北極星の旅立ちと、託された守護騎士
帝都の冬は、刺すような冷気と共に訪れる。デビュタントを半年後に控えたその日、皇帝の執務室には重苦しい沈黙が流れていた。円卓を囲むのは、皇帝、ヴィンセント・ロズレイド公爵、そして第一王子カイル。
彼らの視線の先にあるのは、友好国バルバトスから極秘の魔導通信で届けられた一通の親書である。
「……信じがたい。だが、この筆致、そして行政処理の癖。間違いなく彼だ」
ヴィンセントが、震える指で羊皮紙をなぞる。そこには、バルバトス王宮で「ルイス」という名で働く一人の文官の記録が記されていた。彼は8年前、国境付近で記憶を失い、ボロボロの姿で彷徨っていたところを保護されたという。
「ロイス・エグゼイド……。我が友よ、生きていたのか」
ヴィンセントの脳裏に、8年前の光景が蘇る。外交の英雄として凱旋したロイスを待っていたのは、妻イザベラが用意した偽の葬儀と「愛娘エレーナは病死した」という残酷な嘘だった。絶望に狂い、退職したいと願い出たのを覚えている。皇帝は長期休暇という形にして家に戻したはずだ、、、しかしその日のうちに姿を消したらしい親友。彼が隣国で、自らの名も忘れ、ただ機械のように事務をこなす「亡霊」として生きていた事実は、その場にいる者たちの憤怒に火をつけた。
「叔父上、エレーナにはまだ伏せておくべきです」
静かに口を開いたのは、カイルだった。その碧眼には、氷のような冷徹さと、どろりとした独占欲が混在している。
「今の伯爵は、心身ともに衰弱しきっている。この状態で無理に連れ戻せば、狡猾なイザベラに『偽物だ』と切り捨てられる隙を与える。何より、記憶のない父を前にして、エレーナがどれほど傷つくか……」
カイルは立ち上がり、皇帝に向かって深く頭を下げた。
「私を、皇帝代理の外交特使としてバルバトスへ派遣してください。私が現地で伯爵の健康を回復させ、失われた記憶――特に『エレーナへの愛』を呼び起こします。そして、デビュタントのその日に、ヴァルクレイ家を根絶やしにするための『最強の弾丸』として、彼を連れ戻します」
それは、エレーナを救うための策であると同時に、エレーナにとっての「絶対的な救世主」であり続けたいという、カイルの狂気にも似た執着の現れでもあった。
一方、アカデミーの昼下がり。エレーナは、いつものように穏やかな光の中にいた。
彼女の隣には、当然のように第2王子クロードがいる。
かつて社交界で「色男」と持て囃されたクロードは、エレーナが学校に編入してきた日その日からそのすべての時間を彼女に捧げていた。朝の送り迎え、講義の間のエスコート、そして図書室での予習。周囲からは「殿下がベッタリすぎる」と囁かれているが、エレーナにとってそれは、凍てついた心を溶かしてくれる「暗黙の了解」となっていた。
カイルが与えるのが、厳しい訓練と「強くなれ」という峻烈な導きであるならば、クロードが与えるのは「そのままの君でいい」という全肯定の慈愛だった。
そこへ、カイルが現れる。周囲の生徒たちが一斉に道を開ける中、カイルは真っ直ぐにエレーナへ歩み寄り、その銀髪を無作法に、しかし愛おしそうにかき回した。
「エレーナ。明日から半年、公務でバルバトスへ行く事になった」
「殿下。バルバトスへ……? そんな、急に……」
不安に揺れるエレーナの瞳。カイルはその視線を正面から受け止め、低く、力強い声で告げた。
「サボるなよ。戻った時、お前が誰よりも高貴な淑女になっていなければ、私がお前をロズレイドから放り出す。……いいな?私をガッカリさせるなよ?」
それは、彼なりの不器用な「必ず戻る」という約束だった。
その夜、カイルは出発の準備を終え、バルコニーで月を見上げていたクロードの元を訪れた。
「クロード」
「……兄上。準備は終わったのですか?」
「ああ。……いいか、お前に半年、彼女の隣を預ける。元々お前は彼女にベッタリだったが、これからは『暗黙の了解』などという生温いものではない。お前が彼女の唯一の盾になれ」
カイルの殺気すら孕んだ視線が、弟を射抜く。
「俺がいない間、あいつを髪一筋でも傷つけてみろ。あるいは、フェミリアやイザベラの毒が彼女に届くようなことがあれば……俺はお前を弟とは思わない」
クロードは一瞬、兄の圧力に気圧されたように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、静かな、しかし確固たる意志を込めて言い返した。
「もちろん兄上に言われなくても分かっています。……兄上にはエレーナは渡しません。」
一瞬、火花が散る。カイルは鼻で笑い、クロードの肩を強く叩いた。
「抜かせ。……精々、励めよ。色男」
翌朝。帝都の城門を、カイルと4人の精鋭、そしてヴィンセントが選りすぐった隠密たちが通り抜けた。
北へ向かう馬車の中で、カイルは懐に忍ばせた、エレーナがアマンダの特訓で初めて刺繍した不格好なハンカチを握りしめた。
「待っていろ、エレーナ。……お前の『本当の名前』と、お前を絶望させた者たちへの『断罪の剣』を、俺が必ず持ち帰ってやる」
一方、アカデミー。
カイルが去った喪失感に沈むエレーナの隣に、クロードがそっと並んだ。
「エレーナ。馬車の用意ができているよ。……行こうか」
「……はい、クロード様。頑張らなければ!」
エレーナは、クロードが差し出した手を、迷いなく取った。
カイルのいない半年間。それはクロードにとって、エレーナの心の中に「カイル以上の場所」を作るための、最後にして最大のチャンスだった。
しかし、二人はまだ知らない。
カイルの不在を狙い、ヴァルクレイ家の女たちが、禁忌の魔導具「魅了の香」を密かに手に入れ、クロードの優しさを「猛毒」へと変える準備を進めていることを。
帝都を離れるカイルの背中と、クロードの手を取るエレーナ。
運命の歯車は、凄まじい音を立てて、デビュタントという断頭台へと回り始めた。




