1 盗み聞き
玄関扉の鍵穴に鍵を挿し込み、爪先を床に落としてスニーカーを履いていると、廊下の奥からエレベーターの稼働音が聞こえた。
この階で止まり、ドアが開く音がした直後、激しい衝撃音が耳に飛び込んできた。
エレベーターを降りる際、ドアにでも当たったのだろうか。
音がした方へ目を向けると、やけにスカート丈の短い学生服の少女と、黒光りしたドーベルマンが廊下に現れた。
もの凄い勢いでこちらに向かって走ってくる少女の制服は、近くの私立高校のものだ。規律の緩さを象徴した長い茶髪を振り乱し、入念に化粧が施された顔は汗ばんでみえる。
ただならぬ様相に鬼気迫るものを感じて思わず身構えたが、少女は、隣の804号室の扉を壊さんばかりの勢いで開けて、中に入っていった。
「お母さん!」
母親を呼ぶ絶叫に近い声が、扉を隔てていても丸聞こえだ。
「どうしよう、バーバリーのバッグ盗まれた」
「誰に!」
「変な男に」
「大変! 警察に電話しなさい」
「ええー、やだぁ」
「渋っている場合じゃないでしょ」
「だって、何て言えばいいの」
「そのまま言えばいいじゃない。財布も入ってたの?」
「うん……ち」
「こんな時にふざけないでよ、馬鹿じゃないの。で、中身は財布だけ?」
「いや……だから、うんち」
「はぁ? 誰のっ!」
「タカシの」
「うちの?」
「他に誰がいるのよ」
俺か? 二宮高志は、部屋の鍵をつかんだまま静止して、廊下で耳を澄ましていた。
ここは、ペット飼育可能な全戸3LDKファミリータイプマンションで、エレベーターでは、犬を連れた住人と一緒になることが多い。
女子高生の横にいたドーベルマンの名も「タカシ」だ。
以前、マンションに入る間際、背後から「タカシ待って」と声を掛けられた。
振り返ると、件の少女がトイレットペーパーを巻きつけた手で、犬の肛門を拭いていた。
「何でしょう?」と訊くと、少女は訝しげに視線をあげて、尻を拭く手を止めた。
高志は、自分の顔を指さして続けた。
「今、呼びました?」
飼い主の警戒心がリードを伝わったのか、犬は口許をひくひくさせて鼻の上に皺を寄せている。すると突然、なんの前触れも、飼い主の指示もなく犬がこちらに突進してきた。
高志が身体をビクリとさせると、少女が声をあげた。
「タカシ、待て!」
少女は、リードを強く引き戻して犬の尻をペチリと叩くと、再びトイレットペーパーを尻に押し当てた。
その時、肛門を拭かれている犬と自分が、同名であると気がついた。
犬への呼びかけに返事をしたバツの悪さで苦笑いをしていると、少女がハッとした顔をして、視線を肛門から高志に移した。
彼女の、あくびを堪えているような表情から、笑いをかみ殺しているのがわかる。
高志は踵を返し、早歩きでマンションのエントランスへ向かった。
その後も、何度か顔を合わせているうち、彼女と犬のタカシが、隣の部屋の住人だと知った。
「隣のタカシなわけないじゃない」
少女の声がして、我に返った。嘲りを含んだ自分の話を、この距離で聞くのは耐え難いが、続きが気になる。
施錠した鍵を静かに引き抜いた後も、その場で耳をそばだてた。
「そりゃそうね。で、盗んだやつの顔は見た?」
「バイクで走り去る男の、後姿しかみてない」
「バイクって……まさか」
高志は、今から乗ろうとしているバイクの鍵を、ぎゅっと握りしめた。
「お母さんっ、だから隣のTじゃないってば。今、廊下でみたもん」
隣のタカシ、とはっきり言っておいて、今さらイニシャルトークはないだろ。
「そーお?」
そうだよ! 心の中で語気強く応えた。
ウンコをしたのも、持ち去ったのも俺ではない。母親は、どうしても俺を犯人にしたいらしい。
「どうしてバーバリーのバッグに、そんなもの入れてんのよ」
「だって散歩コース、男子校の前通るんだもん」
「あえて通ってるんでしょ。ったく、見栄っ張りなんだから。誰もあんたなんか見てやしないわよ」
「そんなことないよ。ナンパされたことあるもん。隣のTにも声かけられたし」
いや、ないだろ。
俺と交わしたのは人としての挨拶で、「こんにちは」「こんばんは」の五文字を越えた記憶はない。
確かに、隣の少女は一言で言うとエロい。
洋服、着るの忘れてない? と二度見してしまうほどの、下着に見紛うヒラヒラワンピースや、パンツを見せるために履いているとしか思えない短いスカート。いつみてもヘソ・太腿・胸元のいずれかは露出していて、男子校育ちの俺には目の毒だ。
高校時代にこんな子がクラスにいたら……と想像し、はじめは、早すぎる成熟を示す身体つきにどぎまぎもした。だが、二十四歳ともなれば、ウンコをバッグに入れ、母親に見栄で嘘をつく稚拙な高校生への興味はない。
「でもあんた、バッグ盗まれただけで良かったと思いなさいよ。この間も近くで通り魔でたでしょ。痛い目に合いたくなかったら、少しスカート長くしなさい」
「はいはい、わかってまっすぅ、うるさいな」
通り魔など屁とも思っていないような返しの声が、徐々に遠ざかっていく。リビングへ移動しているのだろう。
二人の声が聞こえなくなり、高志は、小さな吐息をついてエレベーターへ向かった。




