雪に溶ける絶望と、漆黒の救済
(エレーナ目線)
ガタガタと激しく揺れる馬車。痩せ細り、骨が浮き出た私の体はその振動に耐える力もなく、冷たい床の上でただ転がされていた。
意識は朦朧とし、お腹が空いているのかどうかさえ、もう分からなくなっていた。
「……着いたわ。さあ、降りなさい。化け物の墓場よ」
継母お付きの御者が、私の細い腕を掴んで雪原へと放り出す。
薄い部屋着一枚の体に、ナイフのような寒風が突き刺さった。
「(……寒い……お父様……お腹が、すいたよ……)」
雪の中に倒れ込み、指先さえ動かせない私を見下ろして、御者は嘲笑混じりに唾を吐きかけた。
「ロイス伯爵には、『散歩中に魔物に襲われた』とでも報告しておくよ。安心しな、すぐに凍えて痛みも感じなくなるさ」
遠ざかっていく馬車の音。
静寂が訪れる。真っ白な雪の上に、私の銀色の髪が散らばり、少しずつ体温が奪われていく。
もう、黄金の瞳を輝かせる気力もない。このまま雪に溶けて消えてしまおう。そう思った時だった。
——ザリ……ザリ……。
雪を踏みしめる、重厚な足音が近づいてくる。
地獄の使いが迎えに来たのかと思い、私は最期の力を振り絞って薄く目を開けた。
視界に入ったのは、漆黒の外套をなびかせ、夜の闇を纏ったような一人の男。
その背後には、見たこともないほど豪華な、黒塗りの馬車が停まっている。
「……ほう、こんな辺境の雪原に、小さなネズミが落ちているとはな」
低く、深く、震えるほど美しい声。
男は私の前に膝をつくと、冷たくなった私の頬を、温かな手で包み込んだ。
その瞬間、私の能力が勝手に跳ね上がる。
——視界共有。
男の視界を通して見えた自分は、あまりにも小さく、今にも消えそうな、けれど泥の中でも誇り高く光る「黄金の瞳」をしていた。
男は、私の瞳を見て……継母のように「気味が悪い」とは言わなかった。
「……うむ、、、美しい。死ぬには惜しいほどの、強い瞳だ」
男は私を軽々と抱き上げた。その腕は驚くほど力強く、そして、私がずっと求めていた「本物の温もり」に満ちていた。
「お前、選ばせてやろう。このまま雪の中で眠るか、それとも、私という悪魔の手を取って、お前を捨てた世界を焼き尽くすか」
私は、震える手で男の漆黒の襟元を掴んだ。
「……た、すけて……。……おなかが、すいたの……」
「……ふっ、いい答えだ」
男——ヴィンセント公爵は、愉快そうに口角を上げた。
「クラウス、カイン。今日からこの子は私の『娘』だ。我が公爵家の最高傑作として、育て上げろ」
こうして、伯爵令嬢エレーナは雪の中で死に、公爵令嬢エレーナとして、地獄の底から這い上がることになった。
(ヴィンセント目線)
兄である――この国の皇帝との会談は、実に愉快な時間だった。
唯一の肉親であり、良き理解者でもある彼と、帝国の未来について美酒を酌み交わしながら語り合う。それは私の数少ない安らぎのひとときだ。
「ヴィンセント、お前もそろそろ再度身を固めたらどうだ? お前の血を引く優秀な娘を見たいものだよ」
「ふっ、兄上。私に務まるような柄ではありませんよ」
そんな冗談を交わし、温かな余韻に浸りながら、私は漆黒の馬車で帰路についていた。
窓の外は、激しい吹雪。だが、皇帝から贈られた極上の毛布が、車内を春のような温もりに保っている。
「閣下、吹雪が強まってまいりました。お急ぎになりますか?」
御者台に座ってるカインの声が風に混じって届く。
「いや、構わん。急ぐ旅でもなし、ゆっくりと……」
言いかけた言葉が、不自然に止まった。
窓の外、真っ白な雪原の中に「異質な色」を認めたからだ。
私は、自分でも驚くほどの速さで馬車を止めさせた。
「閣下、何事ですか!」
慌てて駆け寄るアルベルトを制し、私は雪の上へと降り立つ。
そこには、汚れ一つない新雪の上に、銀色の糸を撒き散らしたような美しい髪が広がっていた。
近づけば近づくほど、それが「人」であることがわかる。それも、驚くほど小さな子供だ。
その子は、薄い部屋着一枚という、死を待つためだけに用意されたような姿で倒れていた。
あまりの痩せ細り方に、一瞬、胸が締め付けられるような不快感を覚えた。誰がこれほどの幼子を、このような場所に捨てたのか。
私がその頬に触れようとした、その時――。
雪に埋もれた小さな顔が動き、その瞳がカッと見開かれた。
「……っ!?」
息を呑んだ。
冬の闇を切り裂くような、鮮烈な黄金の輝き。
それは、先ほど皇帝の宮殿で見たどんな宝物よりも、遥かに尊く、そして呪わしいほどに澄んでいた。
瞬間、頭の中に強烈な衝撃が走る。
——視界共有。
私の意識が少女の瞳に吸い込まれ、私は自分自身の姿を、雪の中に横たわる子供の低い視点から見上げていた。
絶望の淵に立ち、死を目前にしながら、この少女は私という存在を、その特異な能力で、しかと「捉えた」のだ。
(……なんと、凄まじい「生」への執念だ)
先ほどまで語り合っていた穏やかな世界とは、真逆の地獄。
この子は、自分を殺そうとする運命そのものを、その黄金の瞳で睨みつけている。
「……子供、選ばせてやろう」
私はその震える顎を持ち上げ、静かに、だが熱を持って告げた。
「このまま雪の中で眠るか、それとも、私という悪魔の手を取って、お前を捨てた世界を焼き尽くすか」
少女は、骨の浮いた細い指で、私の漆黒の外套を、必死に、ぎゅっと掴んだ。
「……た、すけて……。……おなかが、すいたの……」
そのあまりに切実で、幼い言葉。
復讐を唆す私に、この子は「生きたい」と乞うた。
その瞬間、私の中に、兄上との会話で感じた以上の、強烈な「所有欲」と「慈しみ」が湧き上がるのを感じた。
「……ふっ、いい答えだ」
私は、この世で最も貴重な「奇跡」を扱うように、彼女の体を抱き上げた。
兄上が跡継ぎの話をしていたのは、この出会いを予言していたからだろうか。
「カイン、クラウス。今日からこの子は私の『娘』だ。我が公爵家の最高傑作……いや、私が生涯をかけて守り抜く、我が愛娘だ」
馬車に戻り、皇帝から贈られた最高級の毛布で彼女を包み込む。
眠りについた少女の小さな手を見つめながら、私は心に決めた。
この子を捨てた愚か者どもには、皇帝に代わって私が裁きを。
そしてこの子には、帝国のすべてを跪かせるだけの「愛」を。
兄上、私にもようやく守るべきものが見つかりましたよ。
漆黒の馬車は、冷たい雪原を後にし、新たな「希望」を乗せて走り出した。




