皇帝の執務室 ――名前という名の鍵
王宮の回廊に、軍靴の音が冷たく響く。
馬車を降りた瞬間、ヴィンセントは一歩遅れて歩く第一部隊長を振り返り、低く、這うような声で釘を刺した。
「……フェイ。真面目に仕事しろよ。」
「ひっ……!」
「お前がサボって情報を拾い損ねれば、それだけエレーナの不安を取り除くのが遅れると思え。これ以上醜態を晒すなら、今すぐ兵舎の地下に叩き込んで再教育してやる。いいな?」
「……ハッ! 直ちに本来の職務を遂行し、並行して蟻の這い出る隙間もないほど徹底的に情報を拾い集めます、閣下!」
フェイは、ジョエルに首根っこを掴まれるようにして執務室へと連行されていった。ヴィンセントはその背中を見送ることもなく、皇帝の執務室へと直行した。
王宮の最深部、皇帝の執務室。
重厚な黒檀の扉が閉ざされた瞬間、そこはもはや公的な政務の場ではなく、血を分けた「家族」の空間へと変貌した。
「ヴィンセント! お前、一体全体どういうつもりだ!」
皇帝が椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がる。その顔には、帝国を統べる支配者の仮面はなく、弟を案じる「兄」としての焦燥が張り付いていた。
「昨日、お前が執務を放り出して血相を変えて帰宅したと聞いた。理由を聞こうとしたアルベルトを問い詰め、あの隠居された母上までが、まるで戦場に赴くような形相で屋敷へ向かったと……。穏やかに余生を過ごされている母上をそこまで動かすなど、一体何が起きたのだ!」
ヴィンセントは、兄の剣幕を真正面から受け止めながら、静かに机の前へと進んだ。
「……兄上。ご心配をおかけしました。ですが、本題の前に一つ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ? 申してみろ。お前の願いなら、私が聞き届けぬことなどない」
「ありがとうございます。……では。この帝国の貴族家で、『フェリミア』という名を持つ令嬢は、現在どの程度おられるでしょうか」
「……フェリミア?」
皇帝は、あまりに予想外な問いに眉を寄せた。
「……貴族の令嬢の名だと? そうだな、その名は帝国では決して珍しくはない。だが、高位貴族となれば話は別だ。……私の知る限り、今社交界でその名を持つのは一人。最近、あまりろくな噂を聞かないヴァルグレイ侯爵の、後妻が連れてきた娘だけだが。それがどうした?」
「ヴァルグレイ……」
ヴィンセントの瞳が、ふっと細められた。その奥に宿るのは、理性を焼き切るほどの冷徹な殺意。それを見た皇帝は、表情を氷のように鋭くした。
「……お前のその顔は、ただの興味ではないな。ヴァルグレイ家か。確かにあの一家については、不透明な金回りと、屋敷内の不自然な人の入れ替わりなど、妙な噂が絶えない。……ヴィンセント、何があった。お前がそこまで『名前』に固執する理由は何だ」
ヴィンセントは拳を固く握りしめ、低い声で話し始めた。
「……昨日の出来事をお話しします。私の娘、そして貴方の姪であるエレーナのことです。……あの子は昨日、突然のパニックに陥り、聞いたこともないはずのその名を……血を吐くような絶叫と共に口にしました」
「……エレーナが?」
「はい。町でヴァルグレイ侯爵夫人とその娘とすれ違ったときフェミリアと名前を聞いた時パニックに陥ったみたいなんです。二年前、雪の森であの子を拾ったあの日。あの子を無慈悲に虐げ、死を待つばかりの雪の中に捨て去った『誰か』の名を……恐怖と共に、思い出したのかもしれません」
皇帝の顔から、一切の表情が消えた。
エレーナはロゼレイドの血を引いていない。だが、二年前、ヴィンセントが拾って娘として育て、可愛がっていると噂で聞いていた。
ヴィンセント本人からみえる行動や母であるリサーナの溺愛ぶりをみてい皇帝だった。それ以来、彼女は皇帝にとっても、唯一無二の「姪」となっていた。
「……なるほど。隠居された母上がわざわざ動かれたのは、そういうことか。……フェリミア、そしてヴァルグレイ。ただの素行の悪い貴族だと思っていたが……まさか、我が弟が慈しむ娘を傷つけたのが奴らだと言うのだな」
皇帝の声が、低く地を這うように響く。
「許しはせんぞ。どのような理由があろうと、我が一族の平穏を奪った報いは受けさせる」
「ええ。ですが、確証が必要です。母上が仰るには、女性の交友関係や家族の仔細については、兄上よりも王妃様の方が詳しいかもしれない、と。……隠居した身では今の社交界の細かな毒までは拾い切れぬから、と仰っていました」
皇帝は深く頷き、力強くヴィンセントの肩を掴んだ。
「母上の仰る通りだ。社交界の深奥に流れる毒については、王妃の方が遥かに鼻が利く。……ヴィンセント、日にちが空いてしまうがすぐに手配しよう。お前が必要とする全ての情報を、王家の名にかけて暴き出させてやる」
「……感謝します、兄上」
「礼などいらん。お前が弟として私を支えてきたように、お前の怒りは私の怒りだ。……ヴィンセント、あの子を泣かせた者を、決して逃がすな。たとえ侯爵家であろうと、血の一滴まで後悔させてやれ」
「――承知いたしました。……根こそぎ、刈り取って参ります」
ヴィンセントは深く一礼し、執務室を後にした。その瞳には、最愛の娘を守る父親の情愛と、敵を殲滅する守護卿としての冷酷な意志が、共存していた。




