紅蓮に染まる林檎 ――羞恥の果てに崩れる女王の仮面―
静まり返った会場に、王妃エミリアの冷徹な声が響きました。
「……クロード。貴方のしたことは、王族として、いいえ、一人の人間として決して許されることではありません」
エミリアは、かつての慈愛に満ちた母の顔を捨て、一国の王妃としての「顔」で息子を見下ろしていました。彼女の瞳には、愛する息子への落胆と、守りきれなかったエレーナへの深い悔恨が混じり合っています。
「貴方は魔道具に操られていたと言い訳するのでしょう。けれど、その魔道具を付けさせたのは貴方自身の『疑念』と『弱さ』です。……エレーナ嬢を侮辱し、名誉を傷つけ、あまつさえその命を危険に晒した。この罪、王宮の法に照らせば、王位継承権の剥奪はおろか、幽閉すら免れませんわ」
「母上……私は……」
クロードは震える声で何かを言いかけましたが、その言葉は喉の奥で消えました。
「近衛騎士たちよ。この愚かな王子を連れて行きなさい。沙汰が下るまで離宮での謹慎を命じます」
エミリアの非情な宣告。衛兵たちがガシャンと鎧の音を立ててクロードに歩み寄ろうとしたその時、壇上の奥から、凛とした、しかし重みのある鈴の音のような声が制止をかけました。
「――待ちなさい、王妃よ」
声を上げたのは、皇太后リサーナでした。彼女は立ち上がり、ゆっくりと、しかし確かな存在感を放ちながら階段を降りてきます。その気迫に、周囲の貴族たちはモーゼの十戒のように道を開けました。
「皇太后様……。しかし、」
王妃が反論しようとしますが、リサーナは静かに手を挙げてそれを止めました。彼女はクロードの目の前で足を止め、その項垂れた頭を見つめます。
「……クロード。お前を今ここで連れ去り、冷たい石牢に閉じ込めるのは容易いことです。けれど、それでエレーナの傷が癒えるわけではありません」
リサーナは扇を閉じ、クロードの顎をくい、と持ち上げさせました。
「この愚か者への罰は、今すぐ下す必要はありません。……今日という日は、デビュタントの歳をむかえた者たちが社交界に立つ記念すべき日です。その晴れ舞台を、王族の逮捕劇という血なまぐさい結末で汚すことこそ、彼女へのさらなる侮辱ではありませんか?」
リサーナの言葉に、会場にいた貴族たちがハッとしたように顔を見合わせました。
「この者の処遇は、後日改めて審議しましょう。……クロード。お前に与える今の罰は、幽閉ではありません。己が傷つけた女性が、どれほど美しく、どれほど気高く、そして、どれほどお前にとって手の届かない存在になったのか。その目に焼き付け、ここで静かに見ていなさい。」
「祖母上……」
「それが、お前が犯した『愚行』に対する、唯一の慈悲であり、最も過酷な刑罰です」
リサーナの助け舟――それは、クロードを救うためのものではなく、彼に「後悔」という名の地獄を真っ正面から見せつけるための、熟練の女王による冷徹な配慮でした。
クロードは、震える膝をついたまま、嗚咽を堪えるように拳を握りしめました。自由を与えられたのではなく、彼は今、この社交界という名の檻の中で、最も残酷な「真実」を見せつけられる役割を担わされたのです。
皇太后は満足げに頷くと、視線をエレーナへと移しました。
「……さあ、エレーナ。いつまでそんな顔をしているのですか? 貴女を磨き上げたマチルダの努力を、無駄にするつもり?」
その挑発的な、しかし温かい声に、エレーナの肩が小さく揺れました。
静まり返った広間。皇太后の言葉を受け、エレーナはゆっくりと、折れそうだった背筋を伸ばした。
マチルダに、アルフォンスに、そして家族に。血の滲むような努力で叩き込まれた「気品」という名の鎧が、彼女の内に再び熱を帯びていく。彼女は乱れたドレスの裾を、指先一つ震わせることなく優雅に整えると、リサーナへ向けて完璧なまでのカーテシーを捧げた。
その動作はあまりに美しく、あまりに冷徹。
つい数分前まで「悪女」の汚名を着せられ、涙を浮かべていた少女の面影はどこにもない。
「――皇太后様。本日は私事で多大なるお騒がせをいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。……ですが、お陰様で素晴らしい余興を堪能いたしましたわ」
エレーナは顔を上げ、広場を見渡した。その瞳には、並み居る貴族たちを平伏させるほどの、静かなる覇気が宿っている。
「さあ、皆様。夜はまだ始まったばかりです。……デビュタントを続けましょう?」
「――何を悠長に構えている。エレーナ、今夜お前をエスコートしたのは、この俺だ!」
カイルの傲慢な宣言が広間に響き渡る。彼は、周囲から放たれるあらゆる制止と殺気をその圧倒的な覇気で踏みつぶし、エレーナの細い腰を強引に引き寄せた。
「あ……っ!」
衝撃に息を呑む間もなく、エレーナの体はカイルの硬い胸板に隙間なく押し付けられた。心臓の鼓動が重なり合うほどの異常な密着感に、会場中が静まり返る。
カイルは震えるエレーナの顎を力強く掬い上げ、逃げ場を塞ぐように顔を寄せた。黄金の瞳が、至近距離で彼女の魂を喰らうかのように燃えている。
「……お前をエスコートした理由がわかるか? エレーナ。……お前は俺の隣に立つのに相応しい、唯一無二の女だ。誰の指先も、視線すらも、お前には触れさせん。……俺を見ろ。 俺だけを見ろ、エレーナ。お前の瞳に映るのは、あの惰弱な弟でも、過保護な家族でもない。この俺だけでいい」
耳元で響く、熱く、甘く、低い帝王の囁き。
エレーナの思考は瞬時に白濁した。凛としていた女王の仮面は粉々に砕け散り、顔は耳の付け根からうなじまで、鮮血のような真紅に染まっていく。
カイルは彼女の反応を喉の奥で笑うと、衆道の前であることも厭わず、その艶やかな髪を指先で絡め取り、深く、深く、熱烈な接吻を落とした。
「お前は、俺のものだ。……忘れるな、死ぬまで俺の傍らで咲き誇っていろ」
「っ……あ……っ!!」
髪から伝わるカイルの唇の感触に、エレーナの理性は完全に焼き切れた。羞恥で潤んだ瞳からは涙が溢れ、熟れすぎて破裂しそうな林檎のような姿で、彼女はカイルの腕の中で震えることしかできなかった。
この光景を目の当たりにした貴族たちは、もはや理性を保っていられなかった。
「――っ、見た!? 今の見た!? 髪への接吻なんて、もはや婚姻の誓約も同然じゃない!!」
ゼルダは叫びすぎて扇を叩き折り、狂喜乱舞した。
「あああああ!! ご馳走様! 最高のご馳走様よ!! あの鉄の意志を持ったエレーナが、カイル殿下の毒に当てられてドロドロに溶かされてる! 殿下、そのまま食べちゃってーー!!」
「あぁぁぁ!! ..... エレーナが、兄様という名の猛獣に完食されちゃうよ!!」
テオドールが頭を抱えて絶叫する傍ら、貴婦人たちは扇を激しく仰ぎ、その瞳を欲望と興奮で爛々と輝かせた。
「……なんてこと。カイル殿下、あれはもう『慈しみ』ではなく『執着』ですわよ。あんな情熱的な独占欲、物語の中でもお目にかかれないわ!」
「見て、あのエレーナ嬢の姿を! 帝王に弄ばれて真っ赤に染まった、まさに『食べられかけの林檎』……。明日にはこのスキャンダル、帝国中のサロンがこの話題で爆発するわね!」
文官たちは「あ、終わった。明日からの政務はエレーナ争奪戦という名の戦場になる……」と悟った顔で、震える手でその歴史的瞬間を書き留めていた。
皇帝は、身を乗り出したまま、呆然と目の前の光景を見つめていました。
「……カイル。あやつ、あんな顔をするのか。……あれはもはやエスコートではない。獲物を仕留めた獅子の顔ではないか」
驚きつつも、どこか「帝国の後継者」としての凄まじい執着心に頼もしさすら感じている皇帝。
一方、皇太后リサーナは扇を優雅に広げ、その瞳に楽しげな光を宿していました。
「……ふふ、面白いわ。あんなに冷徹だったカイルが、あんなにもなりふり構わず一人の娘を欲しがるとは。エレーナ、貴女は本当に罪な女ね。……これで帝国も、しばらくは退屈せずに済みそうだわ」
リサーナは、カイルの暴挙を止めるどころか、この「極上のエンターテインメント」を最後まで見届けようと、満足げに微笑んでいました。
王妃エミリアは、扇を持つ手を震わせていました。
「……カイル、そこまでするの!エレーナ....あんなに顔を真っ赤にして……。あのような強引なやり方、まるで私の知る息子ではないわ」
カイルがこれまで見せたことのない「雄」としての本能を剥き出しにした姿に、母としての戸惑いと、エレーナへのさらなる同情を隠せません。
そして、何よりも残酷だったのは、王妃の後ろに座ることを許された……いや、「座らされている」だけのクロードでした。
「あ……ああ……」
目の前で、愛しい女性が、自分の兄によって蹂躙され、染め上げられていく。
本来なら、あそこに立って彼女を抱き寄せていたのは自分のはずだった。彼女の頬を赤く染め、その髪に唇を寄せる権利を持っていたのは、自分だったはずなのに。
「エレーナ……っ……」
クロードは立ち上がろうとしましたが、リサーナから放たれる「動くな」という無言の圧に、指先一つ動かすことができません。彼はただ、カイルの腕の中で完熟した林檎のように赤く染まり、涙を浮かべて震えるエレーナを、最前席の「地獄」から見せつけられるしかなかったのです。
自分の浅はかな行動が、彼女をあのような「猛獣」の手に追いやってしまったのだという、耐え難い後悔が彼を蝕んでいきます。
「…………チッ。野獣め」カミラの黄金の瞳からは瞬時にハイライトが消え、深淵のような虚無へと塗り潰されました。
短く、鋭く響いた舌打ち。それは、お嬢様の髪という「聖域」を汚した害獣への、処刑の合図でした。カミラの手は、ドレスの影に隠された暗器の柄に、吸い付くようにかけられていました。
(……指を落とすべきか、喉を裂くべきか。お嬢様のドレスに返り血を浴びせずに、この『不浄物』を無に帰す最短経路は……)
彼女の脳内では、すでに王族としてのカイルは存在せず、ただ「排除すべき肉塊」として認識してしまいました。カイルが放つ帝王の覇気すら、カミラの放つ「死そのもの」のような殺気の前では霧散していくようでした。
「……ほう。王族特権を利用した、極めて非論理的かつ暴力的な所有権の主張ですか。殿下。」
アルフォンスは、眼鏡の奥の瞳を凍りつくような冷徹さで細め、手に持っていた羽ペンが、みしりと音を立てて粉砕された。
マチルダは、扇をパチンと閉じ、極上の淑女の微笑みを浮かべたまま、一歩前に出ました。その気迫は、カイルの覇気を真っ向から押し返します。
「――あらあら。躾のなっていない野犬ほど、自分の縄張りを誇示したくなるものですが……。殿下、淑女の髪に無断で触れることが許させるとお思いですか!」
彼女の背後には、かつて多くの貴族を震え上がらせた「社交界の支配者」としての黒い影が渦巻いていました。
「殿下……! それは宣戦布告と受け取りますぞ!」
ヴィンセントの低い怒声が地鳴りのように響く中、フェイは不敬罪など知らぬとばかりにカイルの懐へ割り込みました。
「殿下! やりすぎです! お嬢様を離してください!」
フェイの瞳には、愛する主を護るという、一点の迷いもない狂信的な忠誠が宿っていました。彼は王子の腕を掴み取らんばかりの勢いで、力ずくでその支配を解こうとします。
アルベルトとジュリアン、シオンたちもカイルを睨みつけます。
「陛下!! ……ご覧の通り、カイル殿下のあまりに過ぎた振る舞いのせいで、我が娘はもはや正気を保つこともままならぬ状態でございます。……これ以上、『見世物』にするわけにはいきません」
会場が静まり返る中、ヴィンセントは一歩も引かずに続けます。
「……申し訳ございませんが、今宵はこれにて下がらせていただくことを、お許し願いたい。……娘の身にこれ以上の不名誉があれば、私はロズレイド公爵としてではなく、一人の父として『落とし前』をつけねばならなくなりますので!!」
それは事実上の、王族への宣戦布告に近い最後通牒でした。
皇帝はヴィンセントの凄まじい気迫に気圧され、リサーナもまた、面白がりつつも「これ以上は本当に血が流れるわね」と悟ったように頷きました。
「……ええ、認めましょう。ヴィンセント、エレーナを早く連れて帰りなさい。あの子の心臓が止まってしまっては、寝覚めが悪いもの」
「感謝いたします。……行くぞ、エレーナ。我が家へ帰ろう」
ヴィンセントの号令に、ロズレイド家の「最強の布陣」が即座に反応しました。
「お嬢様を汚した不浄な空気は、私がすべて切り裂きます。……さあ、こちらへ」
カミラが無機質な殺意をカイルに向けたまま、エレーナを抱きかかえるようにして守り、「お嬢様、俺が絶対に誰も近づけませんから! さあ、馬車へ!」
フェイがカイルを牽制するように剣の柄を握り、兄たちや幹部たちが周囲を鉄壁の陣で固めました。
エレーナは、父の上着に顔を埋めたまま、一度も顔を上げることができずに、光り輝く会場を逃げるように後にしたのでした。
背後には、すべてを失って立ち尽くすクロードと、獲物を逃した猛禽のような目でエレーナの背中を追うカイル。そして、「エレーナ様ーーー!!」と絶叫するゼルダの声を残して。




