表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
• 『社交界の華は、影に咲く毒。〜私を捨てた世界、すべてお返しいたします〜』  作者: ヨォコ
黄金の瞳の覚醒

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/41

朝霧の中の侵入者-もどっていた居場所-

冬の朝の訪れは遅く、ロゼレイド公爵邸を包む空気は、深夜の嵐の名残を含んで凍てついていた。

「……おい、ジュリアン。本当にやるのか」

「兄上こそ、さっきから声が震えてるじゃないか。いいから来いよ」

の長男アルベルトと、弟ジュリアンは、まだ薄暗い廊下を音もなく進んでいた。

二人は一睡もしていなかった。昨夜、父ヴィンセントが雪まみれの体で、泥に汚れた「何か」を腕に抱き、取り付かれたような形相で帰還したあの光景。そして、自分たちの問いかけを一顧だにせず、マギーとクラウスだけを連れて客室に消えた父の背中が、どうしても頭から離れなかったのだ。

「父上は、あの『死神』と恐れられる親父がだぞ? 人を拾うなんて……しかも、マギーに『お嬢様』なんて呼ばせていた。どうせ、どこかの貴族の落とし子か、あるいは父上をたぶらかす不気味な魔物か何かじゃないのか」

「だから、こうして確かめに来たんじゃないか。朝食の席で紹介されるまで待てなんて、そんなの生殺しだ」

二人が足を止めたのは、邸内でも最高級の賓客を迎えるための客室の前だった。

しかし、その扉の前には、彫像のように直立不動で立つ影があった。メイド長の右腕であり、護身術の達人でもあるメイド、アンだった。

「――そこまでに。若君方、お引き取りを」

アンの温度のない声が、廊下の冷気をさらに冷え込ませる。

「アン、そこをどけ。父上が連れ帰った『拾い子』の顔を拝みに来ただけだ。俺たちはこの家のあるじの息子だぞ、入る権利くらいあるだろ」

「閣下より、お嬢様の安眠を妨げる者は何人たりとも通さぬよう、厳命を受けております。……若君方であっても、例外ではございません」

「お嬢様、だと……?」

アルベルトが眉をひそめた隙に、血気盛んなジュリアンが強引に扉に手をかけた。

「いいから、ちょっと見るだけだって!」

アンが腕を伸ばして制止しようとしたが、ジュリアンの体当たりがわずかに勝り、扉が音を立てて開いた。二人はそのまま、競うように室内へと踏み込んだ。

室内には、巨大な天蓋付きベッドが鎮座している。

最高級の羽毛と絹のシーツ。マギーが昨夜、細心の注意を払ってエレーナを寝かせ、その眠りを見届けたはずの場所だ。

しかし、二人が目にしたのは、整えられたままの、誰もいない空っぽのベッドだった。

「……いない? 逃げたのか!」

「馬鹿な、外はまだ吹雪だぞ。窓も閉まってる……おい、ジュリアン、あそこだ」

アルベルトが指差したのは、部屋の隅。重厚な本棚と、冷たい石造りの壁の間にできた、わずか三十センチほどの暗い隙間だった。

そこには、ベッドから引きずり出されたらしい羊毛の毛布が、不自然なほど小さく丸まって落ちていた。

「……あんなところに」

二人は恐る恐る歩み寄り、その隙間を覗き込んだ。

そこには――昨夜、マギーが必死の思いでベッドへ運び、温めたはずの少女が、シーツを体にきつく巻き付け、床に這いつくばるようにして丸まっていた。

「……嘘だろ。なんで、またあんなとこに……」

ジュリアンの口から、愕然とした声が漏れた。

隙間から覗くエレーナの肌は、透けるように白く、浮き出たあばら骨が呼吸のたびに微かに上下している。

丁寧に洗われたはずの銀髪は床に散らばり、彼女は無意識のうちに、自分の体をできるだけ小さく、できるだけ目立たないように押し込めていた。

「……おい、めちゃくちゃ細いぞ。これ、本当に人間か? 腕なんて、俺が指一本で折れちまいそうだ……」

「それに、小さすぎる……。何歳なんだよ、こいつ」

二人は息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。

彼らが想像していた「父を惑わす魔物」や「不敵な異能者」の姿は、そこには微塵もなかった。

いたのは、ただ、広い場所に出れば誰かに見つかり、殺されてしまうと本能で怯え、暗がりに縋り付いて眠るしかない、一人の壊れかけた少女だった。

彼女にとっては、王族が憧れる豪華な天蓋付きベッドよりも、この埃っぽい冷たい隙間の方が、唯一心を許せる「居場所」なのだ。その事実が、突き刺さるような異様さを持って二人の胸を打った。

「……なんでだよ。ベッドの方がずっと暖かいだろ。なんでわざわざ、こんな冷たい床で……」

「……怖いんだよ。きっと、すべてが」

アルベルトが震える声で呟いたとき、背後から氷のように冷たい声が降ってきた。

「――お楽しみのところ失礼いたします。若君方」

振り返ると、そこには手桶を手にしたマギーが、静かな、けれど凄まじい怒りを纏って立っていた。その背後には、任務を果たせなかった無念を滲ませたアンも控えている。

「マ、マギー……!」

「お二人とも、昨夜の私の忠告を、どの耳で聞いておられたのですか?」

マギーが歩み寄ると、二人は毒気に当てられたように後退した。マギーはエレーナのいる隙間を庇うように、二人の前に立ち塞がった。

「マギー、こいつ、また隙間に戻ってるぞ! せっかくお前がベッドに寝かせたんだろう? なんでこんな、意味の分からないことを……!」

「意味がない、とお思いですか? アルベルト様。……あの子にとって、豪華なベッドや清潔な部屋は、安らぎではなく、身の丈に合わぬ贅沢をしたとして『罰』を与えられる前触れのような、恐怖の象徴なのです。一度運んでも、眠りの中で無意識に、あの冷たく暗い場所を求めて這い出してしまう……。それが、あの子がこれまで生きてきた地獄の証明なのですわ」

マギーの言葉は、鞭のように二人を打った。

「閣下は、あの子の瞳の中に『可能性』を見出されました。ですが、その可能性が花開く前に、あの子の心はもう、粉々に砕け散っているのです。……そんなお方を、土足で覗き見ることが、ロゼレイドの次期当主たるお二人のなさることですか?」

「それは……」

「詳細は、朝食の席で。閣下が全てをお話しになります。……今はただ、お戻りなさい。そして、ご自身の目でご覧になったその『現実』を、よく噛み締めておくことです。あの子が受けてきた傷は、貴方たちがこれまで享受してきた幸福な一生を合わせても、到底理解できぬほど深いのですから」

マギーの有無を言わさぬ宣告に、アルベルトとジュリアンは一言も返せなかった。

最後に一度だけ、部屋の隅で消え入りそうに丸まる「小さな白い影」を振り返り、二人は逃げるように部屋を後にした。

廊下に出た二人の胸には、もはや好奇心など欠片も残っていなかった。

ただ、今まで知ることのなかった世界の底知れぬ暗闇と、そこに一人で立たされていた少女への、名前のつかない動揺だけが、重く渦巻いていた。

静まり返った室内で、マギーは膝をつき、毛布の塊にそっと手を触れた。

「……お嬢様。もうすぐ、夜が明けますわ」

ロゼレイドの長い歴史の中で、最も静かで、最も騒がしい朝が、今まさに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ