朝刊が運んできたスキャンダルの嵐
帝都の朝は、一通の新聞によって文字通り「爆発」した。
本来なら、稀代の悪女と蔑まれたイザベラ・ヴァルクレイの断罪劇が主役のはずだった。しかし、各紙の第一面を飾ったのは、そんな政治的事件を隅に追いやるほど衝撃的な、そしてあまりにも官能的な「スキャンダル」の写絵であった。
『獅子の略奪接吻:カイル第一王子、社交界の女王を強引に染め上げる』
『完熟した林檎:羞恥に震えるエレーナ嬢、そのあまりにも無防備な姿』
挿絵には、カイルがエレーナの細い腰を引き寄せ、逃げ場を奪うようにその艶やかな髪に顔を埋める瞬間が、驚くほど高精度な魔導技術で掲載されていた。その姿は、帝国中の平穏を、そしてロズレイド公爵邸の理性を木っ端微塵に粉砕したのである。
その頃、ロズレイド公爵邸の広大なダイニングは、外の喧騒が嘘のような、あるいは外の喧騒など「平和」に思えるほどの、凄まじい「殺気」と「沈黙」に支配されていた。
「………………」
義父ヴィンセントと実父ローレンスは、広げられた新聞を前に、石像のように固まっていた。
ヴィンセントの手の中にある新聞は、彼の握力によってミシミシと悲鳴を上げ、四隅から細かく千切れて床に落ちている。彼の背後には、もはや物理的な質量を持った暗雲のような闘気が渦巻いていた。
隣に座るローレンスも同様だ。彼が手にしていた銀のフォークは、いつの間にか結び目のように捻じ曲がり、もはや食器としての機能を失っていた。
その様子を、アルベルト、ジュリアン義兄たち、あるいはフェイはじめ屋敷の幹部たちが、息を殺して見守っている。
(((……アカン。完全に『キレる』一歩手前の、静かなる沸点に到達しとる……)))
フェイは冷や汗をダラダラと流しながら、心の中で絶叫していた。昨夜、あんなにも真っ赤になって震えていたお嬢様の姿を思い出せば、自分だってカイルの襟髪を掴んで問い詰めたい気分だ。だが、目の前の二人の「父」の怒りは、もはや次元が違った。
「カイル殿下……。あのような野蛮な行為を、公衆の面前で我が娘に……まさか新聞にデカデカと載るとは」
ヴィンセントの口から、地獄の底から響くような声が漏れる。
「殺す。……いや、一思いに殺すのは慈悲すぎる。まずは王宮の全予算を凍結させ、次に……」
「旦那様。スープが冷めてしまいますよ」
その極寒の空気を切り裂いたのは、執事長クラウスの淡々とした声だった。彼は主たちが放つ凄まじい殺圧など一切無視し、流れるような動作で最高級のコンソメスープを注いでいく。
「クラウス、お前はむかつかないのか! エレーナが、あんな野獣に、帝国中の前であんなことを……!」
ヴィンセントの叫びに、クラウスは眼鏡を指先で押し上げ、微かに微笑んだ。
「おやおや。旦那様方がフォークを壊しても、お嬢様の恥ずかしさは消えません。むしろ、お嬢様が起きてこられた際、そのような『般若』のような顔をなされていては、お嬢様がまた泣いてしまいますよ。……今は、マチルダ様による『浄化』を信じましょう」
「エレーナを泣かせる」という一言で、二人の父は一瞬にして毒気を抜かれたように脱力した。彼らにとって、娘の涙は国家滅亡よりも恐ろしい事態なのだ。
一方、同時刻の王宮。朝食会場は、優雅な食事の場ではなく、怒髪天を突いた王妃による「公開処刑場」と化していた。
「――この、バカ息子共がぁぁ!!」
ガシャーン!!
王妃エミリアが、怒りに任せて丸めた貴族新聞を、まずは長男カイルの顔面に叩きつけた。新聞はカイルの頬をかすめ、背後の高級な壁掛けを叩き割る。
「そもそもカイル! エレーナはまだお前のものでもない!!」
エミリアの怒声は、シャンデリアをびりびりと震わせた。
「傷心の令嬢に対して、あんな強引な真似……! 貴方はロズレイド家がどれほど娘を慈しんでいるか忘れたの!? 自分の所有物のように扱うなんて、十万年早いわ!! 私の、私の愛しいルチアの娘になんてことを!!」
エミリアは震える手で、今度はクロワッサンを次男クロードに投げつけた。「エレーナになんてことを……! 貴方たち兄弟は揃いも揃って、あの子をどれだけ泣かせれば気が済むのよ! 私の可愛いエレーナを!!」
「……母上、私は…………(グハッ)」
飛んできたパンを顔面で受け止めたクロードが弱々しく反論するが、エミリアの怒りは収まらない。しかし、肝心のカイルは、飛んできたパンを片手で受け流すと、平然とコーヒーを啜った。
「母上、朝から騒々しい。俺が俺の女を『俺のものだ』と宣言して、一体何が不都合なのです。当然の権利でしょう」
「な、なんですって……!?」
「昨夜、彼女は俺の腕の中で震えていた。あの瞳に映っていたのは俺だけだ。ロズレイド家がどれほど過保護だろうと、彼女を俺から引き離すことはできん。いずれ正式な手続きを踏む。早いか遅いかの違いです」
「このバカ息子は、ヴィンセントの恐ろしさを分かっていないのね!?」
エミリアが頭を抱えて絶叫する傍らで、皇太后リサーナは「あーっはっはっは! 見て、陛下! エミリアが食べ物を投げるなんて、建国以来の珍事だわ!」と、腹を抱えて笑い転げていた。
一方、皇帝は皿の上のサラダを異常なまでの集中力で細かく刻み続けていた。
(ヴィンセントが来る……。間違いなく、抜身の剣を持って殴り込んでくる……)
帝国のトップとしての威厳はどこへやら、彼は石像と化して現実逃避を決めていた。第四王子のテオドールにいたっては、ガタガタと震えながら「兄上たちがバカすぎて怖い……」と食卓の端で小さくなっていた。
そして、すべての被害者であるエレーナは、公爵邸のバスルームで人生最大の危機を迎えていた。
「……うう、もう嫌……お嫁になんて行けないわ……っ!」
エレーナは最高級の香油が浮かぶ湯船で、頭まで沈み込んでいた。だが、教育係マチルダの手により強制的に引き揚げられる。
「エレーナ、立ちなさい。まだ駄犬の匂いがしますわ。浄化が足りません」
「マチルダ様! もう昨夜から4回目よ! 肌が真っ赤になっちゃう!」
「それはお嬢様が、殿下のあのような破廉恥な行為を『思い出して』赤くなっているからではありませんか? メイド長、さらに氷を投入なさい。羞恥の熱を、物理的に叩き潰すのです」
「ひゃぅっ!! 冷たい、死んじゃう!!」
冷水と氷で洗われながら、エレーナは昨夜の出来事を必死に忘れようとした。だが、脳裏にはあの瞬間のカイルの黄金の瞳が、そして耳元で響いた「俺だけを見ろ」という低く甘い声が鮮明に蘇ってしまう。
(……あんな、あんな傲慢な人……。でも、どうして思い出すと、心臓がこんなに痛いの……っ!?)
顔は、氷水をぶっかけても冷めるどころか、さらに鮮烈な朱に染まっていく。
「来ないで!! 誰も来ないで!! 殿下も、お父様たちも、みんな嫌ーーーっ!!」
エレーナの絶叫が空しく響き渡る




