13 黒い視線
ほどなくして麗奈がコンビニの袋をさげて帰宅した。
麗奈との会話を期待して必死に声をかけたが、少年のような反応や素振りは一切見えなかった。
声がけに必死になりすぎて、扉から一緒に中に入るタイミングを逃してしまった。
慌ててドアノブに手を伸ばしたが、やはり握ることができない。
「まいったな」
言いながら扉を背にして座り、膝を抱えた。
扉に寄りかかろうと体重を後ろにかけると、膝を抱えた姿勢のまま、身体がころりと後方に転がった。
視界に、805号室内の靴箱や天井の照明が見える。
「あ、そうか」
仰向けのまま声を発した。
触れないのと同じで、実体はないも同然なのだ。相手が投影物のようで触れないのではない。俺の方が、映像側なのかもしれない。
おぼろげながらもそう理解して立ち上がった。
はっとして視線を床に落とす。ならば、足も床を突き抜けて落下するのでは?
一瞬焦ったが、何も起きない。今までと同じように床に立っている。
……なぜだ。
足裏に感触はない。それでも、廊下に立っている。
試しに跳んでみる。浮いたままにはならず、ちゃんと落ちた。
だがやはり、何も触れていない。
床の上にいるはずなのに、どこか宙に浮いているような感覚だけが残った。
ないはずの足に痛みを覚える――あれと同じなのかもしれない。
存在しなくても、あると思い込んでいる。そんな感覚か。
壁に寄って落ちなかったのも、何か無意識に制御していたのか。
わからない。何も。
無理やり理屈を当てはめようとしても、しっくりこない。
それでも、今の状況に何か答えを出しておかないと、頭がおかしくなりそうだった。
「麗奈っ!」
その名に縋るように叫び、リビングへと駆けた。
麗奈は、ソファで小さなヨーグルトを食べていた。テーブルのコンビニ袋は空に見える。
まさか、それしか食べないつもりか。
スプーンで少しすくって口に運び、何口かを食べたところでスプーンをくわえたまま、突然泣き出した。
……もういやだ。見ていられない。
どうにかしてそばにいることを知らせたい。
どうすることもできずに地団駄を踏んでいると、ふと、先ほどの少年の顔が頭をかすめた。
すぐさま部屋を飛び出して、隣家に向かった。
「おじゃまします」
挨拶をしてから804号室に入った。
まずは、玄関に一番近い扉をすり抜けた。
いきなり、ベッドの上で仰向けになっている女子高生が目に入った。
足の指でふくらはぎを掻きながらスマホをいじっている。もろに黒いパンティが見えて、慌てて目を反らした。
女の部屋とは思えない汚さだ。汚さに関しては他人にとやかくいえる立場ではないが、これは酷い。
至る所にどぎついピンクやヒョウ柄の小物が転がり、派手な服が散乱している。女は、ギャハハと下品な声をあげて、スマホに触れる指を高速で動かしていた。
部屋をのぞき見したバツの悪さも忘れて、無言で部屋を後にした。
次に、隣の部屋に入った。
正面に勉強机があり、黒いウィンドブレーカーを着た少年が、こちらに背を向けて座っている。
いた。
机には中学一年生と書かれた国語や数学の教科書が並んでいる。壁や天井に、アイドルグループのポスターが貼られ、収納棚のラックには、悩まし気なポーズをとったフィギュアや、懐かしいフィルムカメラやデジカメの類がずらりと並んでいた。
「あのぅ……」
遠慮がちに声をかけると、中坊が、首をやりそうな勢いで振り返った。
今にも殴りかかってきそうな目で睨んでいる。
「えっと」
「でてけっ! 入ってくんな!」
中坊は、椅子を後ろにふっとばして立ち上がり、部屋の中央で、四方八方にパンチやキックを繰り出した。
拳は届かない距離で、高志は、扉の前でその様子をただ見ていた。
激しいシャドーボクシングに疲れたのか、中坊は両手を下げて、息荒く仁王立ちしている。
「あのぅ……」
もう一度声をかけてみた。
「うぉおおおおお」
まだ余力があったのか、再びパンチを打ち込んできた。頭は大丈夫だろうか。
「ちょ、ちょっとたんま」
鬱陶しく思いながら手を前にかざすと、中坊は扉の方に視点を定め、こちらに向かって集中的にパンチを打ちだしてきた。
この身が存在していたら、強烈なボディーブローを受けて倒れているところだが、拳は高志の顔面や腹を突き抜けていく。最後のストレートが、思いきり扉にぶち当たった。
中坊は、そのパンチを最後に、両の拳をドラえもんのように斜め下へ広げて、わなわなとさせている。今の、痛かっただろ。
敵意をふくんだ目は、大人を凍りつかせる威力があり、睨みに耐えきれず、外へ逃げた。
すると突然、隣の部屋から少女が現れた。
「あっと、こんばんは」
反射的に挨拶をしたが、少女は高志を通り抜けて、中坊の部屋の扉を蹴り飛ばす勢いで開けた。
「モリオ、うるさい!」
それだけ言うと、少女は汚い自室へと戻っていった。
中坊の部屋は静まり返っている。
見知らぬやつに勝手に入ってこられたら誰だって頭にくるだろう。さすがに悪かったと思い、今度は扉の外から声をかけることにした。
少し図々しいかと気もしたが、少女が呼んでいた通りに、下の名で呼びかけた。
「こんばんは、モリオ君。あの、僕は」
話している途中、銃でもぶっ放したような音が目の前で鳴り、高志は弾かれるように後ずさった。
向こうから扉を蹴っ飛ばしてきたのか、物を投げつけたのかはわからないが、いくらなんでもキレすぎだろ。
扉に耳を当てて中の様子を窺っていると、近くで唸り声が聞こえた。
右側からやけに近くで聞こえる。
声の方に顔を向けると、犬のタカシが歯を剥いて高志を見上げていた。
思いきり目が合った。
俺が――見えているのか?
薄暗い廊下でみる黒光りしたドーベルマンは迫力があり、恐怖で、一瞬すべてが止まった。肉体はないというのに背筋がぞわつく感覚がある。
敵意がないことを示すために笑おうとしたが、なぜか顔が強張り、口角を上げようとすると、鼻の穴ばかりが広がった。
ここは冷静にならなければ。相手は、ただの飼い犬だ。
よし、手なずけてみるかと、精一杯の笑顔を向けて、手のひらを差しだした。
「やあ、タカシ君」
犬は、触られたくないのか、二、三歩後退した。
おや? 見た目と違って臆病なのか。
懐きもせず、襲ってもこず、特に害はなさそうだが、こう横で唸られていては、どうにも動きにくい。
ここは一度出直そうと思い、伸ばしていた手を引っこめた。
その刹那、鋭い犬歯をのぞかせて攻撃姿勢をとった。
直感で危険を察知し、高志はゆっくりと身体を反転させた。
犬に背を向けて、足を一歩踏み出した、その瞬間、チャ……と、廊下に犬の爪が触れた音がして、背中に、突き刺さるような気配を感じた。
「うわぁぁ」
情けない声をあげながら一目散に廊下を走り、玄関から飛びだした。
その直後、背後の玄関扉がドガンッという大きな音を立てた。続いて、少女の怒鳴り声が聞こえた。
「タカシ、何してんのよ!」
犬は、玄関扉をすり抜けて行った不審者を追いかけようとして、扉に体当たりをしたらしい。
中から、「タカシ、ハウス!」という声が聞こえた。
高志もその指示に従うかのように、麗奈の部屋へと戻った。
結局、中坊とは話せずじまいだったが、隣の凶暴なモリオと犬のタカシには、こちらの声が届いている。しかも、犬には姿も見えている。
動物は感覚が鋭く、霊に向かって吠えるといった話を聞いたことがある。
そうなると、そうか……やはり。
俺は、死んでいるのか。
犬に向けられた視線に悲しい現実を突きつけられ、深く息を吐いた。




