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16 やわらかいひと

 女の背格好や服を見て、数秒遅れて、それが誰かわかった。


 あれは花屋の店員だ。


 黒髪のボブと、小柄な身体つき――そしてその横顔が頭の中で結びつく。


 なぜ、花屋がここに?

 状況がまるでつかめないが、見知った顔に、思わず頬が緩んだ。


 花屋は、床に這う男の顔を覗き込み、一瞬表情を硬くしたが、「やっと会えた……」とつぶやき、安堵の表情をうかべた。


 どうやら、知り合いらしい。夫か、恋人か。

 俺が麗奈を求めてここへ来たように、彼女も彼の元へ引き寄せられたのかもしれない。


 なぜ、この二人がここにいるかはわからないが、自分や、自殺サラリーマンもいることから、このマンションがいわくつきだということだけは、はっきりした。


 麗奈がリビングへ向かった。高志は玄関に入り、花屋に声をかけた。


「こんばんは」


 顔を上げた花屋は、高志を見るなり目を見開いた。


「えっ、ええっ?」


 ひどく驚いている様子だ。


「どうも」


「こっ、こんばんは」


 花屋は、困惑気味の目と声で返した。


 麗奈が廊下の照明を消したため、辺りは薄暗くなった。言葉が続かず、廊下に沈黙が流れた。

 ようやく言葉を交わせる相手に出会えた嬉しさに、あれこれ話したい気持ちが喉まで出かかったが、まずは彼等を二人にしてあげるべきではという気遣いが心に割り込んできた。

 花屋の言葉からすると、二人は、やっと出会えたような雰囲気だ。


 高志は、道すがら偶然知り合いと会ったかの態度で軽く頭を下げた後、二人を横切ってリビングへ向かった。



 リビングのソファで、点きっぱなしのテレビを観ていると、花屋が遠慮がちに入ってきた。


「あ、ども」


 高志は軽く咳払いをして、居ずまいを正した。


 花屋の存在理由が気になっていたが、いきなり「あなたも死んだのですか?」とは訊きにくく、言葉に詰まった。

 さらっと全身を見たが、廊下の男のような外傷は見当たらない。


「先ほどは、突然すみません」


 花屋が深々と頭をさげた。


「いえ、あなたも麗奈の知り合いですか」


「れな?」


「はい、この……」


 横に座る麗奈を手で差し示す。

 花屋は、麗奈の顔を覗き込んで答えた。


「いいえ、存じ上げません」

 

 続けて、「ん?」 と声を出して言った。


「確か、あなたの……」


「はい、彼女です」


「そうですよね」


 花屋が優しく微笑んだ。その顔を見た瞬間、孤独で擦り切れていた心に、そっと手を添えられたような気がした。


「あの、何といえばいいのかわかりませんが、僕ら、同じ部類というか、こちら側の人間ですよね。この後、どうなるのかご存知ですか」


 花屋は、小さく首を横に振った。


「いえ、私にもさっぱり。実家で目を覚ましたのですが誰にも気づかれず、途方に暮れていた時、今度はここに立っていたんです」


「そうですか、ご実家に……」


 彼女も、俺と同じ経路をたどっていたようだ。


「あなたは、ご両親に会いたいと願いましたか?」


 花屋は、質問の意味がわからないような顔をしながら、ゆっくりうなずいた。


「僕もあなたと同じように、目覚めた時に家族がいました。その後、この場に。なぜでしょうね」


 言いながら、別の疑問が浮かんだ。

 おそらく花屋は、廊下の彼に引き寄せられたのだろう。ならば、廊下にいる男がここに現れたのはなぜか。


 まさかあの男、麗奈に会いにきたんじゃないだろうな。

 妙な胸騒ぎがして腕を組むと、花屋が言った。


「そういえば、あの人も、家に戻りたくて来たと言っていました」


「ここの借主は麗奈ですよ。あ……前の住人、ですか」


 花屋は首を傾げてから、ゆっくりとうなずいた。


 あの男は、この部屋で亡くなったのだろうか。いわくつきにした人物なのかもしれない。そう思えば辻褄はあう。


 だが、違和感が残った。


 この部屋で感じてきたものは、常に女の気配だった。

 腕枕や、長い髪。どれも、あの男とは結び付かない。


 記憶を辿りながら、さりげなく花屋を見る。肩上で揃えられたボブ。

 違う。あの気配とも噛み合わない。


 もしやあの男、髪の長い女とも関係があったのか……。

 まあ、だとしてもよそにはよその事情がある。

 花屋にその疑問を投げるわけにはいかない。――考えすぎか。

 小さく息を吐いて、思考を打ち切った。


 廊下の男のことはひとまず置き、質問を花屋に戻した。


「ご両親から離れて、どうやってここに来たか覚えていますか」


 花屋は、首を横に振った。


「……じゃあ、自分たちの今の状況は、分かっていますか」


 花屋は頷きながら、ふいと目を反らし、リビングの出入口へ視線を向けた。

 その後頭部が、濡れているように見えた。血だ、と気づいた瞬間、顔がこちらに戻り、

慌てて目を逸らした。


 この場にいる時点で分かっていたことだが、やはり彼女も――。


 窓の外から、猫同士がけんかする声が聞こえてきた。耳に障る鳴き声を聞いているうちに、ふと嫌な考えが浮かぶ。


 ――縄張り。


 花屋と廊下の男は、この先もここに居続けるのだろうか。

 ここは今、麗奈の部屋だ。だが、あの男は、その前からここにいたのかもしれない。

 もし、出ていくつもりがないと言われたら。

 

 ――俺は、ここにいられるのか。 


 8階から動けないのだから、部屋を追い出されたら困る。いや、それより、麗奈のそばを離れたくない。

 急に不安に駆られ、立ち上がりかけたが、ふと花屋の顔を見てその場に留まった。

 人当たりのやわらかい表情に、ほんの少しだけ気持ちが持ち直した。

 うまくやれば、ここでやっていけるかもしれない。 

 高志は沈黙を破った。


「今晩、お二人はどちらで休みますか? 僕は彼女と寝室で寝るので、そこ以外であれば、自由に使っていただいて構いません」


 思った以上に強い言い方になり、少し居心地の悪さを覚えた。


「ありがとうございます」


 花屋は嫌な顔をせずに頭を下げた。


「彼は、浴室にいたいようなので、私もそこに」


 一瞬、麗奈の裸がよぎる。


「え……っと」


 高志が言葉を濁すと、花屋は慌てた素振りをして言った。


「もちろん麗奈さんの入浴中は出て行きます」


 微笑む顔をみて、ぐんと張った肩の力が抜けた。

 良かった。とりあえず今は、ここから離れなくても済みそうだ。


 一つの不安を取り除いたことで心に余裕が生まれ、改めて自己紹介をした。

 花屋の名は桃子。年齢は同じ二十四歳だった。

 桃子は、廊下の男を「シンさん」と呼んでいた。あの状態の彼については、何を聞いて良いかわからず、こちらからは触れなかった。


 その後は、自然と住み分けができた。リビングの扉を境に、玄関側に桃子とシン。リビング、キッチン、寝室が高志の領域。

 そうして、四人での共同生活が始まった。

 

 シンさんは、一日のほとんどを浴槽で過ごし、リビングには来ない。かなりの人見知りで、浴室から出たがらないらしい。

 桃子が現れたことで、生活は少しずつ形を変えた。

 話をしているだけで、心がやわらいでいくのがわかる。

 麗奈が会社に行った後は、桃子と話す時間を、待つようになっていた。


 気づけば、互いにくだけた口調で話すようになっていた。

 ある時、桃子の人懐っこい笑顔に引っ張られるように、思わず声をあげて笑った。

 一瞬でも苦しみを忘れて笑ったのは、いつ以来だろう。

 取り留めのない会話に夢中になるうち、空が白みはじめていることもあり、悲しみから離れている時間が少しずつ増えていった。

 シンさんを浴室に残し、こうしてリビングに来てくれるのは、桃子なりの気遣いなのだろう。その優しさに支えられて、どうにか心の均衡を保っていた。


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