琥珀色の誓い、獅子たちの夜
冬の重い太陽が地平線へと沈み、空が群青色に染まる頃。
ロゼレイド公爵邸の門を、ヴィンセントの騎馬がくぐった。王宮での激務を終えた彼の顔には冷徹な仮面が張り付いていたが、屋敷の灯りが見えた瞬間、その瞳に「父」としての焦燥が滲む。
(エレーナは、まだ怯えの中にいるのか。それとも……)
ヴィンセントは馬を預けると、足早に玄関ホールへと向かった。鎧の触れ合う冷たい音が、静かな廊下に響く。
「……閣下、お帰りなさいませ」
出迎えた家臣たちの言葉を背に、彼が執務室へ向かおうとしたその時だった。
「――お父様!」
階段の上から、鈴の音のような、けれどもしっかりと芯の通った声が響いた。
ヴィンセントが驚いて顔を上げると、そこにはリサーナに付き添われたエレーナが立っていた。
数日前の、死人のようだった青白さは消えている。まだ身体は細く、リサーナの袖をぎゅっと握りしめてはいたが、その瞳には失われていた光が灯っていた。
「エレーナ……。起きていたのか」
「はい。お父様に、どうしても伝えたいことがあって……」
エレーナはリサーナの手を離し、震える足で一歩、また一歩とヴィンセントの方へ歩み寄った。そして、彼の目の前で深々と頭を下げた。
「お父様……。心配をかけて、ごめんなさい。私、ずっと怖がってばかりで……。でも、おばあ様とお話しして、決めたんです」
エレーナは顔を上げ、潤んだ、けれど強い意志を宿した瞳でヴィンセントを見つめた。
「私、強く、なりたいです。お父様の娘として、堂々と笑えるようになりたい。……だから、私を鍛えてください。もう二度と、あんな怖い夢に負けたくないから!」
ヴィンセントは絶句した。あの日、雪山で息絶え絶えだった雛鳥が、今、自ら翼を広げようとしている。
「……よく言った。お前は、私が思っていたよりもずっと、ロゼレイドの血に相応しい誇り高い娘だ」
ヴィンセントは膝をつき、エレーナの小さな肩を包み込んだ。その手の温もりに、エレーナの瞳から一筋の涙がこぼれたが、それは悲しみではなく、明日への希望だった。
晩餐の席には、ヴィンセント、リサーナ、エレーナに加え、ゼノやバッシュたちも揃った。
アンたちが運ぶ温かな食事を口にしながら、エレーナは少しずつ笑顔を取り戻していく。そんなエレーナを優しく、時に厳しく見つめていたリサーナが、食後の茶を楽しみながら口を開いた。
エレーナをアンたちが部屋へ連れて行き、食堂に大人たちだけが残った。
ヴィンセントが三日後の王妃との密談について語り、復讐のために「今は泳がせる」という方針を固めた直後。リサーナが鋭い眼差しで、壁際に控える五人の精鋭たちを見渡した。
「さて。帝国一の令嬢に育てるとは言いましたが、今のあの子はあまりに弱々しい。気力だけで体が動けば、いずれ心が壊れてしまいます。……まずは、あの子に『生きるための力』をつけさせます」
リサーナの視線が、一人の男の前で止まった。
「バッシュ。明日から、貴方がエレーナの最初の師になりなさい」
「えっ、俺っすか!?」
驚いて声を上げたのは、筋骨隆々の巨漢、バッシュだった。隣にいたゼノが「……私ではなく、バッシュ殿なのですか?」と不思議そうに眼鏡を押し上げる。
「ええ。今のあの子に必要なのは、図書室の知識でも、フェイの窮屈な礼法でもありません。……まずは、美味しい空気を吸って、庭を走り回り、健康な体を手に入れること。そして、何かに怯えたとき、自分の足を動かして逃げるか、あるいは立ち向かうための『体幹』です」
リサーナはバッシュに向かって不敵に微笑んだ。
「バッシュ、貴方の役割は『お嬢様を笑顔で疲れさせること』です。厳しい訓練など不要。まずはこの広大な庭を、あの子の遊び場に変えなさい。……お嬢様の頬に赤みが差すまで、貴方が責任を持って守り、育てるのです」
「……へっ。なるほど、リサーナ様。合点がいきましたぜ!」
バッシュは野性味溢れる笑みを浮かべ、胸を叩いた。
「お嬢を、太陽の下が一番似合う元気な娘にしてみせますよ。……閣下、俺に任せてください!」
ヴィンセントは、少し不安そうにしながらも、母リサーナの慧眼を信じ、短く頷いた。
「……頼む。だが、無茶はさせるなよ」
窓の外は、静かに雪が降り始めていた。
ヴィンセントは一人、窓から暗闇を見つめ、静かに宣戦布告を呟く。
「……ヴァルグレイ。貴様らが何者であれ、我が娘に触れたことを後悔させてやる」
一方、王宮の奥底で、王妃セシリアは一人、古びた手紙を見つめていた。ヴィンセントたちがまだ知らない、彼女自身の深い恨み。
雛鳥は、まだ知らない。
明日から始まる、大きな騎士の背中を追いかける日々が、自分をどれほど強く変えていくのか。
そして大人になった時、どれほど美しく、恐ろしい「氷の薔薇」となって、世界を支配することになるのか。




