冬の陽だまり、銀の騎士の福音――
王宮で男たちが復讐の炎を燃やしている頃、ロゼレイド公爵邸のエレーナの寝室は、止まった時間の中に沈んでいるかのような静寂に包まれていた。窓の外では冬の陽光が、枯れた庭園を白く照らしている。しかし、室内を支配しているのは、冷たい悪夢の気配だった。
「……いや……やめて……。ごめんなさい、フェリミア様……」
天蓋付きのベッドに横たわるエレーナの唇から、掠れた悲鳴が漏れる。その白い額にはじっとりと脂汗がにじみ、細い指先は、最高級のシルクのシーツを真っ白になるほど強く握りしめていた。小さな身体が、見えない鞭から逃れるように不自然に強張っている。
その傍らで、リサーナは微動だにせず孫娘を見守っていた。かつて帝国を揺るがした「鉄の女帝」としての威厳は、今は隠居した一人の祖母としての、深い憂慮と静かな憤怒へと形を変えている。
「……お腹、空いたの……もう、パンの耳も……拾わないから……だから、暗いところは……いや……」
うわ言の中で繰り返される、忌まわしい過去の断片。リサーナの瞳が、凍てつくように鋭く細められた。
(……フェリミア。それが貴女を虐げた者の名なのですね。この幼い心に、どれほどの闇を刻みつけたというのか)
隠居の身となって久しいリサーナだが、その胸中には、孫娘をここまで追い詰めた「悪意」への、峻烈な炎が渦巻いていた。
「ああぁぁぁぁ!!」
その時、エレーナが弾かれたように上半身を跳ね上げ、起き上がった。大きく見開かれた瞳は何も映しておらず、焦点が定まらない。呼吸は激しく乱れ、肺が空気を拒絶するように喉が鳴っている。
「エレーナ! 落ち着きなさい、エレーナです!」
「来ないで! 叩かないで! 私、いい子にするから……納屋に戻るからぁ!!」
エレーナは、目の前にいるリサーナさえも「過去の亡霊」に見えているかのように、狂乱状態でベッドの端へと這いずった。自分を抱きしめようとする優しい手さえも、自分を傷つける暴力だと思い込み、頭を抱えて激しく首を振る。
絶望の深淵に沈み、完全に心を閉ざそうとする少女。ここで優しく言葉をかけるだけでは、今の彼女には届かない。リサーナは瞬時に判断し、その声を一段、凛として鋭く響かせた。
「エレーナ・ロゼレイド!!」
その凛然たる一喝。帝国を導いてきた者の覇気が、室内の空気を一変させた。エレーナの全身がビクリと跳ね、激しい震えが止まる。恐怖に支配されていた意識が、その力強い呼び声によって、無理やり「今」へと引き戻された。
リサーナは、怯えるエレーナの細い両肩を、逃げ場を塞ぐようにしっかりと掴んだ。
「……お顔を上げなさい。貴女を愛し、守っているのは誰ですか」
「……えれーな……。……ろぜれい、ど……です……。……お父様、の……娘……」
「そうよ。貴女は帝国守護卿ヴィンセントの愛娘。このリサーナが命にかけて守る、誇り高き孫娘です」
リサーナは、エレーナをゆっくりと胸の中に引き寄せた。リサーナの温もりと、規則正しい鼓動。それが現実であることを理解した瞬間、エレーナの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
ようやく泣き止み、リサーナに促されるまま温かな野菜のポタージュを数口口にした頃。廊下を走る、しかしどこか理性的で規則正しい靴音が響いた。
「エレーナ起きてる?? ……あ、失礼しました」
飛び込んできたのは、ロゼレイド直属第二部隊長、ゼノだった。街の巡回を終えるなり、エレーナのを心配していたゼノは騎士服のまま駆けつけた。
彼はロゼレイドの盾たる精鋭騎士でありながら、本質的には極めて繊細で引っ込み思案な性格だ。非番になれば一人図書室に立てこもり、古書と対話することを何よりの喜びとする青年である。
「……ゼノ。おかえりなさい」
エレーナの弱々しい声に、ゼノは兜を脱いだ手で口元を隠し、ボソリと「……ただいま戻りました。……目が覚めてよかった」と呟くのが精一杯だった。本当なら、気の利いた励ましの言葉の一つでも言いたい。だが、リサーナがいる事もあり彼は自分の無骨な言葉が、今の繊細なエレーナを傷つけないか、不安でたまらなかったのだ。
ゼノは一度、深く膝をついてエレーナの無事を確認すると、すぐに立ち上がって背を向けた。
「……今、エレーナに勧めたいと思ってた本を……持、持ってくるから」
彼はそのまま、逃げるように自らの聖域である図書室へと駆け出した。
膨大な蔵書が並ぶ静寂の空間。そこは彼が最も饒舌になれる場所だ。ゼノは棚を指でなぞり、一冊の絵本を慎重に「拾い出した」。それは、彼が幼い頃、周囲と上手く話せなかった時に、何度もその心を救ってくれた優しい物語。
ゼノはそれを持って寝室へ戻ると、自分では直接渡せず、控えていたメイドのアンに、少し顔を赤らめて本を差し出した。
「アン、これを。……私の声は、少し響きすぎる。……いつもエレーナ様の側にいる、貴女たちの柔らかい声で……この物語を届けてあげてください」
「……畏まりました、ゼノ様。貴方の深いお心遣い、エレーナ様にしっかりとお届けしますわ」
アンはゼノの性格をよく知っており、慈しむような笑みを浮かべて本を受け取った。ゼノは安心したように一歩下がり、壁際で守護の姿勢をとった。彼は語らずとも、その知的な瞳で、静かに、そして誰よりも熱くエレーナを見守っていた。
アンの穏やかな読み聞かせが始まった。
物語は、小さな小鳥が嵐の中で家族とはぐれてしまうが、大きな樹に見守られ、羽を休め、やがて自分の足で立ち上がるまでを描いたもの。
メイドたちの温かな声。リサーナの凛とした眼差し。そして、壁際で不器用ながらも必死に守護し続けるゼノの気配。
エレーナの胸の中に、確かな決意の火が灯った。
(……いつまでも怖がってちゃ、ダメ。私はもう、名もなき子供じゃない……)
エレーナは、自分の小さな手を見つめた。
自分を拾い、愛してくれたお父様。引っ込み思案だけど、いつも私にぴったりの本を選んでくれる優しいゼノさん。そして、厳しくも温かいおばあ様。
あといつも楽しませてくれるフェイに、アルベルトお兄様。
いまはアカデミーに行っていないけど帰ってきた時は遊んでくれるジュリアンお兄様に、、、バッシュにカインにシオンにみんなのことを考える
(私は、ヴィンセントお父様の娘、エレーナ・ロゼレイドなんだもん。皆をこんなに心配させちゃ、ダメ。……強くなって、今度は私が皆を安心させなきゃ。だってお父様の娘だもん!)
エレーナは、物語が終わると同時に、リサーナの目を見て真っ直ぐに言った。
「おばあさま。私、もう大丈夫です。もっとたくさん食べて、早く元気になります。だってお父様が、ロゼレイドが、私の大好きな居場所だもん!」
その瞳には、恐怖を乗り越えた者にしか宿らない、気高く強い光があった。リサーナは満足げに目を細め、ゼノは壁際で、誰にも見られないようにそっと、深く安堵の溜息を漏らした。




