7 来た
引っ越し当日の土曜日、朝からあいにくの雨だ。
新居が近いこともあり、業者は午前に搬出に来て、その日の二時過ぎには搬入も終わった。近所のうどん屋で遅い昼食をとり、一休みしてから早速荷ほどきに入った。
見慣れた家具に囲まれていくにつれて、内見のときはがらんとしたうすら寒かった部屋が、温かな空間へと色づきはじめた。
土日は自宅へは帰らず、麗奈のところに連泊した。
眠りにつく間際に、事故物件であることを思い出して少し不安になったが、恐怖を感じるような出来事は起こらなかった。
引っ越しの疲れもあってか不安は杞憂に終わり、月曜の朝に目覚めた時はホッとため息が出た。
事故物件だとしても、こうして普通の生活ができるのであれば、ただの当たり物件なのかもしれない。
自分の狭いアパートにまともな家賃を払っているのが馬鹿馬鹿しく思えた。
次の週末、805号室を訪れると、「ねえ、来て来て」と、麗奈に手を引かれて洗面所へ入った。
洗面台の備え付けの歯ブラシスタンドに、白と黒の色違いの歯ブラシが挿してあった。次にキッチンへ連れていかれ、揃いのマグカップや箸、寝室には青いチェックのパジャマが用意されていた。
次々に出てくるサプライズに心が弾み、思わず麗奈を引き寄せて抱きしめた。
あまりの嬉しさから、もう一度洗面所とキッチンと寝室を回り、自分のために用意された物を眺めた。
男受けするシンプルなものが多く、どれも好ましい。
「これなら、会社帰りに手ぶらで来られるでしょ」と笑う麗奈を見て、先ほどよりも強く抱きしめた。
これから夢のような空間で新婚生活気分を味わえるのだ。
まぶたを強く閉じて心で叫んだ。
事故物件サイコー!!
二週続けて、実に快適な週末をマンションで過ごし、バケオのことなど頭から吹き飛んでいたのだが……残念ながらそこには、バカみたいな家賃になるだけの理由がちゃんとあった。
805号室は――でる。
三週目に入ったころから、背後に麗奈以外の気配を感じて、振り返ることが多くなった。
掃除機のダストカップを見た時には、黒い長髪が詰まっていたこともある。麗奈のカラーリングされた色との違いが、一目でわかる黒さだ。
ある晩の就寝時には、腕を引かれて目を覚ました。
腕枕の要求なのか、強引に伸ばされ、その上に頭が乗せられた。翌朝、「腕枕って、腕が痺れるけどなかなか良いね」と言うと、振り向いた麗奈の表情が怒りに満ちていた。
「誰との話をしているのよ。私、腕枕は眠れないから絶対に嫌! いつどこで誰にやったのよ。最低!」
ものすごい剣幕で怒鳴られた。
その時は、夢でも見ていたのだと思って平謝りしたが、その後も時折、腕枕を要求され、いたるところで麗奈とは違った匂いや気配を感じた。
ああ……これだ。
破格の家賃の理由を体感して怖くなったが、どうも麗奈は何も感じていない様子だ。
そんな彼女に、オバケが怖いなどという情けない台詞は口が裂けても言いたくない。
麗奈には悪いが、できるだけここで泊まりたくない。仕事が忙しいと嘘をつき、一時的に宿泊をやめることで805号室から距離をおいた。
これが大失敗だった。
宿泊拒否が浮気を疑われ、疑心にとらわれた麗奈を落ち着かせるために、かなりの数の言い訳と謝罪と愛を叫んだ。そこに費やした労力たるや、思い出すだけでげんなりする。
それでも、嫉妬する麗奈が愛おしく、彼女への想いは不思議と変わらなかった。
悩みに悩んだ末、距離をおくことで別れを告げられる怖さより、幽霊を耐えしのぶ方がましと判断し、その後も、何がなしにぞっとさせられながらも、必死でいわくつきマンションに通った。




