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15 赤い男

 金曜の夜、九時を過ぎても、麗奈が返ってこなかった。

 レースのカーテン越しに空の月を眺めていると、廊下の方から、ピチャリ、と水滴が垂れるような音がした。

 突然鳴ったその音は、数秒後に再び聞こえ、その後も等間隔で続いた。


 気になって洗面所へ行き、そっと中を覗いた。

 奥の浴室の扉が全開になっている。

 リビングからのわずかな月明りでは、奥がほとんど見えない。

 暗がりに目を凝らして水音の出所を探していると、ある一点で視点が止まり、同時に身体が跳ねあがった。


 浴槽の縁に何かが見えた。


 瞬きをせず凝視していると、突然、浴槽の中から白い手がぬっと現れた。

 その腕が、肘を曲げてだらんと垂れた。

 

 なにあれっ!


 一瞬、麗奈かと思ったが、太さからしてすぐに違うと判断した。あれは男だ。

 続いて、浴槽から頭が出てくるような気がして、一目散に外廊下へ逃げだした。

 そうだ、死んだことで、すっかり忘れていた。


 ここ、でるんだった!


「ひぃぃっ」


 大人らしからぬ声をあげながら、モリオの部屋に走った。


 モリオは、部屋の中央でウィンドブレーカーに着替えている最中だった。中坊もこちらの存在に慣れてきたのか特に動じることなく、ファスナーをゆっくりと首元まであげている。


「モリオ君、隣の家に霊がいる!」


「あんたもだろ」


 あ、喋った。喋ってくれた。

 年下に「あんた」と呼ばれたのには少し引っかかったが、そんな事はどうでもいい。 


「俺は違うよ。いや、違くもないけど、あっちのはさ、危ないジャンルのやつ」


「あんたと同じだよ」


「えぇー、俺は違うってば」


 人間と言葉を交わしていることに興奮し、完全にはしゃいでいる自分がいた。


「隣のアレ、追っ払えないかな? 君、霊感あるんだよね」


「無理」


 モリオは突き放すように言い、いつものガン無視で部屋を出ていった。


「モリオ君、頼むよ。お願い!」


 スニーカーを履くモリオに手を合わせ、見えないだろうが頭もさげた。

 突然、近くの部屋の扉が開き、スマホを手にした少女が現れた。


「出掛けるの? アイス買ってきて。チョコミント」


「やだ」


「お金払うから」


「やだ」


「そんなこと言わないでさぁ、お願い、倫太郎くん」


 高志は首をかしげた。

 倫太郎? 


 誰だそれ。


「自分で行けよ」


「なんなのよケーチ。ケチでひきこもりだなんて、まじ最低、モリオのバーカ」


 モリオって……。

 おい。まさか、ひきこもりの“もり”からきているんじゃないよな。 

 姉き……どこ切り取ってんだよ。ヒッキーとかにしてくれれば想像できたのに。


 まずいな。


 俺は今まで、「モリオ」と何回呼んだだろうか。


 見知らぬ男に最悪なあだ名で呼ばれ、ブチ切れて無視をする。そりゃあそうだろう。

 女性に、「ねぇブス、お願い」としつこくつきまとっていたようなものだ。



 倫太郎と呼ばれた中坊は、玄関を出るなり駆けだし、エレベーターの押しボタンを高速連打した。

 背中から放出される拒否オーラが強すぎて声をかけられない。

 何も言えないまま倫太郎を見送り、エレベーターの前で立ち尽くしていた。

 どうしよう。今は、一人で805号室に戻りたくない。


 廊下で、住人の出入りを見ながらやり過ごしていると、何度目かのエレベーター音の後に、麗奈が現れた。


「麗奈、おかえり。いま中に入らない方がいいよ」


 聞こえないのは承知で必死に訴えた。当然だが、麗奈は躊躇なく開錠して中に入っていった。


 閉まった扉を見ながら逡巡したが、麗奈を守らなければという使命感から、数秒後、腹を決めて中に入った。


 麗奈は、ヒールを履いた状態で、手にしている郵便物を眺めている。動かない彼女を追い抜き、廊下から風呂場をそっと覗き込んだ。


「うわぁっ!」


 絶叫してしまった。

 さっきの腕の主と思しき男が、浴槽ではなく、洗面所の床にうつぶせで倒れていた。


 次の瞬間、両肘がガクンと跳ね上がった。くの字に折れた腕が床をつかみ、そのまま這うように進んでくる。


 ――貞子じゃん! 怖いっ! 腰が抜けるように、その場に尻もちをついた。


 麗奈は、封書に目を落としたまま洗面所へ進み、床に這う男の頭を踏みつけて手を洗いはじめた。


 男は、下半身を引きずりながら廊下にはいずり出てくる。後ずさる高志の前で、顔をゆっくりと持ちあげた。


 高志の喉から、ヒッと声が漏れた。

 血にまみれて原形をとどめない肉塊に、かろうじて目鼻口だけが残っているだけのように見える。


 頭……割れちゃってる? 


 見るに堪えないその顔に睨まれて、高志はたまらず外廊下に逃げた。


「あ……いた」


 飛び出してきた805号室の中から、微かに女の声がきこえて足をとめた。

 麗奈の声とは違う。

 玄関扉に顔を寄せて耳をすませた。


「大丈夫ですか!」


 驚いたような女の声が続き、高志は扉から顔だけを突っ込んで中を覗いた。


 誰?


 見知らぬ女が、血まみれ男の脇にしゃがみ込んでいた。


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