12 コンタクト
壁時計が夜の十時を指したころ、麗奈がようやくソファから腰をあげた。
玄関で白いミュールを履き、壁にかけてある部屋の鍵を外した。
外に出ると見て、玄関扉が開いたタイミングで一緒に外廊下に出た。
共にエレベーターに乗り込もうとした時、目の前がガラス張りになっているかのように進入を阻まれた。麗奈だけが中へと進み、階数ボタンに手を伸ばしている。
自分だけが前に進めない。
背後を振り返ったが、服が引っ掛かっているわけでもない。
思うように動けず、昆虫採集の標本にされているような不快感を覚えた。
手足をばたつかせてもがくうちに、麗奈一人が乗ったエレべーターのドアが閉まってしまった。
数歩下がり、反動をつけて前に進もうとした時、後退は可能であると気がついた。試しに、歩いてきた廊下を戻ってみると、難なく歩けた。
勢いをつけて前進してみたものの、エレベーターの扉は閉まっている。このままではどうにもならない。
仕方なしに805号室に向かって歩いていると、804号室の扉が開いた。
中から、中学生くらいの男の子が出てきた。女子ウケしそうな爽やかな髪形で、きれいな顔をしているが、野良猫を思わせる鋭い目が、近寄りがたい雰囲気を醸しだしている。
薄手の黒いウィンドブレーカーを羽織り、ファスナーを閉めるのに手こずっている様子だ。
すれ違いざま、「こんばんは」と、少年に声をかけた。
言ってから、麗奈に声が届かなかったことを思い出したが、少年は、ファスナーを上げながら振り向いた。
聞こえているのか?
試しにもう一度「こんばんは」と声をかけた。
だが、少年は挨拶に応じることなく、エレベーターの方へと歩きだした。気のせいか。
「ったく、こんな時間にガキがどこ行くんだ」
現状の混乱や苛立ちを込めて毒づいた。
すると、少年が凄まじい速度で振り返った。
高志は身体をびくりとさせた。
少年は、こちらを向いて視線を彷徨わせている。なかなか視線が合わず、見られている感じがしない。ただ、様子からして、やはり――聞こえている?
「聞こえていますか」
少し声のボリュームを上げて問いかけた。
だが、少年は顔を正面に戻して歩きだし、エレベーター前に着くなり壁の押しボタンを連打した。
廊下に出て三十分ほど過ぎた頃、エレベーターの稼働音が聞こえた。
8階に到着したらしく、耳を澄ませていると、以前にも聞いた、ガンッという音が聞こえた。
エレベーターに顔を向けると、年かさのスーツ姿の男が姿を現した。
薄い前髪を額に張りつかせた、猫背の男で、大きめのよれたグレーのスーツがだらしなさを感じさせる。うだつのあがらないサラリーマンといった印象だ。
何の気なしに男を目で追っていた数秒後、男は、胸あたりまであるコンクリートの塀に足をかけて、ためらいもなく、外に向かって飛び降りた。
足先が視野から消えた瞬間、総毛だった。
慌てて塀に駆け寄り、下を覗き見る。暗くてよく見えないが、街灯にぼんやり照らされている範囲に人が見当たらない。
暗い地面や植木に目を凝らしていると、エレベーターの稼働音が聞こえた。
二十秒ほどして、真後ろでドアが開いた。
振り返った高志は、目を見開いた。
――さっきの男だ。
ブツブツと何かを言いながらゆっくりと進んでくる。ドアが閉まりはじめ、挟まるのを心配した瞬間、ガンッという音が鳴り、ドアが開いた。
男は、挟まれそうになったことなど意に介さぬ様子で進んでくる。
そして、高志の横までくると、またもや塀を飛び越えて、8階の向こう側に落ちていった。
「あ」と声を出し終えるまでの出来事だった。
すぐさま下を覗く。
――やはり誰もいない。
ぞっとして塀から離れると、再びエレベーターが昇ってきた。
階数の電気表示をみながら、一歩一歩と後退した。
予想はしていたが、エレベーターは8階で止まった。
開いたドアからは同じ男が現れ、先ほどと同じように挟まれそうになってから、塀に向かって歩きだした。
内容の聞き取れない独り言を早口で呟きながら、男は夜空を見上げて、塀に手をかけた。
「何してるんですか!」
強い口調で呼び止めた。
だが男は、高志の制止をあざわらうかのように、今度は走り高跳びの背面飛びで、夜空へと飛んでいった。
「おいっ!」
夜空に向かって叫んだ。
「止めても無駄だよ」
背後から声がして振り返ると、804号室の少年が廊下を歩いていた。
気づかなかった。いつからいた?
俺に、話しかけたのだろうか。
「ねえ、君」
声をかけてみたが、少年はこちらを振り向くことなく、無言のまま804号室に入っていった。
だが間違いない。
俺の声が届いている。




