14 白い背中
805号室に戻ると、浴室からシャワー音が聞こえた。
麗奈は入浴中か……そう思ったところで、ごくんと生唾を飲んだ。
いや、やめておけよ。それをやっちゃあおしまいだ。盗撮野郎と同類になるぞ。
自分に強く言い聞かせたが、男の欲望と夢がパンパンに詰まった足は、無意識に浴室へ向かっていた。
洗面所に入り、浴室前で足をとめた。半透明の扉の奥に、麗奈の立ち姿がぼんやりと見える。
今ここにいるのは、麗奈がまた泣いてやしないかと心配だからだ。裸を見たいわけじゃない。
誰に向けたものかもわからない言い訳を並べて、彼女に目を据えた。
麗奈は、こちらに背を向けて立っている。
二度と触れないと思うと、扉越しの白い背中が神々しく見えた。
洗面所の床に正座をして、その背中を見上げる。
麗奈は、美人なうえ身体も実に蠱惑的だ。
吸い付くような白い肌、背中に三つある黒子は、ベガ、アルタイル、デネブの星を結んだ夏の大三角のように神秘的だった。
もう一度触りたい。
激しい喪失感に襲われて、膝の上で拳を握った。
縁側の老人のように、しばらくその背中を見上げていると、扉の向こうからしゃくりあげる声が聞こえた。その声は徐々に激しさを増していく。
心臓が押しつぶされるような苦しみを感じた。あるはずのない心臓が、顔をゆがめてしまうほどに痛む。
身体が存在しないのなら、思考も痛みも不要だ。
頬を涙がつたっているのかは自分では見えないが、確かに瞼に熱を帯びている感覚がある。
一体何なんだ! これは何の罰だ!
もとの人生に戻れないのなら、さっさと、何もかもを消し去ってくれ。気持ちだけが取り残されるなんてむごすぎる!
麗奈、お願いだからもう泣かないで。
高志は土下座をするように前に倒れ込み、床に拳を振りおろした。音も、手応えもなかった。
死んでから何日が経ったのだろう。ここで目覚めた時に麗奈が喪服を着ていたのだから、三日は過ぎたはずだ。
今日が何曜日かわからないが、今朝の麗奈は身支度を整えていた。出勤するのかもしれない。
少し前までよく目にしていた月曜の朝の光景が、やけに懐かしく感じた。
綺麗に化粧しているものの、目の下にはクマが目立っている。精神的な立ち直りは見えないが、せわしなく準備を進める姿を見て、少しだけ安心した。
会社まで着いていこうと一緒に部屋を出たが、やはり、エレベーターに乗れたのは麗奈だけだった。
これではまるで囚人だ。成す術がなく805号室に戻り、リビングの中央で呆然と立ちつくした。
困ったな。
暇だぞ。
つい先ほどまで、仕事に行かなくてもいいという現実に喜びを感じていたが、それはほんの一時のことだった。
月末の激務や、やたら多いミーティング、残業で溜まる疲労、上司の嫌みなど、職場の不満をあげればきりがないが、健康な身体で働けることが、どれだけ幸せだったかを思い知らされる。
担当していた案件は、誰が引き継いでいるのだろう。ふと、マイの顔が頭に浮かんだ。マイやススムが穴を埋めているのが想像つく。あの二人なら可能だろうと安心はしたが、遅れて落胆がやってきた。
自分の代わりがいるというのは、案外と寂しいものだ。
だが、職場と違い、家族や麗奈にとっては、開いた穴の種類や大きさが異なる。簡単に代役で埋められるものではない。
家族の気持ちや麗奈の未来を想像すると、手足を投げ出して暴れたくなるほどの後悔や悲しみに襲われた。更には、恐ろしく散らかったアパートの部屋を親に見られると思うと、外廊下のサラリーマンのように飛び降りたくなる。
今後の周囲の動きを想像しているうちに羞恥心に襲われ、たまらず、走って部屋を飛び出した。
廊下を全力で走り、エレベーター辺りで弾かれるように身体の向きを変え、今きた廊下を戻った。
疲労は感じないが、何往復かしている間に馬鹿馬鹿しくなり、廊下の途中で足を止めた。顔を横に向けると、803号室の部屋番号が目に入った。
扉に顔を寄せ、耳だけをそっと内側へ通した。
奥のリビングから、かすかにテレビの音がする。
「おはようございます」
その場で声をかけたが返事はない。ゆっくりと玄関を抜けて中に入った。
盗み見しているようで気が引けるが、テレビや新聞で今日の日付が知りたい。
リビングに入ると、六十代と思しき太り気味の女性が、四人掛けのコーナーソファで横になり、テレビを観ていた。
オレンジ色のハイビスカスが全面にプリントされたムームー姿で、スムージーを飲んでいる。
「おじゃましますね」
声は届いていないようだ。
高志は、ソファの空いている場所に腰をおろした。
女は、ストローを口にくわえたまま、リモコンをテレビに向けてザッピングしている。
なかなかチャンネルが定まらず、日付が分からない。最終的にはBSのテレビショッピングに落ち着き、時間しか分からなかった。
部屋では、男の名が入ったゴルフの賞状や優勝カップがやたらと目についた。
女は外出する様子なく、ずっとソファに寝転がっている。
点きっぱなしのテレビのおかげで時間は潰せたが、一日中テレビにかじりつく姿には、少々幻滅した。
その後も、麗奈の出勤後は、803号室で過ごすのが日課となった。ワイドショーやサスペンスドラマ、再放送ドラマを主婦と共に観ては時間をつぶし、麗奈が帰る頃に805号室に戻るという、無為な生活を送った。
何日目かの朝、テレビ画面に日付と時間が表示され、ようやく、今日が七月六日だと知った。
麗奈の誕生日は先月の二十六日。
あの事故から十日が過ぎていることになる。
この数日、何度かモリオとコンタクトをとろうと挑んだが、全敗に終わった。
モリオの行動からすると、どうやら学校へは行っていないようだ。
出掛ける姿を見るのは決まって夜で、ランニングをしているのか、ウィンドブレーカーを羽織って外出しては一時間ほどで帰ってくる。
見掛ける度に声をかけたが、徹底的に無視され、何度も心が折れた。




