰のせいで……と口を開きかけたロルフであるが、ノアの隣で顏を俯かせ、肩を小さく震わす少女の姿を見て、その言葉を飲み込んだ。
自分の顏が人よりも厳ついことは、十二分に理解しているからだ。初対面の相手は必ずと言っていいほど、この顏に恐怖を抱くらしい。
ついこの間も、話し掛けただけで、近所の子供達を泣かせてしまったばかりだ。そんな顏の男が、今は無言で睨むような態度を取っているのだから、彼女がそうなってしまうのも、当然の反応だと言えよう。
もしも今、この場に弟がいなければ、自分は確実に通報されていたに違いない。いやしかし、その弟がいなければ、こんな状況にも陥らなかったわけだが……。
「……ノア、ちゃんと説明してくれ。その子は誰だ? 今日は確か、お前の菓子作りを手伝うって話じゃ……?」
「彼女は僕のクラスメイトのクレアちゃんだよ。料理が苦手みたいなんだけど、もうすぐバレンタインだから、美味しいお菓子を作りたいんだって」
「……つまり?」
「そういうのは兄さんの得意分野でしょ? だから”彼女に”お菓子作りを指南してあげて欲しいんだ」
ニコニコとした表情でそう口にするノア。
ロルフはその笑顔の裏に隠された何かを疑わずにはいられなかった。
「お前……さては謀ったな?」
兄が人と関わることが苦手だと知っておきながら、断られないために、わざと大事な部分を伝えずにいたのではないか――
弟の表情がだんだんと黒く見えて来るのは、きっと気のせいではない。にっこりと笑みを浮かべるその表情は、まさに確信犯そのものだと言えよう。
「人聞きの悪いこと言わないでよ~。ちゃんと話を聞かなかったのは、兄さんでしょ?」
ノアの笑みが深まった瞬間をロルフは見逃さなかった。
思い返せばあの日――約束を交わした日、いつもより少しだけ仕事が忙しかった。通常業務に加え、バレンタインに向けての準備も同時に進めていたのだ。正直、忙しさにかまけてノアの顏をまともに見ず、適当に返事をしたような気がしないでもなかった。
それでなくとも、ロルフは仕事に熱中すると他のことが厳かになるきらいがある。それを当然熟知しているノアは、敢えてそのタイミングを狙って話し掛けて来たに違いない。
つまりは初めから、ノアの計算通りに事が進んでいたというわけだ。
ロルフは盛大に溜息をつきたくなった。
「あ、あのっ……!」
鈴を転がしたような声が耳に届く。
それは今まで兄弟の会話を聞いていた少女――クレアのものだった。彼女はロルフに向かって勢いよく頭を下げた。
「すみませんでしたっ! お忙しいのに、急にこんなことを……! 私がノアくんに無理を言ってお願いしたんです! 本当にごめんなさいっ!」
至極申し訳なさそうに、何度も謝罪の言葉を口にするクレア。そんな彼女にロルフは面を食らう。
その一方で、ノアはいつもと変わらない態度で優しく声を掛ける。
「クレアちゃんが謝ることなんてないよ? 僕の兄さんは普段ね、お菓子としか会話しないからさ。急にこんな可愛い女の子が現れて、戸惑ってるだけなんだよ」
「おいノア、ちょっと黙れ」
「ほら、照れてる」
ノアの軽口に、ロルフは頭を抱えたくなった。
どうして自分の弟はこうも兄を揶揄いたがるのか。今も戸惑っている兄の姿を見て、この弟は面白がっているのだろう。聞かなくても分かることだ。
そんな弟にはっきりと怒れない自分は、結局は弟に甘いのだと毎度ながらに思い知らされる。だからつけあがるのかもしれないが――
ロルフはこの日、改めてそう思わされたのだ。
「今更ダメだなんて、言わないよね? 兄さん?」
同じ親から生まれたというのに、自分とは対照的な、人好きのする顔立ちで笑みを浮かべ、実の兄に無言の圧を掛けて来る末恐ろしい弟。
断る選択肢など最初から用意されていなかったのだと、そう思わされるロルフであった。




