令嬢の嗜み(身体能力)と皇太后の限界
「(……いい、エレーナ。何度も言うけれど、貴女は今日、国中の令嬢が憧れる『ロゼレイドの至宝』としてデビューしたの。軍礼一発でその夢は半分砕け散ったけれど、まだ取り返しはつくわ。離宮に着いたら、まずはお茶の淹れ方から……)」
皇太后リサーナは、周囲に悟られないよう優雅な微笑を貼り付けたまま、腹話術のような小言を続けていました。
「(はい、おばあ様。お茶だね! 精神統一して、一滴もこぼさず……)」
エレーナが健気に頷き、リサーナの歩調に合わせて少し早歩きになった、その時でした。
宮廷の廊下に、少しだけ段差がありました。普通の令嬢ならドレスの裾を気にしてゆっくり越えるところですが、エレーナの身体は「鬼ごっこ」の反射で動いてしまいます。
ふわりとドレスが翻り、エレーナは無意識に、音もなく、猫のようにしなやかな跳躍でその段差を飛び越えました。
「(……あ、)」
リサーナの視線が、一瞬だけエレーナの足元に吸い寄せられました。
ドレスの裾から覗いたのは、華奢な令嬢の足……などではなく、一年間の逃走訓練で鍛え上げられた、「一歩で数メートル跳べるであろう、美しくも鋼のようなふくらはぎの筋肉」でした。
リサーナは一瞬、眩暈を覚えました。
「(……エレーナ。……エレーナ、今、貴女、浮いたわよね? 10センチくらい音もなく浮いたわよね?)」
「(えっ? ああ、段差があったから。おばあ様が教えてくれた『お花』みたいに、ふわっと飛び越えてみたんだよ!)」
エレーナは「上手でしょ?」と言わんばかりの得意げな顔。
リサーナは、こめかみを押さえました。
「(……そういう意味じゃないわよ! 令嬢は段差を跳ばないの! 重力を無視した動きをしないのよ! ドレスの下からあんな『獲物を仕留める直前の豹』みたいな脚線美が見えたら、淑女教育じゃなくて調教だと思われちゃうじゃないの!)」
その「超人的な身のこなし」を、石柱の陰から見ていた王子たちは見逃しませんでした。
「……おい。今、見たか? あの足運び……」
第一王子が、戦慄した顔で呟きます。
「……ああ。音がない。あの重そうなドレスを着ていて、跳躍の予備動作すら見えなかったね」
第二王子は、驚きを通り越して、獲物を見つけたような目をしていました。
「父上の覇気に軍礼で返し、重力を感じさせない脚力を隠し持ち、皇太后様の小言を涼しい顔で聞き流す……。兄上、あの子は『お花』なんかじゃない。……可愛いドレスを纏った、最高に手強い『野生の至宝』だ」
「ああ……。面白い。これほどまでに『実戦的』な身体能力を持つ令嬢が、この皇宮に現れるとはな」
王子たちの視線は、もはや好奇心から「この少女をどう攻略するか」という、熱い期待へと変わっていました。
「(いい、エレーナ。部屋に着いたら、まずはその『脚』を隠しなさい。座る時も膝を閉じて、絶対に跳ねたりしないこと。いいわね!? 今日はお茶会の前に、まずは『重力に従う練習』から始めるわよ!)」
「(えー、おばあ様、難しいこと言うなぁ)」
ブツブツと文句を言うエレーナと、もはや「淑女」という概念の崩壊に直面しているリサーナ。
その背後で、王子たちが「さて、どうやってあの至宝に近づこうか」と不敵な笑みを浮かべていることなど、二人はまだ知る由もありませんでした。




