静かなる初動(王宮の掌握)
帝都が「鳴らない金貨」と「砂のパン」という、正体不明の侵食に揺れる夜。
王宮の正門へと滑り込んだ漆黒の馬車から降り立ったのは、ロゼレイド公爵家の当主ヴィンセントと、長男アルベルトであった。
本来、この王宮は彼らにとっての「主戦場」でもある。ヴィンセントは皇帝の懐刀(特別相談役)として、アルベルトは司法・情報の要として、日々この回廊を歩いている。だが、今夜の彼らから放たれる殺気は、平時のそれとは一線を画していた。
「……閣下! ヴィンセント閣下! お待ちしておりました!」
廊下を埋め尽くすのは、顔を真っ青にした文官や、右往左往する騎士たちだ。
「市場の混乱が止まりません! 騎士団の検知器は反応せず、魔導師たちも『原因不明』と繰り返すばかりで……!」
泣きつく役人を、ヴィンセントは一瞥すらしない。その横で、アルベルトが手元の魔導書を無造作に開き、冷徹な声を響かせた。
「騒ぐな。情報の混乱は私が制御する。……父上、並列思考による王宮内の全通信傍受、完了しました。混乱に乗じて不適切な発信を行っているネズミが数匹……。ゼノ、影で処理を」
アルベルトの影が不自然に揺れ、声なき声が応える。
「……御意」
現場の指揮を執るはずの次男ジュリアンや、魔力解析のスペシャリストであるフェイ(とその侍従ジョエル)、そして現場回収を担うバッシュ。彼らは今、ヴィンセントの緊急大号令を受け、すでに帝都の各要所へと散っている。ここ(王宮)には、この混乱の根源を断つための「絶対的な意志」と「精密な頭脳」だけが乗り込んできたのだ。
ヴィンセントは、重厚な謁見の間の扉を迷いなく開いた。
そこには、玉座で眉間に皺を寄せ、報告書を睨みつける皇帝の姿があった。周囲には焦燥しきった近衛騎士たちが立ち尽くしているが、ヴィンセントの姿を認めた瞬間、場に漂っていた絶望感がわずかに霧散した。
「……来たか、ヴィンセント。遅いぞ」
皇帝の声には、親友に対する甘えと、絶対的な信頼が混じっていた。
「陛下。……この程度の『手品』に、帝国の中枢がこれほどまで取り乱すとは。少々、平和に慣れすぎたのではありませんか?」
不遜とも取れるヴィンセントの言葉に、周囲の騎士たちが色をなしたが、皇帝は自ら玉座を立ち、ヴィンセントの前へと歩み寄った。二人は幼少期からの学友。この緊急事態において、形式的な礼儀など不要であることを熟知している。
「魔法も呪いも検知できん。我が国の魔導師たちもお手上げだ。金貨は粘土になり、パンは砂に変わる……。何が起きている、ヴィンセント。お前の見解を聞かせろ」
「魔法による攻撃ではありません。世界の『理』を書き換える干渉……極めて質の悪い侵食です。陛下、これより一時的に、騎士団の全指揮権を私に委譲していただきます」
皇帝は迷わず頷いた。
「許す。全軍、ヴィンセントの命に従え。……お前のところの『牙』たちはどうした? 今日は随分と静かだが」
「すでに配置についております。ジュリアンは騎士団の遊撃隊を率い、物理的な暴動を抑えに。フェイは侍従を連れ、魔力なき侵食の『起点』を特定するため市場の地下へ。バッシュは証拠の回収と隠蔽……。彼らは今、私の指示でそれぞれの戦場に身を置いています。ここへ呼び戻す時間は惜しい」
ヴィンセントの言葉に、皇帝は満足げに目を細めた。
「……そうか。お前の家の精鋭たちが動いているのなら、これ以上の援軍はあるまい。……お前がそこまでして守ろうとする『平穏』の中身、私にもいつか見せてほしいものだな」
皇帝は、ヴィンセントが極端に私生活を、特に「家族の私室付近」を秘匿していることに薄々気づいていたが、今はそれを追求する時ではないと悟っていた。
ヴィンセントは、広間に集まっていた近衛騎士団の各隊長たちを鋭い眼光で見渡した。
「第一部隊長、第二部隊長、前へ」
「「はっ!」」
それまで狼狽していた隊長たちが、ヴィンセントの一声で背筋を正す。
「これより、王宮騎士団はロゼレイドの管理下に入る。第一部隊は直ちに帝都全域の『音が出る物』の流通を確保。鳴らない金貨はすべて回収し、公爵家の備蓄金と交換させろ。第二部隊は食料庫の封鎖だ。砂に変わったものはバッシュが回収に向かう。お前たちは『本物の食料』が市場から消えぬよう、ギルドを監視しろ」
的確、かつ冷徹な指示。ヴィンセントの言葉には、迷いも揺らぎもない。
「アルベルトが各隊の通信網に入り、情報の精査を行う。……返事は?」
「「はっ! 直ちに取り掛かります!」」
数分前までパニック状態だった王宮に、急速に「秩序」が戻り始める。
ヴィンセントという「絶対的な柱」が立ち、アルベルトという「精密な頭脳」が網を張ったことで、騎士たちは自分たちが何をすべきかを思い出したのだ。
指示を終えたヴィンセントは、再び皇帝へと向き直った。
「陛下、これは単なる事故ではありません。誰かが意図的に、この国の『当たり前』を奪い、民の心を折ろうとしています」
「……不気味なものだな。金から音が消えるだけで、これほどまで人が脆くなるとは。……ヴィンセント、夜明けまでに間に合うか」
ヴィンセントは窓の外、静まり返った帝都を見つめた。
その視線の先には、最愛の娘が眠る公爵邸がある。
「……間に合わせます。私の庭を汚す不純物は、一粒の砂に至るまで、私がこの手で踏み潰しましょう」
親友同士の短い視線の交差。
王宮を完全に掌握したヴィンセントとアルベルト。
そして現場では、フェイとジョエル、そしてジュリアンたちが、見えない敵の正体へと肉薄しようとしていた。
誰もまだ気づいていない。この「第1段階」の事件が、やがて帝国を揺るがす巨大な謀反へと繋がっていくことを。




