夕暮れの騎士と、窓辺の小さな瞳
ヴィンセントが「お父様」と呼ばれた余韻に浸りながら王宮へと戻り、邸に再び穏やかな静寂が戻ってきました。窓から差し込む午後の光は、時間の経過とともに白から柔らかな黄金色へと色を変え、部屋の隅々に長い影を落とし始めています。
エレーナは、マギーが用意してくれたシチューとパンを完食した後、いつものようにお気に入りのクッションを抱えて窓辺のソファに座っていました。手元には、アンが図書館から選んできた新しい絵本。文字はまだお勉強中ですが、描かれたお城や妖精の絵をなぞっているだけで、エレーナの心は少しずつ外の世界へと開かれていくようでした。
「エレーナ様、そろそろお茶を新しくしましょうか」
マギーの優しい声に、エレーナは小さく頷きました。この数日で、エレーナはマギーの足音や声を聞くだけで、不思議と背中の力が抜けるようになっていました。
ふと、階下の開けた中庭の方から、「ガシャン、ガシャン」という力強い金属の音が響いてきました。エレーナが不思議に思って窓から下を覗き込むと、そこには十数人の騎士たちが、出発の準備を整えて整列していました。
その中心に、岩のように大きな背中をした男が立っています。
「……マギーさん。あの方、だれ……? とっても、大きい……」
エレーナが指を差すと、お茶の片付けをしていたマギーが隣にやってきて、目を細めました。
「ああ、あの方はバッシュ隊長ですよ。エレーナ様。閣下直属の騎士団で、第5部隊を任されている方です」
「……ばっしゅ、たいちょう……」
「ええ。いつも街の平和を守るために毎日励んでおられるんですよ。エレーナ様が、このお屋敷で安心してお眠りになれるようにと見回りなどして下さってますよ。」
エレーナは、ハッと息を呑みました。
自分が昨夜、ふかふかのベッドで眠っていられたのは、あの大きな背中の人が外で頑張ってくれていたからなんだ。エレーナは、自分とは全く違う、鋼のような鎧を纏ったバッシュの姿をじっと見つめました。
(……強そう。……あの方がいれば、安心して寝られるのね....)
ちょうどその時です。
階下で部下たちに夜の警備ルートを指示し終えたバッシュが、ふと、背中に刺さるような純粋な視線を感じて、顔を上げました。
「…………っ!」
バッシュが兜を小脇に抱え、グイと顎を上げて見上げた先。
そこには、二階の窓から身を乗り出すようにして自分を見つめている、小さな少女がいました。
バッシュにとって、それは初めて見る「守るべき主の娘」の姿でした。
昨夜、泥にまみれて戦場を駆け回っていた時、バッシュの頭にあったのは「この屋敷にいる小さな命を、決して不安にさせてはならない」という誓いでした。
でも、実際にその姿を、キラキラした瞳を間近に(窓越しに)見た瞬間、バッシュの心臓はドキンと大きく跳ねました。
(……あのお嬢ちゃんか。……なんて、ちいせぇんだ)
バッシュの琥珀色の瞳と、エレーナの大きな瞳が、夕陽の中で真っ向からぶつかり合います。
エレーナは、その強面の迫力に一瞬ビクッと肩を震わせましたが、バッシュの瞳の奥にある、不器用な、けれど確かな「優しさ」に気づいて、カーテンに隠れるのをやめました。
バッシュは少しだけ照れくさそうに鼻の頭をかくと、エレーナに向かって、ニッと白い歯を見せて笑いました。それは、彼なりの精一杯の「安心しろ、お嬢ちゃん」という挨拶でした。
そして、バッシュは大きな拳を胸に当て、騎士の礼を捧げると、そのまま颯爽と馬に跨りました。
「よし、野郎ども! 出るぞ! 今夜もお嬢ちゃんに安眠を届けるんだ!」
野太い号令が響き、蹄の音が遠ざかっていきます。
エレーナは、彼らが去った後の門の向こうを、いつまでも眺めていました。
ヴィンセントに拾われたあの日から、自分はただ守られるだけの存在だと思っていたけれど。こうして、自分の知らないところで、命を懸けて街を守り、結果として自分を守ってくれている人がいる。
(……ばっしゅさん。……いってらっしゃい)
エレーナは、窓を指先で少しだけ叩いて、心の中でエールを送りました。
お父様もお兄様もいない夜。でも、あの強そうな「バッシュ隊長」が外を回ってくれているなら、もう何も怖くない。
エレーナは、今日一番の安心感に包まれながら、少しだけ誇らしい気持ちで絵本を閉じ、夜を迎える準備を始めるのでした。




