重なる温もりと、託された翠(ミドリ)
「はぁ、はぁ……っ、ふぅ……!」
かつては数歩歩くのもやっとだった少女。今の彼女は、自分の足が大地を蹴り、風を切る感覚を全身で楽しんでいた。
タッタッタ、という一定の走行リズム。それが耳の奥で響いたとき、不意に、脳裏の霧が晴れるような感覚に襲われた。
(……あ。私、知ってる。このリズム)
それは、今の自分のような洗練された騎士の走りではない。
もっと、ぎこちなくて、ドタドタとしていて、今にもつまずきそうな……けれど、必死に自分を追いかけてくれた、あの足音。
「……ろ、……ローレンス、おとうさま……」
エレーナは足を止め、立ち尽くした。
「エレーナ様……? どうかされましたか?」
傍らで控えていた女騎士カミラが、心配そうに声をかける。
エレーナは自分の手を見つめながら、遠い目をして微笑んだ。
「……思い出しちゃった。私が、もっともっと、ちっちゃかった頃のこと」
それは、ロイス伯爵邸の庭での記憶。
ようやくしっかり歩けるようになり、見るものすべてが珍しかった二歳の頃。
幼いエレーナは、蝶々を追いかけて、自分でも驚くような勢いで芝生を走り出した。
『あ、あうっ! とと、あて(見て)!』
たどたどしい言葉で叫び、振り返ることもせず夢中で足を動かす。
背後からは、青い顔をして追いかけてくる父、ローレンス・ロイスの慌てた声が聞こえていた。
文官である彼は、普段は書斎でペンを握っているばかりで、運動など一生に一度もしたことがないような人だった。長い裾を翻し、慣れない足取りで何度も足をもつれさせ、今にも転びそうになりながら、必死に娘を追いかけていた。
『エ、エレーナ、待ちなさい……っ! そっちは段差が……あぶな、ハァ、ハァ……っ!』
息を切らし、顔を真っ赤にして、ようやくエレーナに追いついたローレンス。彼は震える手で、けれど壊れ物を扱うように優しくエレーナを抱き上げた。
『……つ、つかまえた。ああ、良かった……。エレーナは、本当にお転婆だね。お父様はもう、ヘトヘトだよ……』
眼鏡をずらし、乱れた息を整えながら、エレーナを抱きしめて不器用に笑った父。
その時、父の胸から伝わってきた「トク、トク」という激しい鼓動。
騎士のような強さはなかった。でも、そこには間違いなく、自分を守ろうとして必死に走ってくれた「父の心音」の記憶があったのだ。
「カミラ。ローレンスお父様は文官で、走るのがすごく苦手だったの。でもね、私が走り出すと、いつだって一生懸命、後ろからついてきてくれたんだよ……」
エレーナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
訓練を終えたエレーナをアンに預けると、カミラは邸内の奥深く、最高機密を扱う魔導通信室へと足早に向かった。
彼女は机上の水晶球に手をかざし、公爵家と皇宮を直接結ぶ、皇太后専用の秘匿回線を起動させた。
「皇宮、リサーナ皇太后陛下へ。カミラより緊急のご報告がございます」
水晶の中に現れたのは、帝国の母として君臨する、威厳に満ちたリサーナ皇太后の姿だった。彼女は皇帝とヴィンセントの母であり、その一言で国を動かす存在だが、カミラからの報告を聞くや否や、鋭い瞳に慈しみと鋭い光を宿した。
「……そう。エレーナが、ロイス伯爵の愛を正しく思い出したのね」
リサーナの声は、遠く離れた皇宮からでも圧倒的な重みをもって響いた。
「体力がつき、心が大地に根を張ったことで、ついに『至宝の器』が満ちたということ。恐怖ではなく愛によって過去を繋ぎ止めた……あの子は、私たちの血筋に連なる者に相応しい強さを見せたわ」
リサーナは傍らに控える王宮魔導師たちに、出発の準備を命じた。
「カミラ、ヴィンセントに伝えなさい。すぐに向かうと。エルシア王妃にも私から声をかける。……亡きルチアとの約束、その『形見』を解禁する刻がついに来たわ」
皇太后が動き出す中、ヴィンセントは執務室で一人、重苦しい沈黙の中にいた。
エレーナがローレンスの名を呼んだという報告は、すでに彼の心をも揺さぶっていた。
(ロイス伯爵……君は今、どこにいるのだ)
ヴィンセントは、帝国におけるローレンス・ロイスの功績が記された記録を指でなぞった。
ローレンスは、腐敗の進む帝国文官組織において、唯一無二の正義を貫いた楔だった。彼がいれば、今の帝国の混乱はなかっただろう。
だが、ローレンスの失踪と時を同じくして、エレーナを捨てたあの継母が、今や帝国最大の権力者の一人、ヴァルグレイ侯爵夫人として君臨している。
「もしローレンスの捜索を本格化させれば、ヴァルグレイの耳に入る。それは、エレーナが生きてロゼレイドにいることを奴らに教えるも同然だ……」
ヴィンセントは拳を固く握りしめた。
帝国のためにローレンスを探すべきか、エレーナを守るために潜伏し続けるべきか。その矛盾する責務が、公爵である彼の心を鋭く切り裂いていた。
そこへ、エレーナが部屋を訪れる。
「ヴィンセントお父様……。私、ローレンスお父様のこと、思い出したの。でもね、二人とも『お父様』って呼んでもいいかな?」
その純粋な言葉、自分への絶対的な信頼。ヴィンセントは、エレーナを力強く抱きしめ、心の中でヴァルグレイへの宣戦布告を済ませた。
(……あの子が二人のお父様を誇れる日が来るまで、私がこの手ですべての敵を薙ぎ払おう)
その日の夕刻。皇太后リサーナと王妃エルシアが、異例の顔合わせで公爵邸を訪れた。
最高権力者たちの来訪に邸内が緊張に包まれる中、リサーナは凛とした足取りでエレーナの前に立った。
「エレーナ。貴女が過去を愛として受け入れ、二人の父を認めるほどに強くなったこと、誇らしく思います」
そしてエルシア王妃が、そっと絹の箱を捧げ持った。
「これは、貴女の本当のお母様……ルチアが託した願いよ」
差し出された箱の中で輝いていたのは、エレーナの瞳と同じ色の翠色の宝石が嵌められた、母ルチアの形見のペンダントだった。
「ルチアは事故で亡くなる直前、私にこう言ったわ。『もしエレーナに何かが起きた時、夫のローレンスが留守でも、この子が一人で立ち上がれるように……』と。……エレーナ、今の貴女なら、この石に込められた愛を、正しく力に変えられるはずよ」
王妃の手で、ペンダントがエレーナの首にかけられた。
宝石が胸元に触れた瞬間、懐かしい花の香りが溢れ出す。
「……あったかい。お母様……私、守られてたんだ」
エレーナの瞳から涙がこぼれ、同時に彼女の内に眠る「銀の魔力」が、翠の宝石と共鳴して力強い輝きを放った。
その光を満足げに見つめ、皇太后リサーナがヴィンセントに告げる。
「母の遺した『魔導の鍵』。これで彼女は、ロイスの誇りとロゼレイドの愛を両手に携えたわ。……さあ、ヴィンセント。あの子を真の『至宝』へと鍛え上げる準備は整ったわよ。私が自ら、手解きをしてあげましょう」
エレーナはペンダントを握りしめ、二人の父、そして母への愛を胸に、静かに前を見据えた。
「……私、強くなる。ローレンスお父様にいつか会えた時、今度は私がお父様を待ってあげられるくらいに。ヴィンセントお父様を守れるくらいに。……絶対に、負けない」




