女王の陣列と獅子たちの咆哮
離宮の応接間「紫晶の間」は、今や祝祭の場ではなく、敵陣を壊滅させるための「本営」と化していた。窓の外では雪が静かに降り積もっているが、室内の空気は火薬のような危うさを孕んでいる。
「……あり得ぬ。あってはならぬことだ」
皇帝が絞り出すように言った。その目の前にあるのは、デビュタント会場の精密な模型だ。
本来、今夜のシナリオは完璧なはずだった。第2王子クロードが、ロズレイド公爵家の長女エレーナをエスコートし、二人の婚約を暗黙のうちに帝国中へ知らしめる。それが、第1王子カイルが国を継いだ後の、帝国の盤石な安定を約束するはずの儀式だった。
「クロードが……よりによって、あのような素性も知れぬ小娘の毒に当てられ、エレーナ嬢との義務を放り出すなど。これは単なる不祥事ではない。ロズレイド家に対する宣戦布告と同じだ」
皇帝の隣で、王妃は青ざめ、震える手で扇を握りしめている。
「陛下、お静まりください。……ですが、事態は深刻ですわ。今、会場ではフェミリア嬢がクロード様の腕を取り、まるで自分が次期王妃であるかのように振る舞っていると報告が入っています。エレーナ嬢が現れなければ……ロズレイドの面目は丸潰れです」
「面目だと? 笑わせるな」
窓際に立つヴィンセント・ロズレイドが、振り返ることなく冷たく言い放った。その背中からは、近寄る者すべてを切り刻むような殺気が溢れている。
「我が娘、エレーナが今夜受けている屈辱……。それはロズレイドの血に対する冒涜だ。陛下、カイル殿下が外交先で足止めを食らっている今、クロード殿下のこの失態をどう購うおつもりか」
「ヴィンセント、それは……」
皇帝が言葉に詰まったその時、重厚な扉が音もなく開き、皇太后リサーナが優雅に、けれど圧倒的な威圧感を持って入室してきた。
「あら、皆様。そんなに情けないお顔をして。……準備は、わたくしがすべて整えておきましたわ」
リサーナは手に持った黒い扇を模型の上で広げた。
「陛下。クロードが術にかかっているのなら、それを解けば済むこと。……ですが、単に正気に戻すだけでは『準備』としては三流ですわね。わたくしは、隠密魔導師たちに命じ、大広間のシャンデリアと、あの娘が立っているであろう主賓席付近に、不可視の『真実の鏡』の魔法陣を仕込ませました」
リサーナの瞳に、かつて帝国を震撼させた「氷の女帝」の冷酷な光が宿る。
「わたくしが合図を出した瞬間、会場全体に浄化の光が降り注ぎます。フェミリアの『魅了』の術は、その浅ましさごと、全貴族の目の前で焼き払われる。……術から解けたクロードが、どれほど無様で、どれほど残酷な裏切りをエレーナに働いていたか。それを『全帝国に見せつける』こと。それが、今夜わたくしたちが整えるべき、最高に華やかな処刑台ですわ」
「リサーナ様、その計略、私も乗らせていただきいてもいいですか?」
廊下から響いたのは、金属の擦れる冷たい音。
現れたのは、純白の騎士礼装を纏ったアルベルト・ロズレイドだった。一分の隙もないその立ち姿、腰に下げた宝剣。彼は皇帝の前で跪くことさえせず、傲然と立ち塞がった。
「アルベルト……お前、任務はどうした」
ヴィンセントの問いに、アルベルトは不敵な笑みを浮かべた。
「エレーナが泣いているというのに、任務など。……陛下、父上。今夜、エレーナの隣に立つ予定だったクロード殿下は、すでにその権利を自ら放棄されました。あのような泥棒猫に搦め取られるような情けない男に、私の可愛いエレーナの隣に立つ資格はありません」
アルベルトは、自らの手袋を締め直しながら、一歩前へ出た。
「今夜、エスコートは私が務めます。……ロズレイドの長兄として、王子たちなど足元にも及ばぬ格の違いを見せつけてやります。カイル殿下を待つ必要もありません。……エレーナが一人で現れれば『捨てられた』と囁かれ、親が立てば『過保護だ』と笑われる。ならば、帝国最高の騎士であるこの私が彼女を導くのが、最も美しく、最も残酷な『準備』となるでしょう?」
「アルベルト、お前……」
「父上。会場の出口には、すでに私の白銀騎士団を配置しました。術が解けた瞬間、フェミリアとその背後で糸を引く連中を、ネズミ一匹逃さず捕縛します。……陛下、、いや叔父上!どうかお願いです。今夜、エレーナを女王にするのは、情けない王子たちではなく、我らロズレイドです」
その頃、別室の「お支度部屋」では、エレーナが鏡の中の自分を見つめていた。
深紅のドレス。それは、昨夜までの「守られるべき公女」を脱ぎ捨て、すべてを焼き尽くす「復讐の女王」となるための戦衣だ。
「……エレーナ様。カミラ、あの方の瞳に合わせて、このブルーダイヤモンドを……」
マギーが震える手で、最高級のネックレスをエレーナの首元に添えた。
そこへ、扉が勢いよく開かれ、親友のヒルダが飛び込んできた。
「やっほー!エレーナ! ……っ、まっ!!なんてこと、貴女……なんて美しいのかしら……!」
ヒルダは、あまりの圧倒的な覇気に立ちすくんだ。
「私昨日は悔しくて、夜も眠れなかったわ。あんな、どこの馬の骨ともしれない女にクロード様を奪われて……。でも、今の貴女を見たら、そんな心配なんて吹き飛んじゃった。……ねえ、エレーナ。今夜は、誰一人として貴女から目を逸らすことなんてできないわ。あのフェミリアだって、貴女の引き立て役にもなれないほどにね」
「ありがとう、ヒルダ。……わたくし、もう大丈夫よ。昨夜、たくさん泣いたから。その涙が、わたくしの迷いも全部、浄化してくれたみたい」
エレーナの静かな声に、背後に控えていたテオドールが静かに膝をついた。第4王子である彼は、兄たちの失態を誰よりも恥じていた。
「エレーナ。カイル兄様もいない、クロード兄上があのような醜態を晒している今……。王族として、そして貴女を敬愛する一人の男として、そして学友としてこのまま引き下がるわけにはいきません」
テオドールはエレーナの指先に、誓いの口づけを落とした。
「僕が、貴女を会議室へ、そして会場の入り口までエスコートします。……アルベルト殿とは後で揉めるかもしれませんが(苦笑)、今は僕の腕をお取りください。……ふふ、僕じゃ頼りないでしょうか?」
その不敵な、それでいて優しい微笑みに、エレーナの頬がわずかに緩んだ。
「テオドール……。貴方まで、わたくしのために……」
「当然だよ。……さあ、ヒルダは一足先に会場へ。あのフェミリアとかいう女が、どんな顔で勝ち誇っているか、しっかり観察しておいてください」
「ええ、任せて! 特等席で、あの女の鼻がへし折れる瞬間を見ていてあげるわ!」
ヒルダは颯爽と部屋を後にした。残されたエレーナとテオドール、そしてマギーたち。
「……さあ、参りましょう。わたくしたちを侮った代償が、どれほど高くつくか……教えて差し上げますわ」
応接間の重厚な扉が、再び開かれた。
「……エスコートの件ですが、決定いたしました」
堂々と入室してきたのは、テオドールにエスコートされたエレーナだった。
その瞬間、室内の空気が一変した。
皇帝も、ヴィンセントも、そして自信満々だったアルベルトまでもが、息を呑んで立ち尽くした。
そこにいたのは、磨き上げられた陶器のような肌、誇り高く晒された項、そして復讐の業火のような真紅を纏った、別次元の美しさを放つエレーナ・ロズレイド。
「エレーナ……」
アルベルトの喉が鳴った。彼は、妹がこれほどまでに強く、そして恐ろしく「女王」としての資質を開花させるとは思っていなかった。
「アルベルト兄様。お父様。……わたくしの準備は、すべて整いましたわ。リサーナ様の仕掛け、そして皆様の想い……。すべて、このドレスの下に預かっております」
エレーナは、リサーナに向かって優雅に一礼した。
「クロード様がどなたを選ぼうとしていたのか……。今夜、それを正しく思い出させて差し上げます。……テオドール様、そしてアルベルト兄様。わたくしの両脇に、最高の騎士たちがいてくださるのですもの。王子お一人のエスコートなど、もはや不要ではありませんか?」
その力強い言葉に、ヴィンセント公爵が、今日一番の猛々しい笑みを浮かべた。
「……ハッ! そうだ、その通りだ。情けない王子に選ばれるのを待つ必要などない。お前こそが、誰を選ぶかを決めるのだ」
皇帝もまた、圧倒的な威圧感を放つエレーナを見て、深く頷いた。
「……よかろう。エレーナ。今夜、帝国の社交界は、お前の手のひらの上で転がされることになるだろうな」
リサーナが満足げに立ち上がり、杖を一度、床に鳴らした。
「役者は揃いましたわね。……さあ、行きましょう。偽りの愛と、浅ましい欲望に塗れたあの会場を……一滴の澱みもなく、掃除して差し上げますわよ」
廊下には、クラウスの朗々たる声が響き渡った。
「馬車、お成り!!!」
真紅のドレスを翻し、エレーナは一歩、また一歩と、処刑台(会場)への階段を降りていく。
その背後には、最強の父、最強の兄、最強の皇太后、そして忠誠を誓う第4王子。
帝国最強の「準備」を整えた女王の陣列が、今、動き出した。




