17 隣の声
月曜日の夜。まだ週のはじめだというのに、麗奈はひどく疲れた顔をしていた。
魂を抜かれたような顔で漫然とテレビを眺めている。
「麗奈どうした?」
何度か声をかけていると、共にリビングにいた桃子が口を開いた。
「麗奈さん、このままふさぎ込んでいるのは可哀想ね」
「そうだな」
「あなたもね」
「俺? 俺は大丈夫だよ」
「高志君は強いなぁ。けど、苦しいのは吐き出しちゃったほうがいいわよ。弱音吐いたところで、麗奈さんには聞こえないから大丈夫」
桃子の言葉は、真綿のような柔らかな肌触りで、高志の心を包みこんだ。
そっと、隣の麗奈の頬に手を添える。
「――触りたい」
いつもは喉の奥で止めていた言葉が漏れ出てしまい、顔が熱くなる思いがした。
その後、麗奈が照明を消して寝室に入り、空いた隣に、桃子が腰を下ろした。
洗い立てのタオルケットにくるまれているような、素朴な心地よさ。ないはずの体温が、そこにあった。
互いに黙ったまま、どのくらいの時間が経っただろう。
目を閉じていると、桃子が「あ」と声を上げた。
「そういえば、隣の子には私たちが見えるのよね」
「中坊? あいつ見えてないと思う。ただ、声が聞こえているのは間違いない」
「麗奈さんに伝えてもらいましょうよ」
「何度も頼んだけれど、あいつ、聞く耳もたなくてダメ」
「私も一緒に頼んでみる。明日、行きましょ」
それは心強いが、倫太郎の冷たい返しを散々受けてきた分、あまり期待はできない。
「やだ」
ほら、これだ。くそがきが。
朝一で桃子と倫太郎を訪ねて麗奈への伝言を頼んだが、答えは予想通りだった。
「俺がそばにいるって言ってくれるだけでいい。お願いできないかな」
不本意ながら下手に出て頼むと、倫太郎は間髪入れず答えた。
「やだ」
なんだと! と応戦したかったが、桃子の手前、ぐっとこらえる。
「そうよね、突然こんなこと頼まれても嫌よね」
「はい、嫌です。すみません」
他人を寄せつけまいとする態度ではあるが、なぜか桃子への返答は丁寧だ。それがまた癇に障る。
「倫太郎君、自己紹介もせずにごめんなさい。私は桃子です。彼は高志さん。二人とも二十四歳です。よろしくお願いします」
机に向かって教科書を開いていた倫太郎は、椅子を回転させて、視線を彷徨わせながら言った。
「男のほうは、僕より下かと思った」
倫太郎は鼻を鳴らして、机に向き直った。高志がむっとして一歩進み出ると、手を伸ばした桃子に止められた。
「これはね、あなたにしか頼めないの。お願いできないかな」
倫太郎は身体をひねり、顔を桃子の方に向けて真顔で応えた。
「桃子さん、僕、隣の女の人としゃべったことないんです。そこで一緒に住んでいたという高志とは、挨拶すら交わしたことがありません」
さんはどうした。俺だけ呼び捨てかよ。
今後、社会で生き抜いていかなければならない中坊に、なめくさった態度をあらためるよう注意をしたい。だが、ここでへそを曲げられると面倒だ。
魚心……水心。水心……魚心。頭の中で唱えながら、ぐっとこらえた。
結局、筋金入りのひきこもり野郎の心を微塵も動かすことはできず、二人はすごすごと805号室に戻った。
「あの子、学校に行ってないんでしょ?」
「ああ。でもジョギングや買い物には出掛ける」
「まさか、いじめられてたりしないわよね」
「どうだろう。まともに話したことないし」
「気になるわね……」
「あいつすごい元気だぜ」
「強がっているだけかもしれないわ。何かできればいいんだけど」
突っぱねられてもなお気にかける桃子に、感心した。
彼女のやわらかな顔を見ていると、ふいに、不機嫌に唇を尖らせる麗奈の顔が浮かんだ。
もちろん、麗奈にも優しさはあるが、それはどこか自身に向けられたものが多かった。他人のために真剣になる姿を、あまり見た記憶がない。
優しくされたい、と願うような上目遣いに、何度心を動かされてきたことか。
でも……それでも良かったんだ。
俺を失い、メイクを崩して涙を流してくれた。家族以外でここまで苦しんでくれている人は、彼女だけだ。
今では、麗奈のわがまますら愛おしくてたまらない。もっと聞いてやれば良かったとさえ思う。
深いため息をつくと、桃子が言った。
「倫太郎君も麗奈さんも、笑っていてほしいな……」
「――ありがとう。桃子ちゃんも、ね」
桃子が、好きな人と一緒にいられて、その想いが届いていることを、素直に嬉しく思う。高志は、桃子に顔を向けて微笑んだ。
「そういえばさ、君たちはこの先どうなるんだろうな。成仏とかして、もっと別の場所に行ったりするのかな」
言い終えてから、ひやりとした。
もしそうなったら――また一人になるのか。
だが、桃子が笑顔になるのなら、それでもいいのだと思った。
「どうだろうね。先のことはわからないけど……今は、できることをやりましょ。まずは、麗奈さんのこと」
桃子は、ね、と言って、顔を覗き込んできた。
「桃子ちゃんみたいな人と付き合ってるシンさんは幸せだね」
桃子は、口に手を当てて小さく笑った。
「あなただって、彼女のために必死じゃない。私のことまで気遣ってくれて。あなたに愛されている麗奈さんも、幸せね」
「そう……かな」
鼻の下に指を当てて、意味もなく鼻をすすった。
桃子の人当たりの良さで、いつしか完全に心を開いていた。
やがて、プロポーズの指輪を買った話にまで及び、桃子は、聞き終えるなり立ち上がった。
「指輪、何が何でも伝えなくちゃ。もう一度、倫太郎君に頼んでくる」
「俺も行くよ」
立ち上がろうとすると、桃子が申し訳なさげに言った。
「高志君は、行かない方がいいかもしれないわね。ほら……」
嫌われているから、ね。
言葉尻を濁した桃子の言葉を、心の中で続けた。




