鉄壁の兄たち ―― 色男の失墜と孤独な覚醒
その日、アカデミーの正門からロズレイド公爵邸へと続く並木道は、美しくも残酷な夕刻の光に包まれていた。
豪華な公爵家の馬車の中、第2皇子クロードは、隣に座るエレーナを盗み見ていた。かつて社交界で「その流し目に射抜かれぬ女はいない」とまで言われた帝国一の色男。しかし、今の彼の横顔には、かつてのような余裕はない。学園長室に軟禁されていた一時間の焦燥と、フェミリアを自力で撃退したエレーナの眩しすぎる変貌が、彼の独占欲に火をつけていた。
「エレーナ……。今日は本当に災難だったね。僕が君の側にいられなかったばかりに……」
クロードは、かつて数多の令嬢を虜にした、甘く低い声で囁いた。彼の長い指が、エレーナの白い手にそっと触れようと伸びる。
「いいえ、殿下。おかげで自分に足りないものがよく分かりましたわ。……わたくし、もっと強く、気高くならなければ。義父様が選んだ娘として、恥じぬように」
エレーナの瞳は、もはや「守られる雛」のそれではない。窓の外を流れる景色を見つめるその横顔は、完成間近の宝石のような硬質な輝きを放っていた。クロードは、その「強さ」に惹かれながらも、自分から遠ざかっていくような言いようのない不安に襲われる。
「……玄関に着いたら、少し茶でもどうだい? 君の疲れを癒やすために、王宮から最高の茶葉を取り寄せてあるんだ」
「まあ、殿下……」
エレーナが微笑みかけた、その瞬間だった。
「――そこまでだ、色男」
馬車の進路を阻むように、二騎の巨躯が立ち塞がった。
急停止する馬車。扉が外から、容赦ない力で乱暴に開け放たれる。
「よお、エレーナ! 帰ったな。さあ、夜の『地獄』が待ってるぞ!」
そこにいたのは、ヴィンセントの次男、ジュリアン・ロズレイドだった。騎士団でも一目置かれる剛腕の持ち主である彼は、馬車に乗り込むやいなや、クロードの甘い空気を一瞬で吹き飛ばした。
「ジュリアンお兄様! 降ろしてくださいませ!」
「ダメだ。アルフォンスがもう時計を何度も見ている。早く帰った方がいいぞ!」
ジュリアンは、クロードの伸ばしかけた手を無視し、エレーナを軽々と米袋のように担ぎ上げた。
続いて、馬上の長男、アルベルト・ロズレイドが、沈みゆく太陽を背にして冷徹に眼鏡を光らせた。
「……クロード殿下。妹を送り届けていただき、痛み入ります」
「アルベルト……! 僕はまだ、彼女と話が……!」
「不要です」
アルベルトの声は、氷の楔のように鋭かった。
「貴方の『色香』は、今のエレーナには毒でしかない。彼女が今求めているのは、甘い言葉ではなく、社交界という戦場を生き抜くための牙と爪だ。……殿下は、王宮へお帰りください。これ以上、我ら『家族』の時間を邪魔せぬように」
「家族……。だが、僕とエレーナは婚約して……」
「『して』いないでしょう? 候補です!候補!皇太后陛下の温情で首の皮一枚繋がっているだけだ」
アルベルトの言葉は正論だった。クロードが言い返す隙を与える間もなく、ジュリアンはエレーナを馬の前に乗せ、笑い飛ばしながら邸内へと駆け出した。
「クロード様! また明日、学園で!」
エレーナの声が遠ざかる。彼女の背後には、御者台から飛び降りた専属女騎士カミラが、まるで鉄壁の城門そのもののように立ち塞がっていた。
「……殿下、ご挨拶はここまで。主様は今、蛹から羽化する極限の状態。アルベルト様方の仰る通り、殿下の立ち入る隙はございません。残念ながら。」
カミラは事務的に一礼。そして、主君の跡を追って疾走した。
残されたのは、黄金の夕闇の中にポツンと置かれた豪華な馬車と、門前払いされた「帝国一の色男」の、あまりにも情けない後ろ姿だけだった。
その夜、王宮の最深部、皇太后リサーナの部屋
暖炉に赤々と火が灯る部屋で、リサーナは届けられた秘密報告書を精査していた。そこへ、幽霊のような足取りで、第2皇子クロードが現れた。
「……おばあ様」
「……クロードですか。随分と情けない面をしていますね。幽霊でも見たのですか?」
「……エレーナが……ヴィンセント叔父上の息子たちに……。アルベルトとジュリアンに、まるで荷物のようにもぎ取られてしまいました。僕は、何も言えず、ただ彼女の背中を見送ることしか……」
クロードはソファに深く沈み込み、顔を覆った。社交界の華、帝国の至宝とまで謳われた彼が、一晩でこれほどまで自信を喪失するとは。
リサーナは、手元の扇をピシャリと閉じた。その音が、静かな部屋に銃声のように響く。
「――情けない」
その一言は、クロードの心に氷の礫となって突き刺さった。
「お、おばあ様……」
「社交界の女たちをあれほど手玉に取っていた貴方が、いざ惚れた女の前では、アルベルトたち二人の連携すら崩せぬとは。ヴィンセントの実子たちが、どれほどエレーナを心酔し、大切に思っているかは知っているでしょう。あの子たちにとって、エレーナは誇り高きロズレイドの娘。同じ屋根の下に住む『家族』という最強の免罪符を、彼らは最大限に使いこなしているのです」
リサーナは立ち上がり、窓の外、ロズレイド公爵邸がある方角を見据えた。
「いいですか、クロード。エレーナは今、繭の中で羽化を待つ蝶。身内という名の嵐に揉まれ、狂師たちの毒を浴び、彼女はより強く、美しく、恐ろしくなる。……ましてや、第一皇子カイルまでもが、わざわざ王宮での公務を無理やり切り上げ、毎晩馬を飛ばしてあの子を鍛えに行っているのですよ?」
「カイル兄上!?えっ毎晩ですか?!」
「そうです。あの子を取り囲む壁は、貴方が考えているより遥かに高く、堅牢です。貴方は精々、あの子が社交界に羽ばたいた時、その光に目が眩んで置いていかれぬよう、己を磨きなさい。……下がれ、その情けない顔を見るだけでお茶が不味くなるわ」
クロードは、リサーナの言葉をナイフのように胸に刻みながら、フラフラと自室 へともどっていく。
王宮でクロードが嘆いている頃、ロズレイド公爵邸では、静寂など微塵もない「戦場」が繰り広げられていた。
【20:00~21:00:狂賢者アルフォンスの「毒」】
「エレーナ様、社交界の女王を真似るなら、まずはその心に『冷たい毒』を飼いなさい」
アルフォンスが、影のような笑みを浮かべて問いかける。彼はエレーナに、フェミリアのような小物を撃退するだけでなく、その背後にいるイザベラさえも「言葉一つで自滅させる」ための、緻密な心理工作を叩き込んでいた。エレーナの脳は、限界を超えて情報を処理し、冷徹な思考回路を形成していく。
【21:00~22:00:社交界の女王マチルダの「鎧」】
「エレーナ様。背筋が1ミリ下がりましたわ。……いいですか、ルチアが愛されたのは、彼女が誰よりも『自分自身を愛し、誇っていた』からです」
マチルダは、エレーナに淑女の所作を超えた「支配者の居ずまい」を求める。扇の開き方、視線の落とし方、沈黙の長さ。そのすべてが、周囲を服従させる武器へと変えられていった。
【22:00~23:00:第一皇子カイルの「魂」】
そして22時。重厚な軍靴の音が、邸の回廊に地響きのように鳴り響く。
王宮での激務を終え、一度も着替えることなく駆けつけたカイル・皇太子。彼はエレーナの前に立つと、迷いなく木剣を突きつけた。
「……構えろ、エレーナ。俺がわざわざここまで通っている意味を、その身に刻め」
一国を背負う第1皇子が、義妹のために汗を流し、その殺気で彼女を研ぎ澄ます。
「……っ、は、はい! お兄様!」
カイルの苛烈な打ち込み。それを、ジュリアンが教えた実戦の身のこなしでかわし、アルベルトが授けた知略で隙を突く。
エレーナは泥にまみれ、呼吸を乱しながらも、23時の鐘が鳴るまでその瞳の光を絶やすことはなかった。
深夜23時。
アンたちがエレーナを最高の薬湯に沈め、その髪を慈しむように梳き上げる。
「エレーナ様、本当によく頑張られました……」
アンの言葉に、エレーナは微かに微笑み、重い瞼を閉じる。
彼女の夢の中には、カイルに撫でられた大きな掌の感触と、門前払いされたクロードの、どこか放っておけない寂しげな顔が混ざり合っていた。




