朝霧の中の侵入者-もどっていた居場所-
冬の朝の訪れは遅く、ロゼレイド公爵邸を包む空気は、深夜の嵐の名残を含んで凍てついていた。
「……おい、ジュリアン。本当にやるのか」
「兄上こそ、さっきから声が震えてるじゃないか。いいから来いよ」
の長男アルベルトと、弟ジュリアンは、まだ薄暗い廊下を音もなく進んでいた。
二人は一睡もしていなかった。昨夜、父ヴィンセントが雪まみれの体で、泥に汚れた「何か」を腕に抱き、取り付かれたような形相で帰還したあの光景。そして、自分たちの問いかけを一顧だにせず、マギーとクラウスだけを連れて客室に消えた父の背中が、どうしても頭から離れなかったのだ。
「父上は、あの『死神』と恐れられる親父がだぞ? 人を拾うなんて……しかも、マギーに『お嬢様』なんて呼ばせていた。どうせ、どこかの貴族の落とし子か、あるいは父上をたぶらかす不気味な魔物か何かじゃないのか」
「だから、こうして確かめに来たんじゃないか。朝食の席で紹介されるまで待てなんて、そんなの生殺しだ」
二人が足を止めたのは、邸内でも最高級の賓客を迎えるための客室の前だった。
しかし、その扉の前には、彫像のように直立不動で立つ影があった。メイド長の右腕であり、護身術の達人でもあるメイド、アンだった。
「――そこまでに。若君方、お引き取りを」
アンの温度のない声が、廊下の冷気をさらに冷え込ませる。
「アン、そこをどけ。父上が連れ帰った『拾い子』の顔を拝みに来ただけだ。俺たちはこの家の主の息子だぞ、入る権利くらいあるだろ」
「閣下より、お嬢様の安眠を妨げる者は何人たりとも通さぬよう、厳命を受けております。……若君方であっても、例外ではございません」
「お嬢様、だと……?」
アルベルトが眉をひそめた隙に、血気盛んなジュリアンが強引に扉に手をかけた。
「いいから、ちょっと見るだけだって!」
アンが腕を伸ばして制止しようとしたが、ジュリアンの体当たりがわずかに勝り、扉が音を立てて開いた。二人はそのまま、競うように室内へと踏み込んだ。
室内には、巨大な天蓋付きベッドが鎮座している。
最高級の羽毛と絹のシーツ。マギーが昨夜、細心の注意を払ってエレーナを寝かせ、その眠りを見届けたはずの場所だ。
しかし、二人が目にしたのは、整えられたままの、誰もいない空っぽのベッドだった。
「……いない? 逃げたのか!」
「馬鹿な、外はまだ吹雪だぞ。窓も閉まってる……おい、ジュリアン、あそこだ」
アルベルトが指差したのは、部屋の隅。重厚な本棚と、冷たい石造りの壁の間にできた、わずか三十センチほどの暗い隙間だった。
そこには、ベッドから引きずり出されたらしい羊毛の毛布が、不自然なほど小さく丸まって落ちていた。
「……あんなところに」
二人は恐る恐る歩み寄り、その隙間を覗き込んだ。
そこには――昨夜、マギーが必死の思いでベッドへ運び、温めたはずの少女が、シーツを体にきつく巻き付け、床に這いつくばるようにして丸まっていた。
「……嘘だろ。なんで、またあんなとこに……」
ジュリアンの口から、愕然とした声が漏れた。
隙間から覗くエレーナの肌は、透けるように白く、浮き出たあばら骨が呼吸のたびに微かに上下している。
丁寧に洗われたはずの銀髪は床に散らばり、彼女は無意識のうちに、自分の体をできるだけ小さく、できるだけ目立たないように押し込めていた。
「……おい、めちゃくちゃ細いぞ。これ、本当に人間か? 腕なんて、俺が指一本で折れちまいそうだ……」
「それに、小さすぎる……。何歳なんだよ、こいつ」
二人は息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。
彼らが想像していた「父を惑わす魔物」や「不敵な異能者」の姿は、そこには微塵もなかった。
いたのは、ただ、広い場所に出れば誰かに見つかり、殺されてしまうと本能で怯え、暗がりに縋り付いて眠るしかない、一人の壊れかけた少女だった。
彼女にとっては、王族が憧れる豪華な天蓋付きベッドよりも、この埃っぽい冷たい隙間の方が、唯一心を許せる「居場所」なのだ。その事実が、突き刺さるような異様さを持って二人の胸を打った。
「……なんでだよ。ベッドの方がずっと暖かいだろ。なんでわざわざ、こんな冷たい床で……」
「……怖いんだよ。きっと、すべてが」
アルベルトが震える声で呟いたとき、背後から氷のように冷たい声が降ってきた。
「――お楽しみのところ失礼いたします。若君方」
振り返ると、そこには手桶を手にしたマギーが、静かな、けれど凄まじい怒りを纏って立っていた。その背後には、任務を果たせなかった無念を滲ませたアンも控えている。
「マ、マギー……!」
「お二人とも、昨夜の私の忠告を、どの耳で聞いておられたのですか?」
マギーが歩み寄ると、二人は毒気に当てられたように後退した。マギーはエレーナのいる隙間を庇うように、二人の前に立ち塞がった。
「マギー、こいつ、また隙間に戻ってるぞ! せっかくお前がベッドに寝かせたんだろう? なんでこんな、意味の分からないことを……!」
「意味がない、とお思いですか? アルベルト様。……あの子にとって、豪華なベッドや清潔な部屋は、安らぎではなく、身の丈に合わぬ贅沢をしたとして『罰』を与えられる前触れのような、恐怖の象徴なのです。一度運んでも、眠りの中で無意識に、あの冷たく暗い場所を求めて這い出してしまう……。それが、あの子がこれまで生きてきた地獄の証明なのですわ」
マギーの言葉は、鞭のように二人を打った。
「閣下は、あの子の瞳の中に『可能性』を見出されました。ですが、その可能性が花開く前に、あの子の心はもう、粉々に砕け散っているのです。……そんなお方を、土足で覗き見ることが、ロゼレイドの次期当主たるお二人のなさることですか?」
「それは……」
「詳細は、朝食の席で。閣下が全てをお話しになります。……今はただ、お戻りなさい。そして、ご自身の目でご覧になったその『現実』を、よく噛み締めておくことです。あの子が受けてきた傷は、貴方たちがこれまで享受してきた幸福な一生を合わせても、到底理解できぬほど深いのですから」
マギーの有無を言わさぬ宣告に、アルベルトとジュリアンは一言も返せなかった。
最後に一度だけ、部屋の隅で消え入りそうに丸まる「小さな白い影」を振り返り、二人は逃げるように部屋を後にした。
廊下に出た二人の胸には、もはや好奇心など欠片も残っていなかった。
ただ、今まで知ることのなかった世界の底知れぬ暗闇と、そこに一人で立たされていた少女への、名前のつかない動揺だけが、重く渦巻いていた。
静まり返った室内で、マギーは膝をつき、毛布の塊にそっと手を触れた。
「……お嬢様。もうすぐ、夜が明けますわ」
ロゼレイドの長い歴史の中で、最も静かで、最も騒がしい朝が、今まさに始まろうとしていた。




