至宝の完成、そして「プロたちの」大失念
十歳の誕生日の朝、公爵邸の着替えの間。
「エレーナ様、本当に素晴らしいお体です……」
侍女のアンが、感嘆の声を漏らしながらドレスの紐を締めていた。
鏡の前に立つエレーナは、一年前の細く儚げだった姿とは別人のよう。毎日の「地獄の鬼ごっこ」を生き抜くために研ぎ澄まされたその体は、無駄な脂肪が一切なく、しなやかな筋肉が薄くついた、まさに「若き女傑」のそれだった。
「ありがとう、アン! 動きやすくて素敵なドレスだね!」
エレーナは屈託のない笑顔でアンに手を振る。その動作一つをとっても体幹が一切ブレない。ドレスを纏えば絶世の美少女。だがその中身は、バッシュの重圧に耐え、アルベルトの包囲網を空中歩行で突破する、帝国最強の十歳児だった。
「さあ、見せてちょうだい。私の自慢の至宝を」
皇太后リサーナを筆頭に、父ヴィンセント、そして幹部たちが部屋に集まった。
「……美しい」
ヴィンセントが感極まって涙ぐむ。しかし、リサーナがふと、何かに気づいたように足を止めた。
「……ねえ、エレーナ。ちょっと陛下にご挨拶する真似をしてみてくださる?」
「うん、わかったわ、おばあ様!」
エレーナはスッと背筋を伸ばした。そして――右拳を左胸に当て、踵を鋭く鳴らして、深く、微動だにせず頭を下げた。
「「「………………。」」」
それは、帝国騎士団が命を懸けて皇帝に誓う時の、「完璧な軍礼」だった。
「…………あら」
リサーナが扇で口元を押さえ、瞳を泳がせた。
「あら、あらあら! 大変だわ、ヴィンセント! 私ったら、この一年あの子を『最強の器』に育てることに夢中で……淑女としての作法を教えるのを、完全に忘れていたわ!」
その言葉が、二人のプロフェッショナルに雷となって落ちた。
「……なんたること!!」
メイド長のマギーが、自分の額をパチンと叩いて叫んだ。
「私はメイド長なのに!淑女のお辞儀を一度も確認していないなんて! 私は、私はメイド失格ですわ!!」
「……あ、ああ……なんということだ……!」
執事長兼侍従のクラウスも、青ざめて膝をついた。
「私は執事長なのに! 社交界の作法を、私の意識から完全に抹消していたなんて! 私は、執事として一生の不覚……!」
二人は、エレーナの「成長(鬼ごっこ)」を特等席で見守り、あまりの凄まじさに魅了されすぎて、自分たちの本分をうっかり忘れてしまっていたのだ。
「俺もだ……。捕まえた時の関節の極め方は教えたが、扇子の持ち方なんて教えてねえ!」
バッシュが頭を抱え、知性派のゼノは手帳を落として遠い目をしている。
「「「あちゃー……!!!」」」
帝国最強の布陣が、全員で大反省会を始めてしまった。
「え? お父様、今のじゃダメなの? 毎日、騎士の人たちがやってるのを見てカッコいいなと思って覚えたんだけど……」
エレーナは不思議そうに首を傾げている。その立ち姿は凛としていて美しいのだが、漂うオーラが完全に「出陣前の若き将軍」なのだ。
「ダメではないのよ、エレーナ。ただ、それはちょっと……かなり『戦う人の挨拶』なの」
リサーナが狼狽しながら、必死に記憶を掘り起こす。
「いい、エレーナ。ドレスの端を少し持って……あら、時間がもうないわ!」
皇宮からの迎えの馬車が、庭に到着する鐘の音が響く。
「……もういいわ! 出発よ!」
リサーナが半ばやけくそ気味に扇を翻した。
「ヴィンセント、アルベルト! 今日はエレーナに余計なことはさせないで。あの子の圧倒的な美しさと、この一年で手に入れた『隙のない佇まい』……それで押し切るわよ!」
「おばあ様、私、普通にしてればいいんだよね?」
「ええ、そうよエレーナ。貴方の『普通』でいいの。……ただし、陛下を前にして突然戦う構えをとったりしないでね」
「しないよー!」
エレーナは元気に笑いながら、令嬢とは思えないほど軽やかな足取りで馬車に飛び乗った。
こうして、ドレスの中身が「帝国最強クラスの武闘家」という、プロたちが絶望しながらも送り出した状態のまま、至宝は皇帝との対面へと向かうことになった。




