隙間を捨てた雛鳥と、銀の勇気
ロゼレイド公爵邸の最上階。
外界で起きている「砂の虫」の騒動や、王宮の陰謀など、エレーナは何も知らない。ただ、今夜はいつも寝る前に顔を出してくれるはずの「お父様」がいない。それだけで、彼女にとっては世界が少しだけ心細いものに感じられていた。
エレーナは、ベッドと壁の間にあった「いつもの隙間」を見つめた。
そこは、暗くて狭くて、けれど自分が一番安全だと思える逃げ場所だった。公爵邸に来てからも、彼女は広いベッドの真ん中で眠ることを恐れ、いつもその隙間に隠れるようにして眠っていたのだ。
「…………」
エレーナは布団を握りしめ、扉をじっと見つめる。
傍らで控えるメイド長マギーは、少女の心細さを汲み取り、静かに膝をついた。
「……ま、……ぎ、……」
掠れるような、小さな声。
エレーナは名前を呼ぶまでに何度も躊躇し、指先を震わせた。けれど、彼女は逃げなかった。
「……マギー、さん」
「はい、エレーナ様。ここに居りますよ」
「……お父様は、お仕事、頑張ってるのよね。……何を、してるかは……わから、ないけれど。……みんなを助ける、立派なことを、してるのよね」
「左様でございます。閣下は、この帝国の平和を背負う立派なお方ですから。……今夜は、エレーナ様が明日、もっと美しい朝を迎えられるようにとお掃除にお出かけなのですわ」
マギーの言葉に、エレーナはふう、と小さく息を吐いた。
フェイが言っていた。「君が笑えば、お父様も、僕も、みんな最強になれるんだ」と。
お父様たちが外で立派なことをしているなら、自分だけがいつまでも隙間に隠れていてはいけない。
「……私、……今夜は、ここで……ここで、寝るわ」
エレーナが指し示したのは、ベッドの真ん中だった。
隙間に逃げず、一番広くて明るい場所に。それは彼女にとって、剣を振るうこと以上に大きな「勇気」の証明だった。
「……真ん中で、ございますか?」
メイドのアンが驚きで息を呑む。マギーは静かに、けれど深く、感動を噛みしめるように頷いた。
「……畏まりました。……今夜のエレーナ様は、この邸で最も誇らしい場所に横たわられるのですね」
マギーが整えたベッドの中央に、エレーナは小さな体で潜り込んだ。
「……マギーさん。お父様に、伝えて。……私、独りでお留守番、できたよって。……ちゃんと、お父様って、呼べるようになったよって。……だから、安心してお仕事してねって」
フェイが繋いだ家族の絆。それが今、エレーナの心に確かな「誇り」となって灯った。
彼女はそのまま、規則正しい寝息を立て始め、深い眠りへと落ちていった。
エレーナが完全に眠ったのを確認し、マギーは音を立てずに廊下へ出た。
その瞬間、彼女の瞳には「鉄のメイド長」の鋭い光が戻る。
「……クラウス。聞こえますか。……エレーナ様が、初めて『ベッドの真ん中』で眠りにつかれました。……そして、閣下を『お父様』と呼ばれ、その公務を誇りに思うと仰せです」
通信機の向こうで、執事長クラウスが息を呑む音が聞こえた。
「……ですが、マギー。そんな誇らしいお言葉を贈る相手が、報告もせず、泥にまみれてパンの匂いをさせた不潔な男たちであってはなりませんな?」
「ええ、当然です。……門の前に到着したあの『障害物』たちを、今すぐ洗浄室へ叩き込みましょう。……閣下であっても、ですわ。」
「承知しました。……磨き上げる準備は、すでに完了しております。」
夜明け前の公爵邸。
エレーナの成長を喜ぶマギーとクラウスの「愛の洗浄」が、今、帰還したばかりのヴィンセントたちを襲おったのであった




