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数十分の静寂の後、麗奈が、ぼそりと言った。
「……トイレ」
倫太郎の言葉を思い出したのか、突然、麗奈は立ち上がった。
まずい!
麗奈が歩き出し、慌てて後を追うと、桃子とシンさんが廊下にいた。
麗奈が、トイレットペーパーなどが入った棚の中を探っている。
悲鳴を上げたかった。
カメラを見られたら、もう生きていけない。すでに死んでいるが、麗奈の中にある美しい思い出までもが、一瞬で消えてしまう気がした。
それこそ、本当の死だ。
動きを止める方法はなく、半分諦めていたが、カメラに気づく様子はなかった。探しつかれたのか、便座に座って息をついている。
大丈夫かもしれない。
息が漏れた。
だが、その安堵も長くは続かなかった。
麗奈が給水タンクに寄りかかり、首を後ろに倒した。
見つけないで!
祈るような気持ちで目を閉じた。
カメラの向きは変えたが、赤いランプは角度によっては見えるかもしれない。
頼む、気づかないでくれ!
頼む……頼むっ!
ギギッ。プラスチックが軋むような音がきこえて、反射的に目を開けた。
便座のフタの上に足をかけている。
天井を見上げる表情は硬い。
――終わったな。
もう、こうなったら腹をくくるしかない。
最悪な事実に直面する彼女を思うと胸が痛むが、カメラに気づいて警察に持ち込めば、俺じゃないとわかるかもしれない。そう思うしかなかった。
麗奈は、怖々といった様子で換気扇のカバーに手を伸ばした。
フタを静かに外し、カメラが乗ったフタを顔の高さまでおろし、つぶやくように言った。
「……高志」
違う! 俺じゃない!
喉が千切れんばかりに叫んだが、麗奈には、声も真実も届かない。
つい先ほどまで、指輪を見ながら二人の熱い涙と心を一つにしていたというのに、これでは、最後に送った愛の証まで壊れてしまう。
名も知らぬ変態カメラ野郎に、怒りが込み上げた。
背後に立つ桃子に気づき、自己弁護のため強調して言った。
「勘違いしないでね。カメラは俺じゃないから」
桃子は、なんともいえない表情で微笑んでいる。
これは……きっと、笑みじゃない。
カメラのことが頭から離れず、分厚い倦怠感に沈んだままベッドに横たわっていると、再びチャイムが部屋に鳴り響いた。
インターホンから聞こえた声に、顔をあげた。
倫太郎?
玄関へ向かう麗奈の背中を見送り、ベッドで耳をそばだてた。
「すみません。さっきの話ですが、トイレのは聞き間違いでした。高志ではありません」
「そう……なの?」
「はい」
どうした倫太郎。
耳を疑いながら聞いていると、それ以上の会話はなく、「さようなら」という声と、扉が閉まる音が聞こえた。
玄関に向かい、麗奈とすれ違う。
「どうもありがとう」
外廊下から、桃子の声が聞こえた。
その一言で、わかった。桃子が倫太郎に頼んだに違いない。
扉の向こうで、桃子が戻ってくる気配を感じ、床に三つ指をついて待ち構えた。
現れた桃子に礼を言い、床に突っ込んで頭をさげた。
「誤解とけるといいね。倫太郎君には、後で一緒にお礼に行きましょ」
難攻不落に思えた中坊の心を動かし、絶体絶命のピンチを救ってくれた桃子の優しさが涙を誘う。
誤解はとけそうだが、カメラの謎だけが、残ったままだ。
やはり、設置した犯人が気になる。
前住人との関与を考えたが、桃子からシンさんに聞いてもらったところ、心当たりはないという。
麗奈は、カメラをタオルにくるみ、落ち着きなくリビングを歩き回っていた。
警察に行く様子はない。
各部屋を回った後、リビングの収納棚の前で足をとめた。
一番下の引き出しに、タオルごと放り込んだ。
壁時計の針が十時をさしている。麗奈は、ワインを開けて、ハイペースで三杯飲んだ後、歯を磨いてベッドに入った。
酔うことで恐怖を紛らわしたい気持ちが見て取れたが、足取りはしっかりしている。
トイレを盗撮されていたと知れば、とうてい酔えるはずがない。
麗奈がここへ越してから、約三ヶ月。俺の記憶では、カメラに埃は被っていなかった。ランプが点灯していたのだから、最近設置したと考えられるが、そうとも限らない。調べる手立てはない。
腕を組んだとき、ふと思った。
充電式か電池式かも不明だが、どこかのタイミングで、回収か電池交換に来るはずだ。
麗奈を狙っての盗撮であれば、なんとしても阻止しなければ。
突如として、一つの疑問が浮かんだ。
もしや、俺がこの場にいるのは、このためなのか?
ならば、彼女を守るという使命を全うしなければ。
その正義感の裏に、汚名返上せねばという焦りもある。
むしろ、その思いの方が強い。
絶対に変態野郎を捕まえてやる!
鼻から強く息を吐いた。
寝息を立てる麗奈の寝顔を眺めていると、外廊下から玄関扉の開閉音が聞こえた。
倫太郎が外出したのかもと思い、急いで玄関に出ると、倫太郎がエレベーターに向かって歩いているのが見えた。
「今日はありがとう」
追いかけながら、後ろ姿に礼を言った。
倫太郎が、ゆっくりと振り返った。
聞こえたはずなのに、無表情のまま、無言で立っている。
「麗奈に気持ちを伝えられたのは君のおかげだ。ありがとな。桃子ちゃんも感謝してた」
「桃子さんが?」
「ああ。君は本当にいい奴だと褒めてたよ」
「本当に桃子さんが言っていたの?」
「ああ」
倫太郎は、少し唇を突き出して眉毛の上をポリポリとかいた。
照れているのか。
まさかこいつ、桃子に恋を……。
桃子に恋心を抱くのはわかる気がする。顔が見えようが見えまいが、彼女の人の良さは、話せばわかる。
生意気でむかつくガキだが、この年にして女を見る目があることだけは認めざるをえない。
「てかさ、高志のためにやったのに、桃子さんが感謝するのはおかしいよね。礼は、高志から桃子さんにだと思うけど」
そりゃそうだ。
「とにかく、君のおかげでもあるから、何か礼をしたい。俺にできることないか?」
「ない」
言うと思った。
反抗期真っ盛りの中坊の台詞など、すべて想定内だ。
「必要があれば言ってくれ」
「高志に何ができるの?」
ないだろうなぁ。
倫太郎以外の誰ともコンタクトがとれない状態で、目に見える行動は、まず無理だ。
「ごめんな。頭はつかえて話もできるのに、身体がないってのいうのは、ほんと不便だ」
「僕は、そっちのほうが羨ましいけど」
その一言に、軽く流せないものが混じっている気がした。
俺が生きていれば、大人の力でなにがしかの救いの手を差し伸べてやれたかもしれない。いじめに苦しむ中坊の一人も助けられない無力さに腹が立った。
「倫太郎、透明人間のようなこっちの世界に興味がわくだろうけど、まだこっちに来るなよ。確実に俺の方がしんどいから」
少し必死になりすぎたか、早口で伝えると、倫太郎は、ふっと口の片方を上げて応えた。
「わかってる」
倫太郎はエレベーターの前まで行き、ボタンを押しながら言った。
「麗奈って人のこと、そんなに好きなの?」
ここからは倫太郎の表情が見えず、質問に至る心中が読めなかったが、素直な気持ちを返した。
「ああ、好きだよ。おまえもこういう気持ち、いずれわかるよ」
「もう死んでいるなら、お姉さんを諦めたら? 執着して憑りついているより、先に進んだ方が二人のためだと思うんだけど」
「……」
鋭い指摘に、言葉を詰まらせた。
言われっぱなしも悔しく、すぐさま反論した。
「俺だって、いたくているんじゃないよ」
「いや、いたくているんでしょ?」
「……まぁ、そうだけどさ」
返す言葉がない。
「お前の言う通り、ここに居続けるのは、彼女にとって重荷でしかないよな。俺、背後霊みたいなもんだろ?」
「霊媒師じゃないから知らないけど、僕はまとわりつかれて迷惑だよ。お姉さんだって、そのうち高志を忘れると思う」
憎まれ口には慣れてきたが、唯一、声が届く相手から存在を拒否されるのは意外にこたえた。
ずけずけと物を言う態度を見ていると、倫太郎の今後が心配になる。同じように、友人にも心無い言葉や態度で接しているとしたら、目をつけられるのは当然だ。
まだ知り合ったばかりのただの隣人だが、世渡り下手の未来が見えて心が痛んだ。




