至宝の進撃 ――計算外の秀才と、王子の戦慄
帝国学院の廊下は、歴史の重みを感じさせる静寂に包まれていました。クラリス先生の後に続いて歩くエレーナ・ロズレイドの足音は、驚くほどに「無」でした。バッシュとの鬼ごっこで、どんな落ち葉の上でも音を立てずに移動する技術を叩き込まれた弊害が、こんなところで出ています。
(落ち着いて、エレーナ。おばあ様から教わった「お淑やかな歩き方」を……そう、重心を少しだけ落として、踵から滑らかに……)
「ロズレイド嬢、こちらです」
クラリス先生が重厚な扉を開けました。その瞬間、教室内を支配していた喧騒が、まるで物理的な圧力で押し潰されたかのように消失しました。
入ってきたのは、月光をそのまま紡いで織り上げたような、輝く銀髪の少女。朝の光を受けてきらめくその髪は、一歩歩くたびにさらさらと流れ、神秘的なオーラを放っています。クラス中の視線が、まるで吸い寄せられるように彼女に固定されました。
「エレーナ・ロズレイドでございます。本日より、皆様と共に学ばせていただくことになりました。よろしくお願いいたしますわ」
完璧なカーテシー。しかし、その時です。最前列の中央に座る、第4王子・テオドールが、椅子をガタガタと鳴らして身を硬くしました。
(((……っ!! もしかして、と思っていたけど……本当だったのか! 本当に、あの『銀髪の死神』と同じクラスになってしまったのか!!)))
テオドールには、二年前のあの光景がフラッシュバックしていました。
10歳の誕生日の謁見。彼は回廊の影から、陛下に軍礼を捧げるエレーナを遠目に見ていました。あの時、彼女が踵を打ち鳴らした瞬間に放たれた、大気を震わせるほどの鋭い覇気。ドレス姿でありながら、その背中には数千の軍勢を従える将軍のような重圧が宿っていました。
(……あの時は遠目だったけど、間違いない。今の「お淑やかな令嬢」の顔は、絶対に獲物を油断させるための擬態だ! 叔父上は、一体何を育て上げてしまったんだ!?)
テオドールは、エレーナと目が合った瞬間、心臓が止まるかと思いました。
「ロズレイド嬢、貴女の席は……テオドール殿下の隣にしましょう」
クラリス先生の宣告。テオドールは「ひっ……!?」と短い悲鳴を上げ、そのまま石像のように固まりました。
授業が始まると、クラリス先生は編入生の実力を測るため、黒板に難解な数式を書き込みました。
「ロズレイド嬢、これを解いてみていただけますか? まだ習っていない範囲かもしれませんが……」
エレーナは優雅に立ち上がりました。
(アルベルト兄様に叩き込まれた軍事暗号の解読計算に比べれば、これは……足し算のようなものですわね)
カツカツカツ――。
迷いのないチョークの音が響きます。エレーナは【並列思考】をフル回転させ、脳内で数式を構造的に分解。先生さえ想定していなかった、最短の解法を黒板に刻みました。
「……終わりましたわ、先生。これでよろしいかしら?」
静まり返る教室。クラリス先生は眼鏡を押し上げ、「……完璧です。いえ、大学院レベルの思考回路ですわ」と震える声で漏らしました。
テオドールは隣で、彼女がチョークを動かすたびに「(あれは……急所を貫くための計算式では……!?)」と、恐怖ゆえの誤解を深めていくのでした。
お昼の鐘が鳴った瞬間、テオドールは脱兎のごとく教室を飛び出しました。
(助かった……! 休憩時間まであの子の隣にいたら、僕の精神が削り取られてしまう! 兄上たちに報告しなきゃ……!)
一人残されたエレーナは、おばあ様から叩き込まれた地図を正確に思い出し、食堂へ向かおうと立ち上がりました。すると、赤毛を快活に揺らす少女が声をかけてきました。
「ねえ、あなた! 私はヒルゼ、辺境伯の娘よ。殿下にまであんなに怯えられるなんて、ロズレイド公爵家ってやっぱり凄いのね! よければ一緒に食堂へ行かない?」
「ヒルゼ様……! ええ、喜んで!」
初めての「友人」にエレーナの瞳が輝きました。
二人が食堂へ向かう途中、廊下は異様なざわめきに包まれています。
「……まあ、なんだかあちらの方が騒がしいですわね?」
エレーナが指差した先、食堂の中央には、学園のスターである王子たちが、取り巻きの令嬢たちに囲まれていました。
(リサーナおばあ様から聞いていた、王子たち……。でも、直接お会いするのは初めてだわ。あんなにキラキラしているなんて……)
エレーナは、王子たちの「人気」を認めつつも、今はとにかくお腹が空いていました。彼女は人だかりを完全に無視し、真っ直ぐに注文カウンターへと向かいました。
(ええと、メニューは……。どれが一番美味しそうかしら)
エレーナが真剣な表情でサンプルを覗き込んでいた、その時です。
背後から、一切の無駄がない、極めて洗練された足音が近づいてくるのを、エレーナの「対バッシュ用索敵」は正確に捉えていました。
(……後方3メートル。意図的に気配を消しているけれど、纏っている魔力密度が高いわ。……)
エレーナは「気づかないフリ」をしながら、メニューをじっと見つめ続けました。
「――迷っているなら、Aランチにするといい。今日のそれは、僕が今朝キッチンに特別にリクエストしたものだからね」
耳元で響く、低く心地よいテノール。振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた見目麗しい少年が立っていました。
「……ええと。ごきげんよう?」
エレーナは首を傾げました。目の前の少年が「王子様」であることはその纏う空気で分かりますが、果たして彼が誰なのか。
「おや、エレーナ。その様子だと、僕が誰だか分かっていないようだね?」
少年は面白そうに目を細め、エレーナの銀髪を一房、指先で弄びました。その瞬間、食堂内の令嬢たちから「きゃああああかっ!」という地鳴りのような悲鳴が上がりました。
「僕はクロード。君の従兄にあたる、第2王子だよ。お祖母様や母上(王妃)から、僕たちの名前を聞いていなかったかい?」
「あ……クロード様! 失礼いたしましたわ。お名前は伺っておりましたけれど、きちんとお会いするのは初めてでしたので……」
「ははは! 君は実に正直だね。……さっき、テオドールが半泣きで僕のところへ来たんだ。『隣に座ったロズレイド嬢が、人間業とは思えない数式を黒板に刻んで、先生を絶句させた』と震えながらね。それを聞いて、興味を持たないわけがないだろう?」
クロードはさらに顔を寄せ、エレーナにしか聞こえない声で囁きました。
「君は、ただの『箱入り娘』じゃない。……その、背後を微塵も疑わないようでいて、僕が声を出す直前にわずかに重心を移動させたその動き……。実に面白い。君に手を出すなというのは、僕自身の身の安全のためだったのかな?」
(((兄上ぇ! 食べられちゃう! 兄上が食べられちゃうよぉぉ!)))
遠くの席で、戻ってきたテオドールが涙目でガタガタ震えています。
エレーナは、背後に突き刺さる何百人もの令嬢たちの「きゃー!」という声と、鋭い査定の視線を感じながら、覚悟を決めました。
「……第2王子殿下、あまり私を困らせないでくださいませ。皆様の視線が、まるでバッシュの放つ投げナイフのように刺さっておりますわ」
「ははは! 投げナイフとは穏やかじゃないね。さあ、行こうか。僕たちのテーブルへ」
エレーナは、クロードのエスコートを受けながら、ヒルゼと共に「王族専用席」へと足を踏み入れました。12歳のエレーナ。彼女の「本当の学園生活」は、このAランチと共に、爆発的な幕開けを迎えたのでした。




