11 見えない糸
浮遊感を感じて心地よさに目を開けると、実際に体が宙に浮いていた。
驚いて手足をばたつかせたが、身体が吊られているかのように、上下左右どこにも移動できない。
そこは見知らぬ部屋で、白い壁、白いシーツ、白いベッドを三メートルほどの高さから眺めている状態だった。
ベッドには、頭に包帯を巻いた人間が横たわっていて、いくつもの管やコードが横の機材から身体に繋がっている。
誰だ……?
寝ている人を呆然と見下ろしていると、部屋のドアが開いた。白衣を着た年配の男が現れ、続いて、見覚えのある三人が入ってきた。
「父さん、母さん、隆弘!」
思わず叫んだが、誰一人、上を見上げるものはいない。
なぜ両親と弟が現れたのか、ここはどこなのか、込み上げるパニックを押し込めながら、現状を把握するための答えを求めて、辺りを見回した。
父に抱えられている母は、支えがないと立っていられないような状態だ。父の顔も疲労で色濃く隈どられている。弟は首をうなだれて、何度も腕で目を拭っていた。初めて目にする家族の憔悴しきった姿に、居心地の悪さと不安を感じた。
機材に囲まれたベッドや、白衣を着た男からして、ここが病院だと推測できる。
そして、泣き崩れる両親の姿などを踏まえると、自然と答えに辿り着いた
あれは、――俺
その光景を、ただ呆然と見下ろしていた。
これは夢か?
ふいに、もしもこの夢から目覚めなければ、下の俺も眠ったままなのではないだろうかという不安に襲われた。根拠はないが、下の自分を揺り起こしてでも目覚めさせなければならない気がする。
平泳ぎをするように空中で手をかいて下に向かおうとした。だが、どんなに激しく腕を振り回しても、下の俺との距離は一向に縮まらない。
時折、事故の瞬間の情景がフラッシュバックした。
もしかしてあの事故で俺は……。
現実的な答えに手が届きそうになった瞬間、何かに追われるような恐怖を感じて発狂した。
「うああああああぁ!」
声を張り上げて両親と弟を呼んだが、誰も気づく様子はない。
寒々しい無機質な部屋に耐えきれずに頭をかきむしった時、ふと、麗奈の部屋の温かなベッドが浮かんだ。
横になって見つめ合う彼女の笑顔。愛おしいあの顔にすがるように彼女を強く思った。柔らかい髪の甘く優しい香りが鼻の奥で蘇る。
麗奈に会いたい。
麗奈。麗奈。麗奈!
呪文のように名を呼び続けていると、不意に、背後から引っ張られる力を感じた。
強風にあおられた凧のように、ぐんと上に引き上げられた。
突如として視界が真っ暗になる。勢いが強すぎて声も出ない。頭を軸にぐるぐると回り始めて、ひどい吐き気に襲われた。
身体に電気がはしったかのような衝撃を受けて、「わぁ」と声をあげて目を開けた。
そこは空中ではなくベッドの上で、仰向けで天井を見上げていた。
横を向くと、見慣れた枕や、薄ピンクのシーツが目に入った。
「戻れた……」
ほうっと吐息をつき、天井に向かって更に深い息をはいた。
安堵しながらゆっくりと目を閉じる。真に迫るいやな夢だった。まだ吐き気が胸の奥に残っている。
もう少し寝ようと意識を深めた時、近くから鼻をすする音が聞こえて薄目を開けた。
音の方に顔を向けると、隣のリビングの床に座る麗奈の後姿が見えた。
ガラステーブルの上にのせた腕を抱え込み、その上に顔を伏せている。
「麗奈?」
半身を起こして声を掛けたが、顔を伏せたまま動かない。
ベッドから出て近寄ると、麗奈が肩を震わせて泣いていた。
「どうしたの?」
そう聞くと、今度は嗚咽を漏らして泣きはじめた。
肩に触れようと手を伸ばす。瞬間、強烈な違和感を覚えて手が中空でとまった。
麗奈は全身黒づくめで、見慣れない恰好をしている。
喪服?
そう思った瞬間、得も言われぬ不安を感じた。
状況を聞こうと肩に手を置いた時、自分の喉から「ひっ」と声がでた。
伸ばした手が肩を突き抜け、慌てて手を引き戻して後ずさりをした。
もう一度触れようとしたが、おそるおそる伸ばした手は、するりと身体の中に入っていく。
何度も名を呼んだが、声が彼女の耳に届いている感じがまるでない。抱きしめようとしても、手は宙で交差するばかり。
まさか……まさかとは思うが。
俺、死んだのか?
病室を見ていたあの時から、どのくらいの時間が経過しているのだろう。
そもそも、病院に運ばれるまでの過程も、病室のベッドで横になっていた長さもわからない。
記憶はどこにもなかった。
泣きじゃくる麗奈に触ろうと必死に手を動かしたが、どこに手をやろうと、どれだけ早く動かそうと、まるで感触がない。耳もとで何度叫んでも返事がない。
途方にくれていると、いつのまにか部屋が薄暗くなっていた。
ふいに、麗奈がテーブルから上体を起こした。
目は腫れあがり、睫毛が涙で濡れて、いくつかの束になっている。
麗奈はよろけながら立ち上がり、洗面所に向かった。後をついて洗面所に入ると、泣きながら顔をすすいでいた。マスカラが落ちてパンダ目になった視線が、ゆっくりと歯ブラシスタンドの方を向いた。
黒の歯ブラシを抜き取り、両手で握りしめると、また声をあげて泣き出した。
彼女に触れられないと分かっていても、背後から抱え込むようにして身体を添わせた。
鏡には、肩を震わせて涙を流す麗奈の姿しか映っていない。
「くそっ!」
口惜しさが腹の底から込み上げてきて、麗奈の耳元で声を上げた。
ふいに、自分の手の甲が目に入り、ぎょっとした。
左手の親指と人差し指の間が、ざっくりと深く切れている。咄嗟に右手で傷口を押さえた。
顔をしかめて手に力を入れていたが、押さえている箇所に痛みがないことに気がついた。
怖々と傷口から手を放してみる。えぐられたような深い傷があり、傷口の周りを染めている血がぬらりと光っていた。
麗奈から離れて自分の身体に目を這わせると、右の手のひらや肘にも擦れたような大きな傷がみえた。
パンツの膝やシャツの袖も破れている。膝から足首の間には、骨が見えそうな深い傷が見えて、痛みはないのに思わず目をそらした。
一体、どういうことだ。
病室で見た光景と繋がっているのかもしれない。
生々しい全身の傷が、事故からの一連の流れを連想させた。
俺は……、本当に俺は……、死んだのか。そんな……。
絶望的な気分にとらわれ、膝からくずおれた。
死後の世界とは、天国や地獄といった次のステージに進むものと思っていたが、現世と同じ空間と時間で生きていくということなのだろうか。そんな馬鹿な。
状況を把握したくとも、思考がうまく働かない。視覚と行動と現実感のピースがバラバラになり、正気と狂気がぶつかりあった。混乱の極みだ。
麗奈はリビングに戻り、力なくソファに横になると、テーブルに置かれたスマホを手に取った。
横に腰をおろして、ディスプレイを覗き込む。
宛先を見た途端、涙が込み上げてきた。実際に涙が出ているのかはわからないが、目頭が熱くなる感覚がある気がした。
「高志、会いたい」
それだけ打ってメールを送信した。
もしやと思い、自分のパンツの後ろポケットを探ったが、入れていたはずのスマホはなかった。
今のメールはどこに飛んでいったのだろう。
麗奈は、スマホを胸に抱き、声をあげて泣き出した。
どうにかなだめようと、頭を横から抱きかかえる体勢をとったが、泣き声は激しさを増していくばかりでおさまらない。
いつもしていたように髪に鼻をうずめても、トリートメントの香りはしなかった。
「麗奈、ごめん、ごめんね」
慰めてあげられないこと、一番嫌がる寂しい思いをさせてしまっていること、多くの意味を込めて、心から謝った。
その後も泣き声は続いた。
この現実はあまりに辛く、とても見ていられない。
深い悲しみの渦にまかれながら、長く感じる一秒一秒を、ただ、そばにいるしかなかった。




