黄金の真珠と守護の交代 ―― 鋼の教育と甘い誘惑 ――
カイルがバルバトスへ旅立ってから4ヶ月。ロズレイド公爵邸の訓練場は、もはや淑女教育という名の「戦場」と化していた。
「エレーナ様! その扇の広げ方では、扇動されるのは空気だけです! 貴族の視線を釘付けにする『毒』が足りませんわ!」
鬼教師マチルダの鋭い声が響く中、その光景をハラハラと見守る男が一人。第2王子クロードである。彼は今や、特訓の全行程に付き添うのが「当然の義務」だと言わんばかりの顔で鎮座していた。
「マチルダ、今のステップは少し負荷が強すぎないか? エレーナの足首が微かに震えていた。五分、いや十分の休息を――」
クロードが心配そうに口を挟もうとしたその瞬間、マチルダが扇をピシャリと閉じて彼を射抜いた。
「クロード殿下。……ここからは、女の戦場でございます。男の入る隙間は、指先ほどもございませんわ。どうぞ、外へ」
「えっ、しかし、僕は――」
「お・外・へ!」
マチルダの気圧されるような迫力に、流石の色男も後ずさる。そのまま背後の扉をマチルダに閉め出され、廊下に放り出されてしまった。
呆然と立ち尽くす王子の首根っこを、大きな手が掴んだのはその時だ。
「あははは。淑女の園から叩き出されたのかよ」
そこにいたのは、特訓の休憩から戻ってきた第一部隊の精鋭、フェイだった。ニヤニヤと笑うフェイの横には、冷ややかな視線でジョエルも立っている。
「フェイ! 放してくれ、僕はエレーナが心配なんだ!」
「分かってますって。だけどマチルダさんに睨まれたら、僕たちの命が危ないんですてばぁ。ほら、待機室へ行きましょう。美味いお茶でも淹れますから。ねっジョエル」
クロードは「嫌だ! 僕はここで待つ!」と抵抗したが、フェイの能力虚空の糸によって、まるで仔犬のように待機室へと引きずられていった。
マチルダの「女の戦い」が終わると、次は教育係アルフォンスによる、地獄の知識共有と帝王学の時間だ。ここからはクロードも「学友」として同席を許される。
「エレーナ様、この北方の関税政策における矛盾点を指摘なさい!」
アルフォンスの容赦ない問いに、エレーナは視界共有による知識の奔流と戦いながら、懸命に答えを探る。その横で、クロードもまた同じ資料を広げ、彼女と並んでペンを走らせていた。
「アルフォンス、この部分。エレーナが指摘した関税の裏には、バルバトスとの密約も絡んでいる。……だよね、エレーナ?」
「あ、はい……そうですわ。殿下、その視点は気づきませんでした……」
「君の基礎がしっかりしているからだよ。……ほら、ここの注釈も読んでおくといい」
クロードは単に甘やかすだけでなく、自らの知性を総動員して、エレーナの学習をサポートした。二人の頭が触れんばかりの距離で議論を交わし、共に難解な問題を解き明かしていく。その光景は、側から見れば「美しき天才夫婦」そのものであり、アルフォンスも「これほど知的な刺激を互いに与え合えるとは……」と、感心せざるを得なかった。
特訓が終われば、二人は並んで図書室を後にする。
「今日はよく頑張ったね。さあ、一緒にご飯を食べよう」
クロードのその誘いが、一日の終わりのエレーナにとって最大の報酬となっていた。
そして、問題の夕食である。
この半年間、アカデミーの食堂でも「クロード殿下がエレーナ様の口に食事を運ぶ」という光景は、もはや全生徒が知る「暗黙の了解」となっていた。そしてその習慣は、当然のようにロズレイド家の食堂にも持ち込まれた。
「エレーナ、この白身魚のムニエルは絶品だよ。ほら、あーん」
疲れ果ててフォークを持つ力も残っていないエレーナが、小鳥のように口を開ける。クロードが微笑みながら、丁寧に向きを整えて彼女の口に運ぶ。
その光景を、ヴィンセント公爵はフォークを震わせながら凝視していた。
「……待て。待て待て待て。殿下、それは……なんだ?」
「なんだ、とは心外ですね公爵。食事の補助ですよ。エレーナは疲れている。僕が手伝うのは効率的でしょう?」
「効率の問題ではない! 殿下、貴方は学園でも、常にこのようなことを……?」
「ええ、もちろん。朝から晩まで、エレーナが不自由しないように努めていますが、それが何か?」
涼しい顔で答えるクロードに、ヴィンセントの堪忍袋の緒が切れた。
「クロード殿下ァー!! 普段からも、だとぉー!!」
ヴィンセントが立ち上がり、食卓を叩く。その怒号に、影で控えていたマチルダも、持っていた扇を落としそうになった。
マチルダは、エレーナの品格を、礼儀作法を、帝国一の淑女として鍛え上げている。目の前で行われている「あーん」は、マチルダの教えとは真逆の、甘やかしの極致だ。
(……本来なら、即刻お止めし、殿下を叱責すべきこと……! 淑女が人前で口を開けて食べさせてもらうなど、言語道断!)
マチルダは内面で激しく葛藤した。しかし、相手は帝国の第2王子。しかも、エレーナを愛し抜いているという、あまりに純粋な善意。
(ですが……ですが相手は王族。……王族の慈悲を拒否するなど、一介の教育係にできるはずがございませんわ……!)
マチルダは「ううっ」と呻きながら、視線を逸らして壁の絵画を見つめるしかなかった。
ヴィンセントだけが「マチルダ! お前からも何か言え! 教育係だろう!」と叫び、アルベルトと幹部たちは「もう手遅れですよ。」と諦め顔でスープを啜っていた。
そんな感じのやり取りが毎日行われた。
カイルがバルバトスの地で、8年ぶりに「父親」としての魂を取り戻したロイス伯爵を連れ、不眠不休で帰路についていたその頃。
帝都の夜、フェミリア・ヴァルクレイは、母イザベラから授かった「魅了の首飾り」を血のような赤色に輝かせていた。
「ふふふ……いいわ、もっと愛し合いなさい。もっと甘やかしなさい、クロード殿下。……その甘い食卓が、明日には『毒の皿』に変わるのよ」
フェミリアの手の中で、魔道具が不気味な脈動を始める。
それは、純粋な愛を最も醜い嫌悪へと反転させ、信頼を絶望へと変える、禁忌の呪い。
デビュタントまで、残り一日。
カイルのいない半年間、クロードとの甘美な、しかし少し行き過ぎた愛に包まれていたエレーナ。
自分は世界で一番幸せな少女だと信じて疑わない彼女の元へ、運命の暗雲が音もなく忍び寄っていた。
北の街道では、カイルの愛馬が泡を吹いて倒れ、カイルは馬を乗り換えながら、血走った目で咆哮していた。
「待っていろ、エレーナ!!」
断罪の幕が上がるまで、あと1日。
甘やかな夜の終わりは、すぐそこに迫っていた。




