死神の帰還命令と、メイド長の鉄槌
帝都の市場は、朝の活気に満ち溢れていた。
地下水道に潜んでいた「理を喰らう虫」を封じ込め、巨大な「白銀の繭」を完成させた第一隊長フェイは、戦いの心地よい疲労感の中で、至福の時を過ごしていた。
「んむ……やっぱり、この店のクロワッサンは最高だね。バターの香りが脳に沁みるよ、ジョエル。もう一つ買って帰ろうかな、マギーへのお土産にさ」
ボロボロに引き裂かれた軍服の袖も気にせず、フェイは市場の店主から差し入れられた焼き立てのパンを幸せそうに頬張っていた。周囲には、同じくパンを配られた第一隊の魔導騎士たちが、勝利の余韻に浸りながら談笑している。
隣では、侍従のジョエルが泥だらけになった自分の靴を恨めしそうに見つめながら、溜息混じりにパンを口に運んでいた。その時、ジョエルの懐にある魔導通信機が、控えめだが執拗な振動を繰り返しているのに気づく。
「……隊長。さっきからこれ、鳴り止まないんですけど。閣下からじゃないですか?」
「いいじゃないか、ジョエル。こんなに大きな手柄を立てたんだ。今さら一分一秒を争うことなんてないよ。通信機なんて、そんな無粋な機械はカバンに放り込んでおきなよ。今は平和の味を噛み締めるべきだね」
フェイは優雅にパンの最後の一欠片を口に放り込み、幸せそうに咀嚼した。
だが、その瞬間。
フェイの脳裏に、氷のような冷たい予感がよぎった。
「……あ。ねえ、ジョエル」
「何ですか。おかわりならもうありませんよ」
「僕らさ。地下に潜る前……『状況が分かり次第、逐次報告しろ』って、閣下に言われてなかったっけ?」
「…………。言われましたね。で、隊長は『はーい、了解でーす。任せてください閣下!』って、最高に調子のいい返事をしてましたよ」
「……だよね。で、今の時刻は?」
「定時連絡の予定から、かれこれ三時間は過ぎてます。……あ、未読メッセージの数が二十件を超えました」
「…………。ジョエル。君、通信機が鳴ってるの知ってて、なんで今言うの?」
ジョエルはパンを咀嚼するのをやめ、冷ややかな、それでいて憐れみに満ちた視線をフェイに向けた。
「届いているなら、隊長が自分で気づいてすぐ確認すべきでしょう! 現場責任者なんですから! むしろ一分おきに履歴をチェックして、閣下を安心させるのが当たり前ですよ! 私は隊長の『ボロボロになった服』の言い訳をどうするか考えるので忙しかったんです!」
「ひっ……! ちょ、ちょっと見せて! 通信履歴!」
フェイが震える手でジョエルの通信機を覗き込むと、そこには『ヴィンセント・ロゼレイド』という名前と共に、絶望的な文字が並んでいた。
『状況を報告せよ』
『フェイ、貴様、聞こえているのか』
『五分以内に応答せぬ場合、第一隊の予算を全額没収し、貴様を地下水道の肥やしにする』
『……今から戻る。逃げようなどと考えるな。アルベルトに貴様の座標を常にロックさせている』
最後の一件は、わずか一分前。
「………………。ジョエル。僕、今から死んでいいかな」
「死なせませんよ。……閣下の前に引きずり出されるまでは!」
「全速力で邸に戻るぞおォォ! 運が良ければお説教三時間、悪ければ一生正座だ!」
英雄たちの凱旋は、一転して「処刑台への全力疾走」へと変わった。
ロゼレイド公爵邸、正面エントランス。
地下組(フェイ、ジョエル)は、文字通り「白銀の繭」を担いで全力疾走で帰り着いた。
同時に、王宮から戻ったばかりのヴィンセント、アルベルト、ゼノの馬車が到着し、さらに市場の反対側を回っていたジュリアンとバッシュも合流する。
まさに、ロゼレイドの「牙」が勢揃いした瞬間。だが、その光景はあまりに泥臭く、無様だった。
「……フェイ。貴様、私への報告を怠り、市場でパンを貪っていたそうだな。通信に気づかなかったなどという言い訳は、そのパンと一緒に胃袋へ捨ててこい」
ヴィンセントが冷酷な黄金の瞳で、ボロボロのフェイを射抜く。
「い、いや閣下! 通信機の調子が……!」
「嘘をつけ。アルベルトが回線の異常がないことを確認済みだ。……まずは、その弛んだ根性を叩き直してやる」
エントランスには、帝国の命運を左右する最強の異能者たちが揃い、凄まじい威圧感が渦巻いていた。
だが、その重苦しい空気を切り裂いたのは、一陣の冷たい風のような声だった。
「——いい加減になさいませ、皆様。」
全員の背筋に、氷柱を叩き込まれたような衝撃が走った。
扉を開けて現れたのは、メイド長マギーである。彼女の背後には、同じく無表情なメイドたちが、巨大なバケツと洗浄用の魔導ブラシを構えて控えていた。
さらにその後ろには、事態を静かに見守る執事クラウスが控えており、マギーの行動を黙認——いや、推奨しているのが見て取れた。
「……マギーか。取り込み中だ。フェイの教育を——」
「閣下。」
マギーは主君の言葉を、冷たく、容赦なく遮った。
「今の皆様の姿を、鏡でご覧になったことがございますか? 泥、砂、返り血、そしてパンの屑。……あろうことか、ロゼレイドの名を背負うこの邸の敷居を、そのような不潔な姿で跨ごうとなさるなんて。ここは戦場でもなければ、下民の酒場でもございませんわ。」
「む……いや、マギー、これは緊急の公務で……」
「公務だろうと、世界救済だろうと、私には関係ございませんわ。」
マギーが一歩踏み出す。ヴィンセントさえも、その「正論の圧力」に思わず後ずさった。
「この邸は、エレーナ様もおられるんです。今あの方がまだお部屋から出られないとはいえ、もし皆様が持ち込んだ地下水道の腐臭や王宮の黴が、廊下を伝ってお部屋にまで届いたらどうされるのです? 邸の清浄を保つ。それが私、メイド長としての責務です。」
マギーの指す指先は、フェイだけでなく、ヴィンセントやアルベルト、バッシュにまで向けられた。
「全員です。閣下、貴方も例外ではございません。……そして、その泥人形のようなフェイ様。今すぐ地下の特設洗浄室へ向かいなさい。私が責任を持って『徹底洗浄』を施して差し上げますわ。……もし逃げる不潔な方がいらしたら、今後、エレーナ様のお部屋がある階への立ち入りを、クラウスと協力して一切禁止させていただきます。」
「「「な、なんだってえぇぇぇ!!」」」
「隔離」という言葉に、ヴィンセントの顔が絶望に染まった。
「……父上。マギーの言うことは、常に正しい。我々は汚れている」
「……ああ。エレーナの家を汚すわけにはいかん。……行くぞ、お前たち」
「「「御意……(涙声)」」」
最強の騎士団が、マギーという名の独裁者の前で、トボトボと地下へと行進を始めた。
フェイは「お説教の方がマシだよおォォ! たわしが怖いよおォォ!」と絶叫していたが、マギーの「あら、まだ元気がおありなのね。では、磨く時間を五分延ばしましょうか」という一言で、完全に沈黙した。
エントランスに残されたマギーは、満足げに床に落ちたわずかなパン屑を拾い上げると、傍らの執事長に告げた。
「クラウス。エレーナ様が目覚めるまでに、除菌と換気を徹底しないといけないわね。」
「……それは同感です。マギー。彼らには、十分な量の石鹸を用意しておきましょう。」
こうして、国家の危機を救った英雄たちは、主君の怒りよりも先に、邸の「清潔」を守るメイド長によって、文字通り皮が剥けるまで磨き上げられる地獄を味わうことになったのである。




