冬の終わり
耳の奥で、規則正しい時計の音だけが響いている。
厚い真綿に包まれているような微睡の中で、抑えられた低い話し声が聞こえてきた。
「……閣下、この子の体を見てください。あまりに細い。……年齢は、どれほどだと思われますか?」
悲痛な響きを含んだその声は、私を診察しているヘンリックのものだった。
「……わからん。見た目は四歳か五歳のようだが、先ほど雪原で見せた眼光は、もっと年上のようにも見えた。……だが、そんなことよりヘンリック。この痣はどうにかならないのか。……いったい、どれほど過酷な環境に置かれれば、これほど小さな子がこんな……」
ヴィンセントの声は、怒りよりも先に、深い困惑と痛みに震えていた。
その「心配」の気配を、叱責の前触れだと勘違いした私は、恐怖で心臓が跳ね、無理やり瞼を押し上げた。
「ひっ……!」
喉の奥で、小さな悲鳴が漏れる。
枕元にいた二人の男が、一斉にこちらを振り返った。
「……気がついたか」
ヴィンセントが、椅子から身を乗り出すようにして私を覗き込んだ。鋭い眼差しに射抜かれ、私は震える手でシーツを掴み、ベッドの端まで後ずさろうとした。けれど、体に全く力が入らない。
「あ、あの……ごめんなさ……すぐ、お仕事、しますから……どうか……っ」
ガタガタと震え、頭を抱えて縮こまる私に、ヴィンセントは一瞬息を呑んだ。彼は慌てて、しかし私を刺激しないようゆっくりと膝をつき、目線を合わせる。
「仕事など、しなくていい。……気分はどうだ? どこか痛むか? ……お前を、何と呼べばいい? 名は何だ。それから……幾つだ?」
その問いかけは、驚くほど静かで、優しかった。
「な、なまえ……なまえは、エレーナ、です……。としは……わかりません……」
「……わからないのか?」
ヴィンセントの瞳に、言いようのない陰りが落ちた。
「……おたんじょうびを……おしえて、もらえなくて……。でも、お母様が死んでから、冬が三回……きました……」
私の掠れた言葉に、部屋の空気が一瞬で静まり返った。
ヘンリックは唇を噛み締め、何かに耐えるように目を伏せている。ヴィンセントの大きな手が、シーツの上から私の震える膝を、まるでお守りのようにそっと包み込んだ。
「……そうか。ならば今日だ」
「え……?」
「お前の誕生日は今日だ。年齢など、これからいくらでも積み上げればいい。今日からお前は、エレーナ・ド・ヴァン・ロゼレイド。我がロゼレイド公爵家の娘だ」
「……ロゼレイド……?」
「そうだ。もう、何も心配いらない。……お前は、雪原で見つけた私の宝だ」
私は差し出された銀のスプーンを震える手で受け取り、一口、スープを口に含んだ。
温かな熱が、ゆっくりと喉を通って、凍りついていた心臓まで届く。
「……あったかい……おいしいです……っ」
涙がスープに落ちて、小さな波紋を作る。私が最後の一口を飲み干し、少しだけ緊張が解けたその時でした。
「――閣下、そこまでになさいませ。お嬢様が困惑しておいでです」
凛とした声と共に、部屋の扉が音もなく開きました。
現れたのは、非の打ち所がないほど完璧にメイド服を着こなした女性。メイド長のマーガレットでした。
「マーガレットか。……今、いいところだ。私は娘と対話をして……」
「これ以上は男親の無骨な領分ではございません。お嬢様の体を清める準備が整いました。閣下とクラウス様は、速やかに退室を」
「……む、しかし……」
「退室を」
あの威厳あふれるヴィンセントが、「……あ、ああ、わかった」と気圧されるほどの迫力。マーガレットは私の枕元へ歩み寄ると、膝をついて優しく微笑みました。
「エレーナお嬢様、初めまして。私はマギーとお呼びください。……さあ、まずはその凍えた体を温めましょう。温かいお湯を用意いたしました」
マギーは、まるで壊れやすい宝物を扱うような手つきで私を抱き上げました。
「あの、マギーさん。……ヴィンセント様は、本当に、私をここに置いてくださるのですか……?」
「ヴィンセント様」という私の呼び方に、マギーは移動しながら少しだけ困ったように目を細めました。
「お嬢様。閣下は『お前の父だ』と仰いました。ですから、あの方のことは『お父様』とお呼びになってよろしいのですよ。そう呼ばれれば、あの閣下もきっと顔を綻ばせて喜ばれますわ」
「お、おとうさま……?」
私は首を横に振りました。
「……だめです、そんなの。あんなに立派な方に……私みたいなのが、そんな風に呼ぶなんて……。きっと、嫌がられてしまいます」
「ふふ、そんなことはございませんのに。……よろしいですよ。呼び方は、お嬢様の心が決まった時で。ですが、あの方は貴女が『ヴィンセント様』とお呼びになるたびに、少しだけ寂しそうな顔をされるかもしれませんね」
「……寂しい……?」
信じられない思いのまま、私は大理石の浴室へと運ばれました。
マギーの手によって服が脱がされ、湯船に浸かると、あばら骨が浮き出た体と、背中に残る無惨な痣が露わになりました。マギーの手が一瞬止まり、袖口からカチリと硬い金属音が聞こえた気がしましたが、彼女は私に気づかれないよう、さらに優しくお湯をかけてくれました。
「お嬢様、熱くはありませんか? 大丈夫ですよ、ここは貴女のお家なのですから……」
その温かさに、私の心までゆっくりと解けていくようでした。




