崩れ去る虚飾 ―― 魔道具の呪縛と、冷徹なる守護者の刃
デビュタントの華やかな喧騒を扉一枚隔てた控え室。そこには、帝国の頂点に立つ者たちだけが許される、氷のように冷徹で、かつ濃密な空気が流れていた。
椅子に深く腰掛けた皇太后リサーナは、バルバトスから極秘に連送されてきた「荷物」を検分し、優雅に扇で口元を隠して喉を鳴らした。
「……ふふ、ふふふ。やるじゃない、カイル。あの子、ただの堅苦しい孫かと思っていたけれど、これほどまでに『粋な趣向』を凝らす術を覚えたのかしらね」
リサーナは、カイルの精鋭部隊に守られて派遣した魔導士と共に現れた紳士――ローレンスを、まるで最高級のヴィンテージワインを鑑定するような目つきで見つめた。
「間に合わないかと思って少し焦っていたけれど、まさかこのタイミングで、こんな劇的な形で連れてくるなんて。これを私への『プレゼント』だなんて言うんですもの……。本当に、あの子ったら私を喜ばせるツボを完璧に心得ているわ」
リサーナは満足げに立ち上がり、ローレンスの前で足を止めた。
「久しぶりね、ローレンス。準備はよろしくて? 貴方の家門を汚したあの毒婦を、一思いに地獄へ突き落とす準備は」
ローレンスは、ゆっくりと顔を上げた。その表情は一見穏やかだが、瞳の奥には決して消えない執念が燃え盛っている。
「……もちろんでございます、皇太后陛下。私の娘を雪の中に捨て、私を絶望のの淵へと追いやった……。挙句の果てに、今やあろうことか娘を『ゴミ』と呼ぶような奴……」
ローレンスは、地を這うような低い声で、しかし明確な殺意を込めて続けた。
「あのような化け物、この私が生かしておくはずがございません。文官としてペン一本で、あの女を絶望のどん底へ叩き落としてやります」
ローレンスはそのまま、皇帝の前へと深く跪いた。
「皇帝陛下! 折り入って、お願いがございます」
皇帝は、覚悟に満ちた忠臣の姿を見下ろし、厳かに問いかけた。「……なんだ、ロイス伯爵」
「はっ。……私は本日をもって、この『伯爵』の爵位をすべて帝国へ返上させていただきます。イザベラに『娘は死んだ』と告げられたあの日、私の伯爵としての心は死に、この地位も名誉も、もはや無くなったも同然でした。もはや一片の未練もございません」
会場が静まり返る中、皇帝が問い直す。「爵位を捨て、名もなき『ローレンス・ロイス』となって、どう生きるつもりだ」
「……私はただ、ヴィンセント殿のもとで立派に育ったエレーナのそばにいたいのです。あの子にとって、今はロズレイド公爵こそが父親。ならば私は、爵位を捨てた一人のしがない文官として、ロズレイド公爵家に身を寄せ、影からあの子を見守りたい……。それが、私の唯一の願いでございます」
皇帝は、その深い愛にふっと表情を和らげた。
「……わかった。認めよう。弟のヴィンセントも、君のような切れ者がそばに来るなら、きっと喜んで受け入れるだろう。今日より貴殿は自由だ。一人の父、ローレンス・ロイスとして、娘を守るがいい」
「――皇帝陛下、皇后陛下、ならびに皇太后陛下、入場でございます!!」
扉が跳ね上がり、会場に帝国の威光が満ちる。平伏する貴族たちの中、ロズレイド家幹部のフェイやカミラも、正装のまま鋭い視線で獲物を囲い込んでいた。
リサーナは鈴を転がすような声で告げた。
「皆、顔を上げなさい。……今日は帝国にとって喜ばしい日。まずはデビュタントを迎えた皆、おめでとう。そして――ロズレイド公爵令嬢、エレーナ。貴方の輝きは、この広間の誰よりも美しいわ」
その祝福を切り裂くように、イザベラが叫んだ。
「お待ちください、皇太后陛下!! その娘に、そのようなお言葉は相応しくありません! 王子殿下方をたぶらかす『ゴミ』が紛れ込んでおりますの!!」
カイルが冷徹に問いかける。
「……ほう。何を根拠に、彼女をゴミと呼ぶのだ?」
イザベラは勝ち誇ったように笑った。
「根拠? 決まっておりますわ! この娘は、十年前に行方不明になり、どこぞで野垂れ死んだ伯爵……卑しい男の種なのです! 偽りの血筋を隠してデビュタントに紛れ込むなど、万死に値しますわ!!」
「……ふふ、本当に面白いわね、貴様は」
リサーナの嘲笑と共に、皇帝が歩み出る。
「イザベラ。貴様は今、ロイス家の正統なる当主を『卑しい』と断じ、死んだと決めつけたな。……ならば、この男の顔をよく見るがいい」
皇帝が横へ退き、影からローレンスが姿を現した。彼がゆっくりとフードを脱ぎ捨てた瞬間、会場の空気が凍りついた。
「な……な、な!! なんで!! 貴方が!! ロイス伯爵……ローレンス様……!?」
イザベラは幽霊を見たかのように腰を抜かし、ガタガタと震えながら後ずさった。
「ありえないわ!! 行方不明になって、誰にも行方が分からなくなっていたはずよ!! なんで、生きてここに……!!」
「……ああ、イザベラ。お前が私に放った『娘は死んだ』という嘘を信じ、私は十年間、魂を失ったまま彷徨い続けた。誰にも見つけられず、ただ死を待つだけだった……。だが、カイル殿下が私を見つけ、教えてくださった。娘が生きていた、と」
ローレンスは、地を這うような低い声で引導を渡した。
ローレンスは一歩、イザベラへ歩み寄り、懐から一束の書類を取り出した。
「お前の伯爵家での悪事など、すべて証拠は揃っている!! ……そして、何より許せないのは、私の愛妻、ルチアのことだ! お前、彼女を事故死に見せかけて殺したな!!」
会場に激震が走る。イザベラは「ひっ……!」と短い悲鳴を上げ、言葉を失った。
「すべては、このロイス伯爵家を乗っ取るためだったのか。……だが、今日ですべて終わりだ。お前を、妻と私の十年の苦しみと共に、地獄へ連れて行く」
「ひっ……! 違う、私は……私は侯爵夫人よ!!」
絶体絶命のイザベラは、隣に立つ夫、ヴァルクレイ侯爵に縋り付いた。
「あ、あなた!! 助けて、あなた!! 何か言ってちょうだい! 私はあなたの妻でしょう!? 早く、この不審者を……!」
しかし、ヴァルクレイ侯爵の顔は、怒りではなく「恐怖」に染まっていた。
(……まずい。この女に深入りすれば、私の余罪まで捲られる!)
侯爵は、イザベラの腕を力任せに突き放した。
「――控えろ、この毒婦め!!」
「……えっ?」
「まさか、貴様が前妻を殺め、ロイス家を乗っ取っていたとは……! 私も騙されていたのだ! 恐ろしい女だ、すべては貴様が一人で仕組んだことなのだろう!?」
「なっ……何を……! あなただって、一緒に……!」
「黙れ! 衛兵! 早くこの大罪人を連れて行け! ヴァルクレイの名を汚した罪、万死に値するぞ!」
侯爵の冷酷な言葉に、イザベラは言葉を失い、魚のように口をパクパクとさせた。その姿を、皇太后リサーナは「見事な泥仕合だわ」と冷ややかに見下ろした。
絶叫しながら引きずり出されていくイザベラ。
イザベラの絶叫が消え、会場に再び静寂が訪れた。
しかし、その静寂は次の嵐を予感させた。
「……次に、お前よ、バカ息子!!」
エミリア王妃が、悲痛な、しかし激しい怒りを込めた声で、フェミリアに操られたままのクロードを真っ直ぐに見据えた。
「いい加減に目を覚ましなさい!そんな魔道具に操られて、いつまで情けない姿を晒すつもり!!」
王妃の叫びが響き渡った瞬間、リサーナ皇太后がわずかに頷いた。
その合図と共に、会場の四隅に控えていた宮廷魔導師たちが一斉に前に出る。
「展開せよ、浄化の魔法陣!!」
リサーナの凛とした声と共に、魔導師たちが地面に複雑な紋様を描き出し、光の粒子が舞い上がる。リサーナ自身もまた、両手を広げ、魔導師たちと共鳴するように、壮大な魔法陣の中心へと歩みを進めた。
煌めく光がクロードを包み込み、フェミリアの呪縛が解き放たれようとしていた。
「……あ、あああああ!!」
皇太后リサーナと魔導師たちの展開した黄金の魔法陣が、広間を昼間のような光で満たした。クロードの首筋に浮かび上がっていた黒い紋様が光に焼かれ、霧散していく。
フェミリアの手元で、魔術具がパキィィィン!と音を立てて砕け散った。
「そ、そんな……私の魔法が……!」
フェミリアが絶望に顔を歪める中、正気を取り戻したクロードはその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。濁っていた瞳に知性の光が戻り、彼が今日まで自分が犯してきた、信じがたい蛮行の数々が記憶の濁流となって押し寄せる。
「……私は、私はなんてことを……! エレーナ!!」
「……許さない。あんたさえいなければ、私は王妃になれたのに!!」
すべてを失ったフェミリアは、隠し持っていた短剣を抜き放った。
「エレーナーーーッ!! 死ね!!」
「エレーナ!! 逃げてーー!!」
ゼルダが、喉を枯らさんばかりに叫ぶ!
「エレーナっ!!」
同じくテオドールも、椅子を蹴立てて身を乗り出した!
そして、覚醒したばかりのクロードも、ふらつく足取りを叱咤し、叫びながら走り出した。
「エレーナ、危ないっ!!」
自分の命を盾にしてでも彼女を守る――その必死の後悔が、彼を突き動かした。
カイル、フェイ、そして二人の父親、配置していた幹部たち全員が動こうとした――。
しかし、その誰よりも早く、一筋の影が風を斬って割り込んだ。
カミラである。
ドレスの裾を翻したかと思うと、太腿のホルダーから抜き放った暗具でフェミリアの腕を強かに打ち据え、短剣を宙に弾き飛ばす。そのまま流れるような動作でフェミリアを床に組み伏せ、膝で背中を完璧に抑え込んだ。
「お嬢様に刃を向けるとは……。しかも、皇帝陛下の御前を汚し、不敬を働くなど! 」
カミラの低く、地を這うような怒りの声。フェミリアが床に押し付けられたまま喘ぐ中、エレーナは一瞬、肩を小さく震わせ、恐怖に瞳を揺らした。
(……怖い。でも、マチルダ先生のの教えを汚すわけにはいかない!)
エレーナは大きく深く、一度だけ呼吸を整えた。そして、カミラの横を通り過ぎ、這いつくばるフェミリアの前へと歩み出た。
エレーナは震える手で優雅に扇を開き、口元を隠した。ビクッと震える足先をドレスの裾で隠し、その立ち姿は恐怖を微塵も感じさせないほど、凛として気高い。
「……フェミリア・ヴァルクレイ。あなたは、やってはいけないことをやったのよ」
低く、しかし会場の隅々まで通る澄んだ声。
「私は幼い頃、あなたから数え切れないほどの嫌な思いを受けてきました。けれど、私は耐えました。家族だと信じたかったから。……けれど、あなたは、無実のクロード様まで魔術具で操り、その誇りを奪い、私を、そして帝国をどん底に落とそうとした。その罪、決して許されるものではありません」
エレーナは扇をパ極、と閉じ、フェミリアの瞳を真っ向から見据えた。
「今度は、あなたの番です。あなたがこれまで多くの人に与えてきた痛みを、罪として償いなさい。……救いようのない絶望の中で、一生をかけてどん底へ落ちていくがいいわ」
「あああああ! 嫌っ! 私は王妃になるはずだったのよ!!お父様!ジュリアスさまぁぁ」
醜い叫びを上げながら衛兵に引きずり出されていくフェミリア。イザベラも、そして彼女も、もう二度とエレーナの前に現れることはない。




