【鋼の覚悟と、湯煙の洗礼】
クロードが公爵邸の馬車でエレーナをアカデミーへと送り出した、その直後。
王宮の結界に守られた密談の間には、重苦しい空気が漂っていた。
出席者は皇帝、王妃エミリア、皇太后リサーナ、公爵ヴィンセント、そして「伝説の女王」マチルダ。彼らの顔にあるのは、一人の少女の運命を背負う覚悟だった。
「ヴァルクレイの勢力は、もはや貴族の枠に留まっていない」
ヴィンセントが、机の上に闇ギルドの紋章が記された報告書を叩きつけた。
「奴はロズレイド家直属の騎士団や精鋭部隊に匹敵する私兵集団を構築している。それだけではない……大陸でも悪名高い傭兵団や、金で動く闇ギルドとも深く繋がっている。奴を討つということは、帝国の半分を占める『闇の軍勢』を相手にするということだ」
「姑息な男……。品格や礼法だけで太刀打ちできる相手ではないわね」
マチルダが冷徹に扇子を畳んだ。
「私が教えるのは『女王の器』。けれど、その器を満たすのは、どんな闇にも屈しない強靭な肉体と、何重にも張り巡らされた知識の網でなくてはならないわ」
王妃エミリアが、静かに、しかし力強く口を開いた。
「ならば、あの子に『帝国のすべて』を授けましょう。……リサーナ様、例の件を」
リサーナが黄金の煙管をくゆらせながら頷く。
「ええ。まずは知識と魔導。塔に幽閉されていた『狂賢者アルフォンス』を私の名で呼び戻したわ。彼には、帝国の禁書庫にあるすべての古文書をエレーナに教え込ませる。……そして、武芸。ヴィンセント、貴方だけでは足りないわ」
リサーナは一呼吸置き、扉の方を見た。
「カイル、入りなさい」
重厚な扉が開き、一人の青年が姿を現した。
第1王子カイル。帝国軍総帥すら跪く「帝国一の剣士」である。彼は無言で一礼し、エレーナの義父であり叔父でもあるヴィンセントの隣に立った。
「……カイル殿下、貴方もエレーナのために?」
ヴィンセントの問いに、カイルは氷のような無表情のまま、しかしその瞳に熱い意志を宿して答えた。
「ジュリアスのような愚か者の兄として、そして従妹であるエレーナがヴァルクレイの放つ闇の刺客に屈する姿は見たくない。私が、彼女に『帝国最強の剣』の神髄を叩き込む。……ただし、私の稽古は死ぬより辛い。エレーナにその覚悟があるならだが」
「あの子にはありますわ。実の父親を救い出すという、地獄すら焼き尽くす執念が」
マチルダが不敵に笑う。
こうして、エレーナの「最強育成計画」が確定した。
午後4時30分。公爵邸の馬車が、重厚なロズレイド家の門をくぐった。
御者台にはクロードが、そしてその傍らには護衛として馬を走らせていたカミラがいた。
二人は馬車を止めようとした瞬間、異様な空気感に肌が粟立つのを感じた。
邸宅の玄関先に、あり得ないほどの「密度」を持った覇気が渦巻いていたからだ。
「……何だ、このプレッシャーは。屋敷が包囲されているのか?」
カミラが即座に馬の柄に手をかけ、鋭い眼差しで玄関を見据える。クロードもまた、馬車の扉を開ける手を止め、冷や汗を流した。
そこに立っていたのは、侵入者ではない。
皇太后リサーナ、そしてその傍らに「鉄の壁」のごとく立ちはだかるカイル、アルフォンス、マチルダ。帝国の光と影を象徴する最強の三師だった。
馬車から降りたエレーナは、その異様な光景に息を呑んだ。
クロードとカミラが背後で身構える中、リサーナが静かに、しかし抗いようのない威厳をもってエレーナに歩み寄る。
リサーナはエレーナの頬を優しく撫で、そのまま鋭い眼差しで彼女の瞳の奥を射抜いた。
「エレーナ、よく聞きなさい。貴女を狙う闇は深い。だから、貴女には『品格』を鍛えるのと同時に、この男たちの『牙』もその身に宿してもらうわ」
その言葉が、エレーナの日常を粉砕する「合図」だった。
リサーナが静かに下がると同時に、第一王子カイルが一歩前へ出る。その全身から放たれる圧倒的な戦士の覇気に、カミラですら思わず息を詰まらせた。
「エレーナ! 準備はできているな。私は今日、王宮の書類を全て処刑台へ送る気分で片付けてきた。今の私は機嫌が悪いぞ。……剣を取れ!」
「えっ、カイル殿下……いま、帰ったばかりで……」
「問答無用! 貴様の『甘え』から斬り捨ててやる!」
カイルが黒檀の木剣を抜き放つ。クロードが「お待ちください!」と叫ぶ間もなく、エレーナは訓練場へと引きずり込まれるように走り出すしかなかった。
訓練場では、カイルの苛烈な武芸指導が始まった。
カイルは本気を出せばエレーナが死ぬことを理解している。だからこそ、彼は精密な「手加減」を施していたが、受けるエレーナにとっては骨が軋み、肺が焼けるような暴風でしかない。
「ハァ、ハァ……ッ! まだ……まだ、いけます!」
「ほう、ならば次はこれだ。防いでみせろ!」
泥にまみれ、何度も転がりながら立ち上がるエレーナ。その様子を、カミラは拳を握りしめて見守り、クロードはあまりの過酷さに顔を青くした。
特訓が終わる頃には、エレーナは指一本動かせないほど疲弊していたが、カイルは冷酷に言い放つ。
「……よし、今日の分はここまでだ。さあ、飯だ!」
「飯だ!」という言葉が響いた瞬間、邸宅から憤怒のオーラを纏った専属メイドのアンが飛び出してきた。
「カイル様、飯だなんて言ってる場合じゃありません! お嬢様はドロドロのボロボロです! ご飯の前にやることがございます!」
「あ、アン……でも……」
「問答無用でお風呂です!」
アンはエレーナを強引に連行し、さらに背後からはメイド長マギーと執事クラウスが現れる。
「カイル殿下、貴方もです。汗を流さぬまま食卓に着くなど、ロズレイド家では許されません」
「クラウス、貴様……っ! 私は……!」
次期皇帝カイルですら、この二人には抗えず「男湯」へと放り込まれた。
アンによってお風呂に放り込まれ、泥を落としてさっぱりとしたエレーナが食堂へ現れると、そこには既に家族とフェイやバッシュたち幹部(シオンだけは巡回中でいない)、そしてカイルやクロードまでもが食卓を囲んでいた。特訓中の殺気立った空気は嘘のように消え、温かな湯気と料理の香りが部屋を満たしている。
エレーナは、カイルの隣で「自然体」の笑顔を見せながら、驚くほどの勢いで肉を頬張った。
「……ふん、お風呂のおかげで少しは正気に戻ったか」
カイルもまた、濡れた髪のままワインを煽り、エレーナの食べっぷりを確認して満足げに口角を上げる。
「クロード、貴様もだ。エレーナを守るつもりなら、それだけの量を平らげておけ。私の特訓についてくる彼女を支えるのは、並大抵の体力では務まらんぞ」
「……肝に銘じます、兄上。」
クロードは圧倒されつつも、カイルの覇気に負じとナイフを動かす。ヴィンセントやリサーナやマチルダ、アルフォンスも、そんな姿を眩しそうに見守っていた。
午後10時。宴もたけなわというところで、カイルが静かに立ち上がった。
「さて、お祖母様。帰りますよ。これ以上ここに居座っては、エレーナの睡眠時間が削られる。私の特訓効率を台無しにさせはしない」
「まぁまぁ、カイル。もう少しいいじゃない」
まだマチルダとお喋りを楽しもうとしていたリサーナだったが、カイルは有無を言わせぬ風格でその腕を取った。
「クロード、行くぞ。お祖母様の護衛は私と貴様の役目だ。……エレーナ、明日もまたアカデミーが終わった頃に来る。一秒でも遅れれば、貴様の部屋の扉を私自ら叩き斬って連れ出すからな」
「はい、カイル様! お気をつけて!」
エレーナの凛とした一礼を背に、カイルとクロード、そしてリサーナを乗せた馬車は、蹄の音も高く夜の闇へと消えていった。
馬車の音が遠ざかり、屋敷に静寂が戻った瞬間。エレーナの隣に立つアルフォンスの眼鏡が、魔導灯の光を受けて怪しく光った。
「……さて。カイル様は寝ろと言ったけれど、ボクたちの時間はここからだ」
「ええ、そして私の時間でもありますわね」
背後には、いつの間にか完璧な姿勢で控えるマチルダの姿。
晩餐を終えて心身ともに緩んだエレーナを待っていたのは、深夜の特別講義だった。
「エレーナさん、君はカイル様の剣は受けられるようになった。けれど、ヴァルクレイは剣の届かない場所から言葉で君を殺しに来る。……さあ、書庫へ行こうか」
「エレーナ様、眠気に襲われても背筋は1ミリも動かさないこと。女王は、瞳を閉じている時ですら周囲を威圧するものです」
エレーナの頭は熱を持ち、体は悲鳴を上げている。しかし、彼女の瞳に灯る炎は消えない。
「……はい! お願いします、アルフォンス様、マチルダ様! 私、まだいけます!」
日付がかわる0時。ようやくベッドに潜り込んだエレーナの髪を、アンが優しく撫でる。
「お疲れ様です、お嬢様。……明日も、最高に美しくお仕立てしますからね」




