Afraid of Dog
小さい頃、大型の犬に襲われ、右手手首を噛まれ大怪我をした。その頃の傷痕は、中学三年になった今も残っている。
4月のある日の事である。その時期は春だというのに何日も雨の日が続いていて、私達の生活を困らせていた。雨のせいで桜はあっという間に散ってしまい、友達との花見を楽しみにしていた私にとってこの雨は憂鬱の象徴だった。
「姉ちゃん。ちょっと来て〜」
部屋の外から弟の声がする。弟はさっき「外の様子を見てくる」とか言って、この雨の中カッパを着て外で遊んでいたのだ。まったく危なっかしい奴だ。小学生ってなんでそんな突拍子もない行動をするんだろう…
私はその呼び出しが面倒臭かったので、部屋から出ず叫び返した。
「今忙しい〜」
「わん!わん!」
…わん?甲高い獣の叫び声で、私は背筋がぞっとする。
…嫌な予感がする。
私は部屋から出て階段を下り、玄関口にいた弟と…ソレに目をやった。ソレは段ボールの中に入っていて、階段先から除く私を凝視していた。
「…ははは、可哀相だから拾ってきちゃった」
「わん!」
私は声にならない声を上げ、部屋に戻り毛布を羽織り、ベッドの上でうずくまる。当然の反応を予想していたのか、弟が私の部屋に入ってくる。
「バカ!バカバカ!バカ孝!早く、アレを捨ててきなさい!わ、私が犬苦手なの知ってるでしょ!?」
「…こんな雨の中じゃ可哀相だよ〜。ねぇ、お願いだよ…」
「あんた今年でもう小学5年生よね?年長よね?だったら人が嫌な物を無理矢理押し付ける事が駄目な事っていうのぐらい知ってるよね!?」
「押し付けなんかしないよ。それに今日一日だけだから、晴れたら元の場所に戻すから」
根本から解ってないようなので、ベッドから起き上がり弟に怒鳴りつける。
「一日も家に置いたら懐かれるでしょ!そしたらもう飼うしかなくなるじゃない!それが私にとってどれだけ辛い事か解る!?それに私今年受験生なのよ!ただでさえストレス感じやすいのに…あんな物いたら精神的に狂っちゃうわよ!」
「……でも」
「いいから早く捨ててこい!」
私の怒涛のような怒りに観念したのか、弟は俯きながら部屋を出ていく。さすがにこれだけ怒ると罪悪感も生まれてしまうが、駄目な物は駄目なのだ。トラウマを克服するなんて、たぶん東大合格するより難しい。私にとって、それが「犬」という存在その物なのだ。「犬」は私にとって恐怖そのもの。だから無理!
怒り疲れた私は喉が渇き、下のリビングに降りて水をがぶ飲みした。リビングの窓から外を見る。雨は止むことなく、ザーザーと降り続けていた。
私が目が覚めた時は、もう夜の7時だった。知らぬ間に寝てしまっていた。今日はほとんど寝て過ごしたな。ここ最近、豪雨警報のせいで学校もないからかニートになった気分。携帯を見ると、母から着信があったので電話をかける。
「あ、由香梨?今日ね、この雨で帰れそうにないの…ゴメンね」
「だから言ったじゃん。警報出てるから今日仕事休めって…」
「駄目よ。今日は取引先との約束あったし」
「あー、もう解った解った。なんか晩飯になりそうな物ってある?」
「レトルトカレーがあるからそれ食べといて」
「一応聞いとくけど、ママどこに泊まってくの?」
「会社近くのビジネスホテルよ。もう大変よ。外も洪水で。そのせいでこのホテルも今日は人いっぱいみたいだし」
「マジ?そんな酷いの?」
「あなた今日テレビ見てないの?関東全体こんな感じよ。あー、海外に主張行ってるパパが羨ましいわ。あ、さっきパパからも連絡あったから『山野家は全員無事です!』って伝えとくね〜。あー、あと戸締まりよろしく」
「はいはい、じゃあね〜」
電話が終わると、リビングの電気を付け、ついでにテレビも付ける。確かに事態は深刻みたい。どのチャンネル付けても全部天気速報に変わってる。こりゃ酷い。
外の状況を確認するいなや、さっき弟に「犬を元の場所に捨ててこい」っと指示したのを思い出し、一気に不安が押し寄せてくる。家が静まり返っている分、余計に…
「まさか、まだ家に帰ってないとか…」
私は急に心配になり、リビングの扉を空け玄関の明かりを付ける。そして弟の部屋に向かう。部屋の前で弟を呼んでみる。
「孝?いるよねー?」
「わっ、姉ちゃん起きてたの!?」
ほっ、良かった。全然無事みたい。
「お腹減ったから一緒にカレー食べよーよ」
そう言って私は扉を開ける。
「わっ!開けちゃあ駄目…」
「もう何よ、………!!」
弟の部屋には、さっきの子犬がいた。子犬は弟が用意したタオルケットを噛み、それを玩具のように振り回していた。子犬は私の存在に気づき、あろう事か私の側に寄ってきた。
「ぎゃーー!」
私は叫び、腰を抜かしてしまう。そんな私なんかお構いなしに犬は私にのしかかってくる。私は溺れたみたいに手足をばたつかる。
「いや、やめて!いや、いや〜〜」
弟はあまりのオーバーリアクションをする私をしばらく見てキョトンしていたが、事態を察したのか素早く犬を抱きしめ、部屋に犬を残し扉を閉める。扉を引っ掻く音が耳障りだったが、私にはそれ所じゃなかった。
「ひく、ひく…」
あまりの恐怖体験で、その場で大泣きしてしまった。
「ゴメンよ姉ちゃん…でも、やっぱあの子犬をこんな雨の中見捨てる事が出来なくって…」
パシッ!
私は無言で弟の頬をひっぱたいた。弟はその勢いで尻餅をつき座り込む。
「ご、ごめんなさい…」
弟の謝罪を無視して自室に戻った。まだ流しきれてない涙を出し、ベッドに倒れ込む。隣から「わん!」っと言う度に身体が反応しビクつく。聞きたくないので、ずっと両手で耳を塞いだ。
数分すると気持ちが落ち着き、さらに空腹にも堪えれなかったのでリビングに行く。すると弟がすでにカレーを二人分作ってくれていた。
「…………」
私は黙って席につき、カレーを食べ始めた。
「姉ちゃん、さっきは本当にゴメン」
「…今日だけよ」
「え?」
「今日一晩だけならいいわ。でも明日天気がちょっとでもマシになったらすぐに捨ててきて」
「…うん」
複雑な感情だったのか、弟は弟でその会話が終わると一言も何も発言する事なくカレーを食べるのに集中した。
その翌日も天気は大雨だった。母はそのまま仕事に行って、夕方に帰ってくるらしい。私達は警報が出たから今日も休み。いい加減、頭がいかれてしまいそうだ。昨日の晩は犬が気になって一睡も眠れた気がしなかったし。
リビングに行くと、弟がスープ皿にミルクを入れていた。
「それ犬にあげるの?」
機嫌悪く質問したので、弟は間を空けてから頷く。
「その皿、私達も使うんだよ!変な病気とか移ったらどうするつもり!?」
怒鳴ってみたものの、寝不足のせいか頭が痛い。こんな事でいちいち怒ってられないと思い、台所の食器戸棚の奥から幼少期に弟が使っていた受け皿を取り出し、それを弟に渡す。
「それ、たぶんもう使わないから…」
「姉ちゃんありがとう!」
瞬時に弟の顔が笑顔になる。弟はそれにミルクを注ぎ込み二階へ運んだ。
私は戸から外を眺める。相変わらず雨が降っていたが…
「昨日よりは、マシになったな。てか、これでもまだ警報出てるってどーゆことよ。はぁ、過保護社会だな、日本って…」
何より、早く犬を捨ててきてほしい。弟には悪いけど、やっぱり犬は恐い。
「はぁ、でもこんなに世話しちゃったら、もう懐かれちゃってるよね…家で飼うしかなくなるよね…」
私は深いため息を吐き、しばらく放心していた。とりあえず、今日は母が帰ってくるので相談してみよう。
夕方になると母が急ぎ足で家に帰ってきた。外は小雨になっていたが、弟は犬の世話に夢中になっていて「天気がマシになったら捨てる」という約束をすっかり忘れてしまっていた。
「昨日は大丈夫だった?雨凄かったね〜」
「…雨のがマシだったよ」
「ん?どゆこと?」
私は母に昨日起こった事を説明した。母は困った顔し、部屋にいる弟をリビングに呼び出す。
「孝ぃー、ちょっと来なさーい」
「…はーい」
この事態も予測していたのか、弟は明らか嫌そうにリビングにやって来た。私達三人はこれから犬をどうするか家族会議を始めた。
「はぁ、まずは…その犬をどうしようかしらね」
「そんなの捨てるに決まってるじゃない!」
私は抵抗出来るだけ、抵抗してみる。
「でも2日も面倒みちゃったから捨てにくいわね…」
母の性格上、たぶん捨てるという行為はあまり好ましくはないのだろう。母と弟は性格も似ているし、どちらも動物好き。それでも、私は食い下がろうとはにしなかった。
「なぁ、姉ちゃん頼むよ。絶対姉ちゃんに迷惑かけないようにするから」
「そんなの、同じ屋根の下で住む限り無理よ!昨日だって急に飛び付いてきたし!」
「まぁまぁ、由香梨、落ち着いて」
私は事態を迅速に解決するため、長袖を捲り手首の傷痕を弟に見せ付けた。
「私ね、この傷出来た時、本当に痛かったの。それにとても恐かった。それ以来ね、犬を見る度に思い出すの。犬は…私のトラウマ!こんなの、もうたぶん一生克服なんて出来ない!そんな私に犬と一緒に住めっていうの!」
弟は黙り込む。私は昨日から怒鳴り続けてので、声がガラガラだった。
「孝。由香梨はちゃんと自分の意思を示したよ。今度は孝の番」
「……うん」
弟は決意をし、私に話し始める。
「ちゃんと俺が面倒見る。姉ちゃんに迷惑かけないように。吠えないようにもするし、噛まないようにもする。ちゃんとしつける。散歩も餌も、全部自分でやる。極力、姉ちゃんから犬を遠ざける」
そう言うと弟は立ち上がり、私の目の前で…なんと土下座をした。
「お願いします!あの犬をここに置いてやって下さい!お願いします!」
正直、弟のこんな姿は見たくなかったので止めさせたかった。
「由香梨、私、あなたが犬苦手でトラウマになってるのちゃんと理解してあげられるわ。でもね、私、孝の気持ちも凄く解るの。この子は優しい心の持ち主だし、もし私が孝の立場だったら私も孝と同じ事をする。それに、孝だって由香梨が犬苦手の知ってる上で、これだけお願いしてるんだから、由香梨も孝を解ってあげて。それが家族でしょ?」
母にそこまで言われると、もう何も言えない。もう一日犬を家に置いている時点で覚悟はしてた。それに、もう攻撃するのも疲れた。
「絶対に途中放棄しちゃ駄目だからね!あと宣言した通り、私には絶対迷惑かけない!近づけない!絶対よ!ちゃんと約束出来る!?」
「え…うん!解った!ありがとう姉ちゃん!」
私は弟に小指を出し、指切りをした。
「もし、破ったら千本本当に飲んでもらうから」
「大丈夫!絶対守るよ!」
弟は犬が私の目につかないよう、裏庭で犬を飼いはじめた。名前は雨の日に拾ったので「レイン」。レインはちゃんと弟のしつけを受け、むやみに吠えない大人しい犬に育った。最初は小さかった体もすぐに大きくなったらしい。一応、レインは雑種だったが、パッと見た感じでは柴犬に近かった。
私はレインに接する事もなければ、邪魔もされなかっので、なんの問題もなく高校受験に成功した。その翌年には弟も中学生になり、吹奏楽の部活や友人達と出かける事が多くなったが、必ず6時には帰宅し、レインの散歩をサボらないようにしていた。どうしても無理な時は母やたまに帰ってくる父に任せていた。しかしながら、誓った約束を破ることもなく、弟はレインの世話を怠ることはなかった。
あまりにも完璧にこなすので、本当に我が家に犬なんているのかと確かめた事もある。ちゃんと裏庭にはレインがいたし、私は私でレインの姿を一瞬見ると、そそくさと逃げた。
しかし、そんな安心を踏みにじるかのように、その事件は起きてしまった。私が高校生二年生になった9月の半ばの事である。私は学校で流行っていたインフルエンザにかかってしまい、学校を休み、家で床に伏せていた。
身体が非常にダルく何も出来ない。睡眠を取りたいのだが熱が上がり全く落ち着けない。
「もう、最悪…」
独り言を言っても虚しいだけだった。喉が渇いてきたので、母が用意してくれたお茶の入った水筒を取り、喉を潤す。
「…あ。もうなくなっちゃった」
まだ喉は潤いを欲していた。時計を見ると、ちょうどお昼時だったので私はリビングに行く事にした。
机の上にはお粥と薬と母のメモが置いていた。メモには『お粥はレンジでチンして下さい。食べた後は薬を飲んで、十分睡眠をとること!お大事にね♪』と書いてあった。
「子供じゃないから、それぐらい解るっつの…」
私はお粥をレンジに入れ、その間ソファーに寝転んだ。
「ワン!ワンワン!」
反射的に身体がビクつく。普段、大人しいはずのレインがしつこく吠えているのだ。
「ワンワン」
嫌、やめて。
「ワンワンワンワン」
やめて。やめてやめてやめてやめて…!
「ワンワンワンワンワンワンワンワン」
身体の震えが止まらず、息もだんだん荒くなる。ただでさえ弱々しい状態なのに、これ以上吠えられると壊れちゃう。
なるべく状態の悪化を避けたかったので、私はレインを宥めに行く事にする。本当はめちゃくちゃ嫌だけど、吠えられ続けると精神面がもたない。
私は裏庭に通じる和室に行き、戸からレインを見る。2年ぐらい姿を見てなかったのだが、母から聞いた通り。身体は大きくなっていて、もう立派な成人犬だ。まだワンワンうるさく吠えている。私は一刻も早く吠えるの止めさせたかったので、戸を蹴ってこちらの怒りを表示する。するとレインは牙を剥き出しにし、戸越しに私を威嚇してきた。
「きゃ!」
私はまた腰を抜かし、その場に倒れ込む。
「ワンワン!」
「や、やめなさいレイン!」
「ワンワンワンワン!」
「やめなさいってば!」
「ワンワンワンワンワン!」
「うるさいのよ!やめろ!」
「ワンワンワンワンワンワン!」
「や、やめてよ。うっ…うう」
恐さを我慢していたが、ついに耐え切れなくなり泣いてしまう。私がいくら泣いてもレインは吠えるのをやめてくれなかった。私は諦め自室に戻り、レインが始めて家に来た時の事、犬に手首に噛まれた事を思い出し、泣きながら耳を塞ぎベッドの上でうずくまった。恐い…誰か…助けて
夕方、学校から弟が帰ってくるやいなや私は八つ当たりした。
「あんたさ!私に迷惑かけさせないようにするって約束したよね!?…ゲホゲホっ」
急に怒鳴りつけたので、しばらく咳込んでしまう。身体壊してるの忘れてた。
「ど、どうしたの姉ちゃん?」
急に怒られたので弟は何が何だから解らず、おどおどする。
「レインが…今日吠えまくってたのよ…ケホっ…おかげで全く安静にできなかった…!」
「そ、そんなはずないよ!レインはちゃんと家では吠えないようにしつけたし、今の今までちゃんとそれを守ってた。それは姉ちゃんも知ってるだろ?」
「じゃあ、なんで…今日に限ってあんなに吠えたのよ…」
そんな事を言われても解らない。そんな顔をしていた。私は身体のダルさがピークになり、玄関に座り込んでしまう。
「姉ちゃん、とりあえず寝たほうがいいよ。顔色も良くないし…」
「誰の…せいでこんな…」
弟は私に肩を貸し、部屋まで私を運んだ。弟が部屋を出る時に私は言った。
「レインを…捨ててきて。やっぱり…私は…あの子とは住めない」
弟は何も言わず、ただ俯いていた。その姿を見て、私はまたレインが始めて家に来た時のことを思い出してしまった。
その翌日も学校を休む。私の体調は昨日よりもさらに悪化していた。あまりにも酷かったので、今日は母が仕事を休み、付きっ切りで看病してくれた。その日、レインが吠える事はなかった。
それからさらに翌日。
「よし、大分熱も下がったわね。良かった良かった」
母は体温計を見てほっとしていた。私も昨日、一昨日よりはかなりマシになっていたので安心する。
「でもまだ本調子じゃないみたいだから、今日も学校は休みなさい。連絡は私がしてあげるから。あと、お粥と薬は用意してあるからちゃんと食べて、薬も飲むのよ」
「ママ、今日は仕事行っちゃうの?」
「そりゃね、昨日の休んだ分をちゃんと今日で埋めない合わせしないといけないし」
「……うん」
本当は一緒にいてほしかった。一昨日のレインの恐怖が今だに忘れられないし。
「じゃあ、行ってくるわね」
結局、何も言えず母を見送った。
私は恐怖を紛らわすため、早く寝てしまう事にした。寝たらその分身体がマシになるし、レインの事なんか考えずにすむ。私は寝る事に集中する。が、それはあっという間に阻止される。
「ワンワン!」
…まただ。なんでよ。なんで私一人だと吠えるの?そんなに私の事嫌い?捨てようとしたから?私一人だけアナタの面倒みないから?私はまた涙ぐむ。
「お願いレイン。吠えないで…」
バリーーン!!
急にその音が耳に突き刺さってきた。まるで張り詰めたガラスが割れる音。
「な、何?」
私はベッドから身体を起こし、部屋を出て階段下を見る。レインの鳴き声は止んでいたが、その変わりに風の音がびゅーびゅー聞こえている。
私は恐る恐る階段を下りる。音がした根源を探すため、一階全体を見回る。
リビングに行くと、ガラスが割られ戸が開いていた。
「な、何なの?」
私はビクビクしながら、居間の扉を閉めようとした。
あれ?…何かがつっかえて閉まらない。
私はその違和感に不安を隠しきれなかったが、ソレを見てしまった。
「グルルルル…!」
レインだ。
「いやーー!」
私はレインの存在に気づくと、その場に倒れ込んでしまう。レインの様子が明らかにおかしい。牙を剥き出しにしており、足から血をたらし、さらに体の至る所にガラスの破片が付いている。普段はリードで繋いでいるはずなのになんで?よく見ると、レインの首輪が外れている…いや、違う。自分で無理矢理外したんだ!その証拠に首の皮が剥がれ、肉が剥き出しになっている。化物…それが私が目にしたレインの姿。
レインは唸りながら、まるで獲物を狩る如く、一定の距離を置きながらジリジリと私を追い詰める。
「いや、やめて…お願い…お願いだから…」
私は恐さのあまり失禁してしまっていた。涙で視界がボヤける。
「お願い…お願い…」
呪文のように、その言葉を繰り返す。
「ワン!ワンワンワンワンワンワンワンワン!」
吠えたのと同時にレインは助走をつけ私に飛び掛かって来た。…殺される!
……………
意識を失いかけた瞬間、血を吹き出していた。
…いや、違う。コレは私の血じゃない…
「ぐわぁぁぁ!」
私はその声で我に返る。
「このクソ犬ぅ!」
その声と共に、レインが私の目の前に落ちてきた。
「キャインっ」
え?何?何これ?
振り向くと、男が私の後ろに立っていた。レインに噛みつかれたのか、首から大量の血を流す。男は手にナイフを持っており、よろめきながらも私に襲いかかってきた。
「い、いやぁ!」
「逃げるな!この野郎!」
男は私の髪を掴み、ナイフを頬に近づける。
「そ、そうだ。大人しくしろ。そしたら、何にもしないから…」
「ワンワンワンワン!」
レインはボロボロになりながら、ナイフを持っている方の男の腕に噛み付く。
「ぐわぁぁ!」
その衝撃で、私の髪は男の手から解放される。私は必死で男から離れ、扉付近まで逃げる。レインは男の腕にしっかり噛みつき、それを放そうとはしなかった。
「このクソ犬がぁ!」
グチャ!
ナイフはレインの背中に突き刺さり、血が辺りに飛び散る。それでもレインは男の腕を放さない。私は急いで玄関に走り、外に出て叫ぶ。
「誰か!誰か助けてー!」
外にはたまたま散歩中のおじさんが一人いた。私は急いでおじさんに近づき、助けを求めた。
「どうしたんだい!?君、血が付いてる!何かあったのか!?」
「家に…!家に変な男が!」
そのやり取りをしていると、男が私を追いかけ玄関から出てきた。が、おじさんを見るとすぐに諦めたようで、その場から全力で走り逃げて行った。おじさんはすぐに状況を把握し、すぐさま携帯電話で警察に通報した。
男が逃げてから、私はすぐにリビングに戻る。
「レイン!」
レインの背中にはナイフが刺さったままで、大量の血を出し、虫の息でその場に倒れていた。かなり衰弱している、
「レイン!しっかりして!今助けてあげるから!」
私はレインに手を差し延べる。するとレインはぺろぺろと私の手首の傷痕を舐める。
「くぅぅん…」
「レイン…」
私は、大粒の涙を流していた。レインは…レインは恐怖の象徴なんかじゃない。私を…助けてくれた。私は…私は…なんて酷いことを…。
「ごめん…ごめんね」
やがてレインはそっと目を閉じ、長い眠りについた。私はただ、泣き叫ぶしか出来なかった。
目が覚めると、そこは病院だった。私のベッドの横には母と弟…それに出張に行っているはずの父までいた。話を聞くと私はあのまま意識を失ってしまったのだ。私を襲った男はすぐに警察に逮捕されたらしい。レインは、傷が深く、そのまま死んでしまった。
「孝、ゴメンね…私のせいで…」
「大丈夫。…大丈夫だよ。姉ちゃんは…悪くない…」
私達はお互い涙を浮かべていた。
今、考えると、レインは本当に化物だったかもしれない。必死に吠え敵の侵入を伝えようとし、侵入されると敵を倒すために自分の首輪をひきちぎってそのまま和室の戸をぶち破り、主人の姉がピンチであれば敵の首や腕にカブりつき、背中をナイフで刺されてもそいつを放そうとはしなかった。
「化物だけど、あんた凄い犬だったよ。ありがとう。私のために戦ってくれて」
私はレインの遺影の前で手を合わし、感謝の念を伝えた。
事件から数ヶ月後、仕事から帰ってきた父が家族に収集をかける。あの一件以来、父は会社の出張を断り、家から普通に本社に通っている。
「あのな、皆に相談があるんだけど…」
「何ぃ?もう早くしないと楽しみにしてたドラマが始まっちゃうじゃない〜」
そう言って母が父を急かす。
「うちの部署の仲の良い後輩が犬を飼っててね、ちょうどその犬が今度子供を産むそうなんだ。それで一匹よければ課長にって言ってきたもんだから、皆の了承があれば貰おうと思って…」
「うお!マジで!…あ、でも…」
弟は私は見つめ言葉が濁る。
「…姉ちゃん、駄目かな?」
「駄目」
そう言うと弟はしゅんと肩を落とす。
「どうしても?」
「どうしても!あんた一人だけには絶対世話させないんだから!」
「そだよね……え?今、なんて!?」
「だから、あんた一人で世話すんのは駄目って言ったの!今度は、私もちゃんと面倒みる!」
「あらあら、てことは、家族全員OKってことね」
弟は飛んで喜び始める。まったく。もう中学生なのに、まだ全然ガキね。そんな弟を尻目に、母が質問する。
「ちなみに種類はなんなの?」
「あぁ、ゴールデンレトリバーだよ」
……!!
やっぱ大丈夫かな?…いや、うん、大丈夫。レイン、私その子をちゃんと世話して育てるから、天国から見ててよね。
Fin