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• 『社交界の華は、影に咲く毒。〜私を捨てた世界、すべてお返しいたします〜』  作者: ヨォコ
第3章:広がる世界と、七歳の肖像

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公爵の膝上と、賑やかな晩餐

窓の外では、夕闇が公爵邸の広大な庭園を藍色に染め始めていました。エレーナの自室では、最後の「儀式」が行われています。

「よし、もう安心だよ。傷も綺麗に塞がったし、体重もしっかり増えた。これならもう、お外で駆け回っても大丈夫だ」

屋敷専属の医師、ヘンリック先生が、安堵のため息とともに白髭を揺らしました。実はあの日、泥まみれで運び込まれたエレーナを診て、ヘンリックは密かに拳を握りしめていました。あまりにも痛々しい傷跡、栄養失調で浮き出た肋骨。彼はヴィンセントの命を受け、エレーナが怯えないよう、彼女が眠っている間などに細心の注意を払って毎日こっそりと回診を続けてきたのです。

「……せんせい。まいにち、ありがとう」

エレーナが深々と頭を下げると、ヘンリック先生は鼻の奥をツンとさせながら、何度も頷きました。

「礼を言うのはこちらだよ、エレーナ様。元気に笑ってくれることが、医者にとって一番の薬だ。……さあ、今日で回診はおしまい。これからは、もっと広い世界を見ておいで」

それは、エレーナが名実ともにロゼレイド家の「家族」として歩き出すための、最初のお墨付きでした。

それから数日。体力が戻り、頬に健康的な赤みが差してきたエレーナは、ある夕暮れ、マギーに勇気を出して言いました。

「……マギー。きょう、……みんなと、エレーナ、ごはんたべる」

「まあ! エレーナ様、食堂デビューでございますね!」

これまでは体調を考慮して自室で食べていたエレーナですが、屋敷の人々と触れ合ううちに、「みんながいる場所」へ行きたいと願うようになったのです。

夕食の時間。

エレーナがマギーに手を引かれ、緊張で小さな肩を震わせながら廊下をトテトテと歩いていると、背後から重厚で心地よい振動を伴う声が降ってきました。

「エレーナ、こんなところでなにしてる?」

「ふぇ……っ、お、お父様……!」

振り返ると、そこには漆黒の外套を脱いだヴィンセントが立っていました。エレーナは一生懸命に答えました。

「え、エレーナ、きょうは……みんなと、食堂で、ごはんたべるの」

それを聞いたヴィンセントの黄金の瞳が、わずかに細まりました。彼は無言でエレーナの前に片膝をつき、大きな手で彼女をひょいと、羽毛でも扱うように軽々と抱き上げました。

「そうか。なら、一緒に行こう。私の側を離れるな」

エレーナをお姫様抱っこしたまま、ヴィンセントは食堂へ。そのまま自分の上座の席に座ると、なんと膝の上にエレーナをすとんと乗せました。

「ええっ!? 閣下、エレーナを膝の上に……!?」

第一部隊長のフェイが、持っていたフォークを落としそうになりながら叫びます。

「フェイ、騒ぐな。……エレーナ、今日は君の好きなスープだよ」

ゼノが眼鏡を光らせてたしなめる中、ヴィンセントは当然のような顔でエレーナに最初の一口を食べさせました。エレーナはお父様の腕の温もりに包まれて、小さな口を開けました。

「……おいしい。……あったかいね」

そこへ、ガバッと勢いよく扉が開きました。

「おっつーっす! 悪い悪い、任務が長引いちまって……」

入ってきたのは、燃えるような瞳をした青年リアンと、瓜二つの冷静な青年シオン。二人はいつも通り席に座ろうとしましたが、ふと顔を上げた瞬間、石のように固まりました。

「……ッ!?!?!?」

「……おい、シオン。もしかして……その子が、例の……?」

リアンが震える声で呟きました。あの日、雨の中、泥にまみれていた小さな塊が、今、真っ白なドレスに身を包んだ天使のような姿で閣下の膝に収まっている。

「……間違いない。エレーナ様だ。だが……これほどとは」

シオンも驚愕を隠せません。エレーナが「こんばんは」と挨拶すると、双子は慌てて姿勢を正しました。

「あー……お嬢様! 俺はリアン。あの日、閣下の後ろにいたんだけど……いや、あの時はすまなかった。こんなに綺麗になっちまって……」

「……シオンだ。初めまして、エレーナ。……閣下、非常に、……驚いております」

ヴィンセントは双子を一喝しつつも、「座れ。今日は楽しい食事にする」と宣言しました。

そこからは、ロゼレイド家始まって以来の「お話し会」となりました。フェイは街の賑やかな屋台の話を、ゼノは図書室にある魔法の本の話を。リアンとシオンは任務で行った雪国の氷の城やオーロラの話を。

「わあ……! ゆきの、おはな……。おにくだいすき。みんな、すごいのね」

エレーナは大きな目を丸くして、ぴょこぴょこと跳ねるように喜びました。いつもなら沈黙が美徳とされる食堂。しかし今夜は、エレーナを笑わせようと、最強の騎士や賢者たちがこぞって武勇伝や不思議な話を披露していました。

やがて食事も終わり、エレーナがウトウトと船を漕ぎ始めました。

フェイやゼノ、双子たちは「名残惜しいですが」と、それぞれ自分の部屋へと戻っていきました。彼らの足取りは、いつになく軽く、その表情には充実感に似た温かな色が浮かんでいました。

ヴィンセントは眠りかけたエレーナを再び優しく抱き上げ、静かになった廊下を通って、彼女の部屋へと向かいました。

部屋に着き、ベッドに横たわったエレーナの顔を、ヴィンセントは月明かりの中で見つめました。

「……お父様」

眠りにつく寸前、エレーナがヴィンセントの大きな指をギュッと握りしめました。

「……なぁに?」

「きょう、とっても、たのしかった……。エレーナ、ここに来て、……しあわせなの」

ヴィンセントはその言葉を噛みしめるように目を閉じました。自分が冷徹に、ただ守るべき領地のために生きてきた日々が、この小さな手の温もりだけで肯定されたような気がしたからです。

「……ああ。私もだ。ゆっくり休み、エレーナ」

ヴィンセントはエレーナの額に、慈しむような口づけを落としました。

彼女が深い眠りに落ちたのを確認し、音を立てずに部屋を出ると、廊下にはもう誰もいません。フェイもゼノも、そして双子たちも、自室で今日という特別な一日の余韻に浸っているのでしょう。

ヴィンセントは一人、夜の静寂が戻った屋敷を歩き始めました。

彼の背中は、もはや孤独な「死神」のものではなく、一人の娘を守り抜く決意に満ちた「父」のそれでした。

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