黄金の光が灯る場所と、賢者の誓い
図書室でのあの衝撃的な出会いから、数日が過ぎました。
かつて軍隊のような規則正しさと、氷のような静寂に支配されていたロゼレイド公爵邸。しかし今のこの屋敷には、それらを優しく溶かす「小さな魔法」が満ちていました。
「……マギー、アン。おはよう」
柔らかな天蓋付きのベッドの上で、エレーナが目を擦りながら微笑みます。
数日前までの彼女なら、目覚めた瞬間に「ここはどこ?」「叱られない?」という不安に襲われていました。けれど今は違います。今日という日が、自分を愛してくれる人たちとの幸せな時間であることを、その小さな心はもう知っているからです。
「おはようございます、エレーナ様! ああ、今日もなんて心地よい響きでしょう!」
マギーの弾むような声。今では「ございます」を省き、家族に向けるような、幼くも温かいその挨拶。それを聞くたびに、マギーやアンは毎朝、人知れず胸を熱くさせていました。
朝食を済ませ、丁寧に身支度を整えると、エレーナの「日課」が始まります。
それは、マギーとアンを連れてのお屋敷散歩。
「おはよう」
廊下を進むエレーナの声は、鈴の音のように清らかに響きます。
数日前は、廊下の角を曲がるのにも勇気がいりました。けれど今は、すれ違う人々の顔をしっかりと見て、自分から声をかけられるようになっています。
銀食器を磨く使用人、厳しい表情で角に立つ騎士、重い書類を運ぶ文官たち。エレーナがその小さな足を止めてぺこりと頭を下げるたび、屋敷の重苦しい空気がふわりと解けていきました。
「おはよう、エレーナ様。おやおや、今日のリボンは一段と素敵ですね」
すれ違う人々が、思わず足を止めて膝をつき、彼女と同じ目線で微笑みを返します。
かつては「断頭台のロゼレイド」と恐れられたこの牙城が、今やエレーナの「おはよう」ひとつで、春の陽だまりのような温かさを帯びるようになっていました。
そして、エレーナの散歩の「終着駅」は、いつも決まってあの場所です。
図書室の重厚な扉。エレーナは慣れた手つきで扉を叩こうとしますが、その前に、扉は音もなく内側から開かれました。
「お待ちしておりました、エレーナ様。定刻より一分と三十秒早い到着ですね。君の歩幅が、また少し大きくなった証拠だ」
そこに立っているのは、磨き上げられた眼鏡の奥で、かつてないほど柔らかな光を宿したゼノでした。
あの日、エレーナの「視界共有」によって魂を触れ合わせた彼は、今やエレーナにとっての「知の導き手」であり、最も熱狂的な守護者の一人となっていました。ゼノは、あの日自分を包み込んだ黄金の光を、一度たりとも忘れたことはありません。
「ゼノさん、おはよう。……きょうの、本は……なあに?」
「今日は、遠い北の国に住む、氷の精霊と火を灯す少年の物語です。君が好きそうな、とても温かい色使いの挿絵ですよ」
ゼノは優雅な所作で、エレーナのために特別に用意された、柔らかなクッション付きのアームチェアを引きました。
エレーナがちょこんと座ると、ゼノはその隣に跪き、宝物を扱うような手つきで一冊の古書を開きます。
「……わあ、……きれい。これ、……ゼノさんのおめめみたいに、青いね」
「……光栄です。ですが、私の瞳などより、この絵本の色彩の方がずっと君にふさわしい」
ゼノは静かな、けれど豊かな抑揚を込めた声で物語を読み始めました。
かつては効率と論理のみを愛し、感情を「無駄な不純物」として切り捨てていたゼノ。しかし、今の彼は、エレーナが物語に驚き、瞳を輝かせる瞬間にこそ、世界の真理があるのだと確信していました。
エレーナが「これはなあに?」と尋ねるたびに、ゼノはどんな難解な事象も、彼女が理解できる優しい言葉へと翻訳して伝えます。それは、帝国最高の頭脳を持つ彼にしかできない、贅沢で至高の「教育」でした。
物語が進むにつれ、図書室には穏やかな空気が流れます。エレーナは時折、ゼノの隣で熱心に挿絵を指差し、ゼノはそれに応えて優しく解説を加える。その光景は、数日前には誰も想像できなかったほど、平和で美しいものでした。
「ゼノさん。……また、あしたも、……きていい?」
物語の最後、エレーナが少しだけ不安そうにゼノの袖を引きました。
ゼノは眼鏡を押し上げ、彼女の小さな手をそっと包み込むようにして、誓いを立てる騎士のような表情で答えました。
「もちろんです。明日も、明後日も、一年後も。この場所にある数万の物語は、全て君のために用意されています。私は、君の『知りたい』という願いを叶えるためにこそ、ここにいるのですから」
エレーナは満足そうに笑い、ゼノと指切りを交わしました。
その様子を、図書室のわずかな隙間からこっそりと覗き見ている影がありました。
「……おいジョエル、見ろよあのゼノの野郎。すっかりエレーナの『賢いお兄さん』」
訓練を終えたばかりのフェイが、嫉妬を隠そうともせずに呟きます。
「隊長、声が大きいですよ。……まあ、ゼノ殿があれほど穏やかな顔をするのは、計算外ですが。エレーナ様の『光』は、我々の想像以上に強力なようですね」
副官のジョエルが、冷静に、けれど口元に微かな笑みを浮かべて答えました。彼は隊長のフェイが、エレーナに会いたくて朝からソワソワしていたのを知っています。
「俺だって読み聞かせくらいできるっつの。……よし、明日は俺が面白い冒険譚を持ってきてやる。ジョエル、一番ワクワクする本を探しとけ!」
「……了解しました。ですが、あまり騒ぎすぎるとまたヴィンセント閣下に絞められますよ?」
二人の背後からは、さらに冷徹で圧倒的な、けれどどこか「親馬鹿」なオーラを隠しきれないヴィンセントの足音が近づいていました。
ロゼレイド公爵邸。
そこはもう、死と沈黙の場所ではありませんでした。
小さな少女が紡ぐ「おはよう」という魔法と、それを守るために集う者たちの温かな意志。
エレーナの世界は、図書室という知の海を超えて、さらに大きく、どこまでも優しく広がっていくのでした。




