10 濡れたハンドル
麗奈の笑顔を間違いなく引き出せるであろう量の花束を購入して、マンションへ戻った。
エレベーターのボタンを押す。階数表示は八。エレベーターが降りてくるのを待ちながら、何気なく横の掲示板に目をやった。
報せの貼り紙を読む気はなく顔を正面に戻す。
小さな違和感が目の裏に残り、再び掲示板を見た。
―入居者各位―
線で四角に囲われた事務的なタイトルに目が止まる。
「未■■■■■■■■につきまして」
未以降の文字が、尖ったもので削ったのか、乱暴に削られている。
誰かの手によって故意に隠されたのであろうタイトルが気になり、その後に続く本文を読んだ。
「住民の皆様の安全に影響はありません
一部の出来事について
事実と異なる噂が広がっておりますが
安心してお過ごしください
マンション管理組合」
何についてなのかはわからないが、安全、安心の言葉が、むしろ不安を招いた。
(このマンション、やべぇな……)
と、眉をひそめると同時に、エレベーターの扉が開いた。
さっきまで居た部屋だが、玄関を開けた先の廊下がやけに暗く感じる。貼り紙のせいか、時間経過のせいか。それとも……。
「何もいない! いないいない!」
声に出しながら靴を脱いだ。空の浴槽に花束を忍ばせ、フタをした後、すぐに玄関を飛びだし、再びバイクにまたがった。
先ほどよりも空はうす暗く、交通量も増えている。
空を見上げると、シールドに水滴がついた。朝からの快晴が嘘のように、空一面が灰色の雲に覆われている。雨だ。
アクセルを回してスピードを上げた。タイミング悪く何度も信号につかまり、水滴のついた腕時計を見ると、麗奈の会社の終業時刻を10分ほど過ぎていた。
会社員たちが駆け足で駅に向かっているのが見える。
はやる心をせかすかのように、次第に雨脚が強まった。麗奈を見逃すわけにはいかない。
前方に目を向けると、高齢運転者標識が貼られた白いセダンが前を走っていた。こちらの気も知らず、法定速度以下で走行している。
のろのろ運転の後ろを走りながら、気ばかりが急いた。
渋滞しているわけでもないのに、頻繁にセダンのブレーキランプが点灯し、突然、長い急ブレーキを踏まれた時は、危うくぶつかりそうになった。
「あぶなっ」
声に出しながらバックミラーを見ると、後ろの黒いワンボックスカーが、バイクすれすれの位置で停まっていた。
急ブレーキは前方のセダンが原因だが、後ろの運転手はバイクに苛立っているらしく、発車した途端、背後からあおりが始まった。
バックミラーと前方を行き来する視線の中で、左前方の歩道に目を向けると、見覚えのある大きな花柄の赤いワンピースを着た女性が見えた。
あれは麗奈だ。よかった、間に合った。
ほっとして視線をセダンに戻した。
やきもきしながらハンドルを握っていると、セダンが更に減速し、慌ててブレーキをかけた。
先の方に、路駐している一台の青いコンパクトカーが見える。どうやら、その後ろにセダンも路駐するようだ。
苛立ちながら、路駐車とセダンを追い越そうとして進路を右側に寄せた。
すると、高齢者は何を思ったのか、いきなりスピードを上げて右側に膨らんできた。
危うくバイクの前輪がセダンにかすりそうになり、渾身の力で急ブレーキを握った。
セダンが路駐車を追い越そうとしているのを見て、再びバイクのアクセルを回した。
今の急ブレーキで、後ろの運転手の怒りは倍増しているはずだ。怖くてバックミラーを見ることができない。
少しでも後続車との距離をとりたく、細心の注意をはらって走行スピードを上げた。
麗奈はこちらに向かって歩道を歩いている。
二人の距離はまだ百メートル近くはあるが、麗奈もこちらに気がついたらしく、胸の辺りで小さく手を振っているのが遠目でも確認できた。
こちらからも片手を上げて応えた。
その瞬間、
「あぶないっ」
叫ぶような声が聞こえた。
はっとして顔を前方に戻すと、路駐車の運転席のドアが開いているのが目に入った。
大きく避けた拍子にハンドルをとられ、アクセルを回したまま制御を失った。
咄嗟に目をつぶったその瞬間、ドンッ、という鈍い音が耳に飛び込み、身体に衝撃がはしった。
瞼の裏で光の玉が爆発したように真っ白になり、耳を塞ぎたくなるほどの大きな衝突音が聞こえて目を開けた。
凄まじい速さで動く景色に恐怖を感じて、すぐに目を閉じ、その後、衝突音は二、三度続いた。
頭では事故を起こしたと理解していたが、その場の状況や程度が全くわからない。
その後、テレビの砂嵐のような音が耳の中で鳴り響き、おそるおそる目を開けた。
視野一杯に黒々とした雨雲が広がっている。
目に入る雨粒が鬱陶しくて再び瞼を閉じると、コンクリートに当たる背中がやけに冷たく感じた。
まるで氷の板の上に寝ているようだ。
事態を把握しつつある頭と心が恐怖に凍りつき、目を開けられない。
心の中で、「戻りたい! 戻りたい! 一分前に戻りたい!」そればかりを叫んでいた。




