守護者の崩落 ―― 蝕まれた愛と絶望の序曲
デビュタントを翌日に控えたアカデミーの食堂は、まるでそこだけ砂糖をぶちまけたような、甘ったるくも異常な空気に包まれていた。
「ほら、エレーナ。この白身魚のソテーは骨をすべて抜いてあるよ。さあ、あーん」
「……殿下、あぅ……」
半年間にわたる地獄のような淑女特訓を終えたエレーナは、もはやフォークを握る握力さえ残っていない。そんな彼女の隣に当然のように陣取っているのは、第2王子クロードだ。彼は慈愛に満ちた笑顔で、一切の迷いなくエレーナの口へと料理を運び続けていた。
「殿下、もう……口がいっぱいですわ……っ」
「おや、まだ頬袋に余裕があるじゃないか。もっと体力をつけないと、明日のドレスの重さに負けてしまうよ。ほら、この温野菜も。はい、あーん」
「あ……むぅ……っ」
クロードは楽しそうに目を細め、エレーナの小さな口にさらに料理を詰め込んでいく。頬をリスのようにパンパンに膨らませ、一生懸命にそれを咀嚼するエレーナ。周囲の生徒たちは、呆れ半分、羨望半分といった様子でその光景を眺めていた。
「……また殿下がエレーナ様を甘やかしてるわ」
「あんなに頬張らせて……でも、あの幸せそうな笑顔。本当に、エレーナ様を愛していらっしゃるのね」
誰もが、この幸福が永遠に続くと信じて疑わなかった。クロード自身も、自分の愛がエレーナを守る最強の盾であると、そう自負していたのだ。
第二章:完璧な守護の「綻び」 ―― 狡猾なる蛇の誘い ――
「クロード殿下、学部長が至急、教員室でお呼びです。デビュタントの王族儀礼について、緊急の変更があったとのことです」
呼び出しに現れた下級生を、クロードは射抜くような鋭い目で見据えた。
この半年間、彼はフェミリア・ヴァルクレイの動向を完全に把握し、あらゆる接触を遮断してきた。学園内の通路、死角、協力者。すべてを監視下に置き、エレーナの周囲にはテオドール、カミラ、ヒルダという「鉄壁の守り」を配置している。
(……このタイミングでの呼び出し。怪しいな)
クロードの直感は、警鐘を鳴らしていた。だが、呼び出したのは学部長本人であり、王族の義務に背くわけにもいかない。
「カミラ、テオドール、ヒルダ。彼女を一瞬も離さないでくれ。僕が戻るまで、何があってもだ」
クロードは何度も念を押し、エレーナの髪を一度だけ愛おしそうに撫でると、席を立った。
彼は最短ルートを選び、常に周囲に魔力探知を張り巡らせていた。フェミリアが、あるいは彼女の刺客がどこに潜んでいようと、自分を出し抜けるはずがない。その「自負」こそが、唯一の隙だった。
教員室へと続く、人気の途絶えた静かな回廊。
その角を曲がった瞬間、クロードの全身を突き刺すような悪寒が走った。
「……ヴァルクレイ!」
影から現れたフェミリア・ヴァルクレイを視認すると同時に、クロードは腰の剣を抜き放とうとした。だが、フェミリアは不敵な笑みを浮かべ、手に持った「血のように赤い宝石」を、自らの指で粉砕した。
「遅いわ、殿下。貴方のその『深い愛』こそが、最高の呼び水になるのよ」
宝石から溢れ出したのは、物理的な攻撃魔法ではない。それは、人間の「精神の核」を直接侵食する禁忌の呪術――「反転の真珠」の霧だった。
「しまっ……!?」
クロードは即座に魔力障壁を展開しようとした。だが、この呪いは「悪意」を糧にするのではない。対象が抱く「最も深い愛」を苗床にし、それを一瞬で「最も醜い嫌悪」へと変質させる術式。
クロードのエレーナへの愛が深ければ深いほど、呪いは逃れようのない力で彼の脳内に食い込んだ。
「ぐ、あ、あああぁぁぁ……っ!!」
視界が真っ赤に染まる。エレーナとの思い出、彼女の笑顔、彼女の温もり。慈しんできた記憶のすべてが、術式によって「汚泥のような不快感」へと書き換えられていく。
「やめろ……エレーナ、僕は、僕は……君を……!」
必死に抗うクロードの脳裏に、フェミリアの蛇のような囁きが響く。
「……さあ、目覚めて、クロード様。あんな泥棒猫、貴方の隣にふさわしくないでしょう? 貴方が愛すべきは、この私よ……」
数秒後。膝をついていたクロードが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまで宿っていた黄金の光が消失し、代わりに底冷えのするような、生理的な拒絶を湛えた「暗闇」が宿っていた。
食堂に戻ってきたクロードの姿を見た瞬間、テオドールの背筋に冷たい戦慄が走った。
「…………近寄るな、ゴミ。その汚い手で僕に触れるな。君を見ているだけで吐き気がするんだ」
クロードの口から放たれたその言葉は、物理的な衝撃となって周囲の生徒たちに波及した。
「……えっ?」
「今、殿下なんて……?」
昼食を楽しんでいた生徒たちが、一人、また一人と窓際や回廊に集まり、信じがたい光景に息を呑む。かつてエレーナを羨み、あるいは敬っていた者たちの顔が、一様に恐怖と困惑に引きつった。
エレーナの指先が、空中で止まった。
半年間、彼女を抱き留め、食事を運び、冬の寒さから守っていたあの温かな手。それが今、自分を不潔な害虫を払うかのように、無情に空を切らせたのだ。
「ゴミはゴミらしく、泥でもすすっていればいい。……消えろ」
クロードの瞳には、かつての慈愛の欠片も残っていない。そこにあるのは、生理的な拒絶と、見下ろすような冷酷な軽蔑。隣に寄り添うフェミリア・ヴァルクレイの、蛇のように歪んだ笑みが、その残酷さをさらに際立たせていた。
「兄上!どうしたのですか!エレーナになにいだてるんです!!」
「カミラ、ヒルダ! エレーナ様を頼む! 決して彼女から目を離すな!」
テオドールは叫ぶように告げると、食堂の柱の陰へ飛び込み、懐から最高級の魔導連絡機を取り出した。
「お祖母様! 助けてください、クロード兄上の様子がおかしい! 何か、恐ろしい精神呪いにかかっています! 中庭へ、すぐにお願いします!!」
その時、前皇太后リサーナはたまたま、皇帝と王妃エミリアと共に茶会を楽しんでいた。最愛の孫の一人、テオドールの切実な悲鳴に、帝国の頂点三人の顔色が瞬時に変わった。
「……テオドール、すぐに行きます。皇帝、エミリア、私に掴まりなさい!」
リサーナは即座に、皇族にのみ許された禁忌の転送魔術を展開した。孫を救うため、そして愛するエレーナを守るため、彼女は空間を強引に捻じ曲げた。
リサーナの放った禁忌の転送魔術が、アカデミーの中庭を真っ白な光で染め上げた。
光が収まり、リサーナ、皇帝、王妃エミリアの三人が地に足をつけたその瞬間――。
三人の時が、完全に凍りついた。
視界に飛び込んできたのは、学園の生徒たちが遠巻きに怯え、静まり返る中で繰り広げられている、あまりに残酷な「処刑」の光景だった。
「…………近寄るな、ゴミ。その汚い手で僕に触れるな。君を見ているだけで吐き気がするんだ」
最愛の息子であり、孫であるはずのクロードが、泥にまみれて床に伏せるエレーナを見下ろし、心底から汚らわしいものを見る目で、冷酷な言葉を投げつけていた。
「クロ……ード……?」
エミリアの声が震える。つい数時間前まで、エレーナへの愛を熱っぽく語っていた息子の姿はどこにもない。そこにいるのは、瞳から光を失い、深い闇のような嫌悪だけを宿した「見知らぬ男」だった。
「クロード!! 貴様、何をしているのか分かっているのか!!」
皇帝の怒号が中庭を激震させ、平伏していた生徒たちが恐怖に肩を震わせる。だが、魅了の術に理性を乗っ取られたクロードは、実の父親である皇帝すらも冷徹に一蹴した。
「父上。僕は正気に戻っただけです。……このような不潔な泥棒猫を隣に置いていた自分を、恥じているのですよ」
その冷淡な言葉に、リサーナの鋭い魔導探知が反応した。クロードの背後に漂う、どす黒く粘りつくような赤い呪いの残滓。
「魅了の首飾り……! 真実の愛を苗床にする、禁忌の精神破壊呪具ね。……誰が、誰がこんな、孫たちの心を弄ぶような真似を……!」
リサーナが怒りのあまり、周囲の空気をピりつかせるほどの魔圧を放つ。その視線の先で、フェミリア・ヴァルクレイが勝ち誇ったように高らかに笑い声を上げた。
「あはははは! 素晴らしいわ、殿下! そうよ、ゴミはゴミらしく、泥水にまみれていればいいのよ」
フェミリアはエレーナの耳元に身を寄せ、蛇のように粘つく声で囁きかける。
「……ゴミはゴミらしくしていなさい。明日のデビュタント、貴女に用意されているのは光り輝く舞台じゃない。……奈落の底よ」
「――この、小娘がぁぁ!!」
カミラが激昂し、殺意を込めて剣を抜く。リサーナが瞬時に捕縛魔法の式を編み上げるが、フェミリアはそれよりも早く、用意していた高位の転送石を即座に砕いた。
「無駄よ、皇太后様。……さあ、行きましょう、私のクロード様」
眩い閃光が走り、光が収まった時には、フェミリアと、彼女に手を引かれたクロードの姿は、その場から完全に消え失せていた。
フェミリアとクロードが光の中に消えた後、アカデミーの中庭を支配したのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。皇帝も、王妃エミリアも、そして最強の魔導師であるリサーナでさえも、あまりの衝撃に言葉を失い、動くことができなかった。
その静寂を切り裂いたのは、荒い、けれど必死に押し殺された呼吸の音。
「……え、エレーナ様……」
カミラが震える声で呼びかける。泥にまみれ、地面に伏していたエレーナ。彼女の指が、ぐっと泥を掴んだ。
「……ぅ……っ……」
喉の奥から漏れそうになる嗚咽を、彼女は唇を噛み切らんばかりの力で押し殺した。
大きな瞳には、今にも零れ落ちそうなほど大量の涙が溜まっている。だが、エレーナはそれを決して流さなかった。ここで涙を流せば、クロードに投げつけられた「ゴミ」という言葉を認めることになってしまう。
(泣かない……。わたくしは……ロズレイドの娘……。お兄様や、あの方に……恥ずべきことは、何もしていない……!)
彼女は震える腕に力を込め、ゆっくりと、しかし確実に地面を押し上げた。ガクガクと音を立てる膝を、気力だけで叩き伏せる。
「エレーナ、無理をしてはダメよ!」
エミリアが駆け寄ろうとするが、エレーナはそれを鋭い視線で制した。潤んだ瞳の奥で、凄絶なまでの「意志」の火がゆらめいている。
エレーナは立ち上がった。
泥に汚れたドレス。乱れた髪。それでも、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、周囲で見守る生徒たちは、その圧倒的な気高さに息を呑んだ。
彼女は、溜まった涙を一度だけ強く瞬いて堪えると、真っ直ぐに前を見据えた。
「……わたくしは……大丈夫……です……」
掠れた声。けれど、それは中庭の隅々まで届くほど凛としていた。
「わたくしを……信じてくださった方々の誇りを……わたくしが、捨てるわけには参りませんから……」
彼女は一歩、踏み出した。
泥を纏いながらも、その歩みは帝国一の淑女として完成されていた。
だが、その一歩が、彼女の魂が保てる最後のリミットだった。
踏み出した足が、不自然に止まった。
堪えていた涙の向こう側に、不意に鮮明な情景が蘇ったのだ。
それは、自分を突き放した冷酷なクロードではない。
ついさっきまで、あの食堂で、頬がいっぱいになるまで料理を運んでくれた、あの大きな手。
「美味しいかい?」と、世界で一番甘い声で囁き、自分を覗き込んでくれた、あの温かな吐息。
(……あ、あ……)
脳裏に浮かぶのは、この半年間、毎日欠かさず自分の隣で見せてくれていた、あの優しくて、温かくて、自分を世界一幸せだと思わせてくれた――クロードの心からの笑顔。
その笑顔を思い出した瞬間、彼女が必死に繋ぎ止めていた心の糸が、音を立てて千切れた。
堪えていた涙が、一筋だけ頬を伝う。
「……あ……」
エレーナの視界から、色が消えていく。
真っ白なドレスのような顔色をした彼女の体が、ふっと、糸が切れた操り人形のように重力に従った。
「エレーナ様ぁぁ!!」
カミラが絶叫しながら、泥の中に崩れ落ちる彼女の体を、間一髪でその腕の中に抱きとめた。
エレーナの意識は、深い、深い闇の底へと沈んでいた。
最後に微かに動いた唇が紡いだのは、皮肉にも、彼女を絶望へ突き落とした男の名だった。
「…………クロード……さま……」




