幻想の家族
流伽には特別な力がある。普通の人には見えないものが見えてしまうのだ。それに気づいたのは母に指摘されたからだ。
母は流伽に何度もこう教え込んだ。
「この力があることを他の人に言っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「おかしい子だって思われて、仲間はずれにされちゃうからよ。流加だって、仲良しのお友達が離れていっちゃうのは悲しいでしょ?」
流伽は一番の親友である大輔くんを思い出した。たしかに、彼が流加から背を向けて、違う子とつるむようになってしまったら悲しい。
「わかったよ、お母さん。誰にも言わないよ」
流伽が約束すると、母はほっとした表情になった。
流伽がその少女を見つけたのは、学校の校庭でサッカーをしている時だった。
大柄で力強い大輔の放ったシュートはゴールポストをそれ、フェンスを飛び越えて校舎裏にある更地へと落ちていった。そこは今後学校の施設増設のために工事予定の場所で、重機などの機材が放置されている。危険だからと立ち入りは禁止されているのだが、この際しょうがない。
身軽な流伽は大輔に頼まれて、フェンスを乗り越えてボールを取りに言った。
無事にボールを見つけることが出来、小脇に抱えて更地を後にしようとした時、妙な感覚が流伽を襲った。
あ、後ろに誰かがいる。
流伽は直感的に思った。みんなの目には見えない何者かが自分の背後にいる。それは流伽が幼いころから経験してきた感覚だった。霊的なものの視線を感じるのだ。そうして振り返ると、必ずそこには「あれ」がいた。
いつもであれば、母のいいつけを守って何でもないふりをする。しかし、このとき流伽は思わず振り返ってしまった。自分に視線を投げかけるものの感情が、あまりにも強く切実に流れ込んできたからだ。
流伽は後ろを振り返った。そこに彼女はいた。
ショートヘアの活発そうな女の子だ。歳は流伽と同じくらいか、ひとつ下だろう。白いTシャツに水玉模様の赤いワンピースを着ており、青いスニーカーを履いている。妙にリアルに映る幽霊だった。少女は流伽が自分を認識したことがわかるとニタリと笑った。
しまった、と思った瞬間にはもう遅い。
それからというものの、流加は少女の霊に付きまとわれることになった。
あるときは授業中に先生の隣に立って黒板の字を指さしたり、体育の授業の時には流伽と一緒になって走ったりした。ふざけているというよりは、何とかして流伽の気を引きたいと思っているようだった。無視しようにも、ことあるごとに流伽の視界に入ろうとする。
流伽はたまりかねて母親に相談した。
「その女の子は、流伽に頼みたいことがあるんじゃない。その願いを叶えてあげれば、流伽の前から消えてくれるかもしれないよ」
母は優しくアドバイスをした。簡単に言うが、流伽は少女の霊と話すことが出来ない。少女だけでなく、街で見かけるすべての霊と意志疎通が出来ないのだ。一体どうやって願いを聞き出せばいいのだろうか。
「霊にまでなるっていうことは、その女の子は学校という場所に対して強い未練があるんじゃないかな。だから、学校に縛られてるんだよ」
母はそう予測した。確かに、少女は学校の敷地内でしか現れない。流加が外に出れば途端に消えていなくなるのだ。
「地縛霊ってこと?」
「そうかもね。それか、女の子の伝えたいことが、学校内に隠されてあるとか」
流伽は考え込んだ。そして、ある仮説を立てた。それを証明するため、休日図書館に行くことにした。
夏休み後の図書館は休日でも比較的空いていた。これが夏休みの最終日に近づくにつれ、自由研究の為に近所の小学生たちがこぞって集まり始め、図書館が込み合ってしまうのだ。流加は広々とした受付を横切り、パソコンが置いてあるスペースへ向かい、そのひとつに身体を滑り込ませた。
このパソコンは最近導入されたものだ。日本で発行された新聞のデータベースにアクセスして、記事の文言を検索することが出来る。
流伽は早速キーボードを叩き、検索画面に文字を打ち込んだ。
『大島小学校 女子児童 自殺』
しかし、流伽の予想に反してキーワードにヒットした記事はなかった。次に流伽は、『大島小学校 女子児童 死亡』と打ち込んだ。
数件の記事がヒットした。交通事故などの不慮の事故で死んだ児童を取り扱っている。しかし、大島小の児童ではあっても学校とは関係のない場所で事故に遭い死亡している。そんな児童の霊が小学校に現れるのも不自然だ。
流伽はしばし考え込んでから、検索画面にキーワードを打ち込んだ。
『大島小学校 女子児童 行方不明』
ヒットする記事は一件もなかった。流加は再び頭を抱えた。
あの少女が大島小学校で不慮の事故で死んだが自殺してしまい、その未練が少女の霊を学校に結びつけているのだと予想していたのだが、違うのだろうか。少女が何を言いたいのかわからければ、自分は小学校を卒業するまであれに付きまとわれるのだろうか?いやし、しかしそれ以上に、流伽は少女のメッセージを汲み取れない自分に腹が立っていた。あの少女の願いを叶えてやりたい。少女が自分と目があった瞬間、うつろだった瞳に光が差し込み、ぱぁっと明るくなった。あの希望に満ちた顔を裏切りたくなかった。だが、自分には力がない。
流伽は何げなく隣の席を見やった。前の使用者が置き忘れたのだろうか、先月刊行された週刊誌が目に入った。誇張された衝撃的な見出しと表紙にある可愛らしい女性の顔が対照的だ。手を伸ばし、雑誌のページをぱらぱらとめくった。すると、あるページの広告欄が流伽の目に飛び込んできた。
「鏡探偵事務所 心霊・怪奇現象にお悩みの方 お気軽にお問い合わせください。」
太いポップな字体に不釣り合いな心霊という文字。流加は思わず食い入るように見つめた。大衆雑誌にここまで堂々と広告を載せるなんて。しかもお祓いならまだしも、心霊・怪奇現象である。それも探偵事務所が行っている!
流伽は心霊と探偵の単語に惹かれた。流加の毎週楽しみにしている少年漫画に出て来るような言葉だ。さっそく鞄からノートとペンを取り出し、住所と電話番号をメモをした。
鏡探偵事務所は新鮮な花の香りで満たされていた。
紫苑はドアから入ってくるなり、ぎょっとして目を見張った。
「何ですか、これ?」
所長である玲一のデスクの横に、見事な胡蝶蘭の鉢植えが鎮座しているのである。欄は白を下地に淡い紫色に染まり、何ともゴージャスだ。
「これか?知り合いに貰ったんだよ。開業一周年記念にな」
玲一が新聞を読みながら事もなげに言った。
「胡蝶蘭って、ふつうは開業記念に送られてくるものなんじゃないですか?」
「知り合いは、そういう決まり事は気にしないタイプなんだ」
紫苑はその知り合いが誰であるのか非常に気になった。尋ねる前に、後ろでドアを開く音がする。
「あの、ここが鏡探偵事務所ですか?」
再び紫苑は面食らった。そこにいるのは小学校三年生くらいの男の子だったたのだ。つやつやした髪の毛に、こんがりと日焼けした肌。利口そうな黒い目が紫苑を見上げていた。
「ええっと、そうだけど、君は誰?どうしてここに?」
紫苑が流伽にかがみ込んで話しかけると、流伽は憮然として言った。
「僕は依頼人の笠原流伽です。電話で予約をしました」
紫苑は玲一を振り返った。玲一は新聞を折り畳みながら大儀そうにいった。
「まさか本当に来るとわね。紫苑くん。この小さな客人にはオレンジジュースを」
しかし流伽は首を振った。
「僕、コーヒーの方がいいです」
「ほう。なかなか味覚が鋭いようだ」
玲一は愉快そうに笑った。
コーヒーカップに唇を近づけ、ふうふう言いながらコーヒーをすする流伽に、玲一は確かめるように言った。
「つまり、君だけにしかその少女の霊は見えないと?」
「はい。みんなあの子に気づいていません。あの子もそれをよくわかっているようで、僕にしか付きまとわないんです」
紫苑は流伽の語る本格的な心霊現象に驚いた。玲一は、流伽のそんな体験も妄想だと片付けるのだろうか?
「鏡さんは、霊と話せるんですか?だったら、あの女の子が僕に何を言いたいのか教えてください」
流伽は背筋を伸ばして玲一を真っ直ぐに見据えている。その純粋無垢な瞳に、紫苑は心が痛んだ。
「それはいいが、果たして君はちゃんと依頼料金を払えるのか、疑問なんだが」
玲一の冷たい一言にも流伽は動じなかった。
「もちろん、ちゃんと用意してあります!」
流伽はリュックサックからアルミ缶で出来たような貯金箱を取り出した。中でじゃらじゃらと音がする。
「たぶん、一万円以上はあると思います」
テーブルの上に置かれた水玉模様の貯金箱を一瞥し、玲一はこめかみに手をやった。
「君。小銭はあらかじめ銀行に言って札束に両替してもらわないと困るよ」
「え、そうなんですか?小銭の方が多くなるから喜ばれると思っていました」
小学生相手に冷静にダメ出しをする玲一に堪えかね、紫苑が小声でささやいた。
「所長、子ども相手に何マジになってるんですか。ていうか、お金とるんですか?」
「当たり前だろう紫苑くん。我々は慈善団体ではないんだ。報酬はきちんともらわないと」
それもそうだが、この少年の必死さを目の当たりにして紫苑は胸が痛んだ。所長がインチキ霊媒師であるとも知らず、信じ切った目で玲一を見ている。
「所長、私これから一週間は無給で働きますから、この子の依頼を受けてやってくれませんか?」
紫苑が懇願すると、玲一は意外そうに眼をみはった。
「どうしたんだ紫苑くん。金と叙々苑の為なら魂も売るんではなかったのか?」
「それ、いつの話ですか。とにかく、もしかしたら流伽くんの勘違いかもしれないんですから、小学校に言って現場を確かめるだけで済むでしょう?それくらい、やってあげてもいいじゃないですか」
紫苑の説得に懲りたのか、最終的には玲一は流伽の依頼を引き受けることになった。
「やったあ。本当にお金もいらないの?」
流伽は嬉しそうに貯金箱をリュックサックにしまい込む。
「うん。小学生は特別割引で初回無料なの」
紫苑はとってつけたような説明をして流伽に笑顔を向ける。
「じゃあ、早速明日の放課後、学校に来てよ。明日は授業参観だから、知らない大人が来ても目立たないはずだよ」
流伽は年の割に賢かった。このご時世、不審者対策として校門に防犯カメラを設置したり、警備員を配置している学校は多い。見咎められた際に、心霊現象の調査に来ました、などとは言えない。
時間帯と集合場所の約束をしてから、流伽は弾むような足取りで事務所を後にした。
「所長。この依頼どうするつもりですか?」
紫苑は玲一がいつものように心霊現象の原因について見当がついているのではないかと思っていた。
「現場を見てから決めるよ」
玲一は短く答えた。紫苑は玲一の真意を測り兼ねるまま、流伽が飲み干していったコーヒーカップを片付けに行った。
次の日の夕方、紫苑と玲一は大島小学校の校門付近にいた。
玲一はいつものグレースーツ、紫苑は名一杯化粧を施し、いかにも若づくりをしているママに変身していた。
授業参観の後に保護者会でもあったのか、日が傾き始める時間帯であるのに父兄がぞろぞろと校舎から出てくる。二人はその集団に上手く紛れることが出来た。
「あっいたいた、こっち!」
ランドセルを背負った流伽が二人に手を振った。
「体育館の脇から校舎裏に入れば、すぐに着けるよ」
流伽の案内で二人はじゃり道を進んで行った。紫苑はふと思い出して流伽に尋ねる。
「今日は、流伽くんのお母さんとお父さんは来なかったの?」
「うん。お父さんは仕事だし、お母さんは病気だから」
流伽は答えることに馴れているのか、あっけらかんとした様子だった。紫苑は他人事だと思えず、表情を曇らせる。
「そうなんだ…お母さんは、病院?」
「ううん。ずっと家で寝ているんだ。具合が悪いと、外に出れないんだって」
一体流伽の母はどういう病気なのだろう。しかしそれ以上聞くのは憚られた。
紫苑と玲一は流伽に連れられ、日の当たらない校舎裏のじめじめとした空き地へたどり着いた。流伽が言うには、ここには新しく校舎が建つ予定らしい。コンクリートの基礎が出来上がっている。子供が入れないようにするため、背の高いフェンスで囲まれていたが、流伽は器用に小さな体をフェンスの隙間に滑りこませる。
玲一と紫苑は、フェンスの金網越しに眺めることにした。
「あっよかった!いたよ」
流伽が更地のある一角を指さした。しかし、紫苑にはがれきが積み上げられているようにしか見えない。
「ここにいるの見えるでしょ?赤い服を来た女の子!」
流伽は玲一に問いかけた。紫苑は玲一を伺ったが、その表情に思わず立ち尽くした。今までにない険しい表情をしていた。あの普段の人を喰ったような笑みを浮かべている様子とはかけ離れている。まるで、何か強烈な事故現場に遭遇したような表情だ。眉間を寄せ、目を見開いている。紫苑が何か言おうとした瞬間、玲一は流伽の指さす場所から目を逸らした。
「おじさん、どうしたの?」
流伽がフェンスをすり抜けて玲一の傍までやってくる。しかし玲一は、流伽の問いかけを無視するように顔を逸らせた。
「…この依頼は引き受けられない」
玲一が低く唸るように言った。
「えっどうして?」
虚をつかれた流伽は、玲一に詰め寄った。
「ここにいる女の子が見えないの?あの子、おじさんに見つけてもらえてうれしそうだよ」
「いいや。私には何も見えない」
玲一が間髪入れずに答えた。流伽から表情が消えた。
「これは君の妄想に過ぎない。だから早く女の子のことは忘れろ」
「そんな…」
みるみるうちに泣き出しそうになっていく流伽に、慌てた紫苑が駆け寄った。
「流伽くん、とりあえずここから離れよ?」
紫苑には霊は見えないが、日が当たらないせいかは夏だというのに肌寒く、薄気味悪く感じる。流伽はすごすごと紫苑の後について言った。
校舎を出たところで、玲一が再び切り出した。
「君が見えているものは、やがていなくなるよ。気に掛ける必要はない」
「そんなの嘘だよ。あの女の子は僕に助けてほしいんだ。僕が助けなかったら、あの子はずっと学校に縛りつけられたままだよ」
流伽は必死になって玲一に訴えた。しかし、玲一の態度は変わらなかった。紫苑は堪らずに玲一に訴えた。
「所長、どうして今になってそんなこと言うんですか。流伽くんに女の子が見える原因は何なんですか?」
「原因も何もない。紫苑くんだって見ただろう?あそこには何もいないんだ」
玲一は頑なにそう言い切った。流伽は唇を噛み下を向いた。
「家まで送ろうか?」玲一が尋ねてくる。
「いや、いいです。歩いて帰ります」
「私、流伽くんを送っていきます」
紫苑が声を上げた。
こうして三人は別れて家路についた。紫苑は流伽にかける言葉が見つからない。どう言っても紫苑は雇用主の言う通りにするしかないのだ。
「ごめんね、期待させちゃって」
無言で歩き続ける流伽に、紫苑が話しかけた。
「あのね、私がこんなこと言うのも変なんだけど…所長は心霊探偵を名乗っているけど霊が見えないんじゃないかと思うの。だから、流伽くんに女の子が見えるんだったら、それは本当だと思うし…」
「見えない?嘘だよ」
流伽が紫苑を遮るようにして言った。
「おじさんは女の人をちゃんと見てたよ。僕と同じなんだ。そういう人、わかるんだよね。僕のお母さんと同じだよ」
大真面目な流伽に、紫苑が慌てた。
「え、本当に所長に霊感があるの?そんなこと、一言も言ってないのに…」
「きっと、他の人に霊が見えることを言っちゃ駄目だってわかってるんだよ」
流伽は大人びた口調で言う。
「お母さんも言ってたよ。普通の人と同じようにしてなきゃ、周りの人を巻き込んで不幸になっていっちゃうって」
紫苑は流伽の言わんとしていることが上手く呑み込めなかった。かつて玲一は言った。この世に起きる心霊現象の九十九%は人の思いこみや勘違いだと。そして残りの一%だけが議論の余地があると。流伽の言う女の子の霊こそ、残りの一%に該当する現象なのだろうか。
流伽は紫苑に見送ってもらい、自宅へと帰って行った。
「ただいま!」
すると居間から母親が顔を出した。
「お帰りなさい。どうだった?探偵さんに解決してもらった?」
流伽はランドセルを椅子に置いて、ソファーに身体を投げ出した。
「ううん。ダメだった」
母親は残念そうにため息をつく。
「でもね、あの探偵さんは霊が見えたんだ」
流伽は事の一部始終を母親に話して聞かせた。全て聞き終わると、母親は流伽に言い聞かせるように言った。
「きっとその探偵さんは、怖くなったのね」
「あんな小さい女の子に?」
「違うわよ。自分が周りに及ぼす影響についてよ」
流伽には、母の言うことがいまいち理解できなかった。
「お母さん、今日の体調は大丈夫?」
青白い顔をした母に、流伽は心配しそうに尋ねる。
「ええ、今日は大分気分がいいわ。ありがとう」
母は微笑みながら流伽の頭を撫でた。
「これからどうすればいいんだろう…僕、あの女の子のこと放っておけないよ」
流伽が悲し気に目を伏せた。母親は、そんな息子の横顔を見つめていた。
「そうね。お母さんにも、何か出来ることがあればいいんだけど」
翌日、流伽は工事中の更地にいた。
女の子の正体がわかるヒントが何かないか、探しに来たのだ。
昼休みなので、校庭からは生徒たちの騒ぎ声が聞こえる。木々が生い茂る更地の奥へ行こうとした瞬間、流伽は基礎工事のコンクリートで出来た段差に躓いた。あっと思った瞬間には、膝をしたたかコンクリートの角に打ち付けてしまった。激痛に悶えている間、女の子が心配そうに流伽の顔を覗き込んでいた。
「骨に異常はなさそうだけど、念の為病院で診てもらった方がいいわね」
保険医の先生は、重そうな眼鏡をずり上げて流伽の足元にかがみ込んでいる。脱脂綿で消毒し包帯を巻いてもらったが、痛みは引かず歩くたびにじくじく痛み出す。思わず目じりに涙が滲み出た。
保健室のドアが開き、担任の安藤先生が表れた。
「笠原くん。具合はどう?今日は早退した方がいいんじゃない」
安藤先生は流伽の怪我を観察するように首を傾げた。流伽としては早退したくなかったが、この痛みのさなかに授業を受けても集中できそうにない。今は一刻も早く病院に行き痛み止めの薬をもらいたかった。
「はい、今日は早退します」
流伽が答えると、安藤先生は顎を引いて頷いた。
「そうね。その方がいいわ。後ね、先生は笠原くんに聞きたいことがあるの」
「なんですか?」
まるで尋問するような口調に流伽は思わず身を固めた。
「今日のお昼休みに、校舎裏の工事現場に入ったでしょう?先生見てたのよ。そこで転んで怪我をした」
「すみません。ちょっと遊んでみたくて」
流伽は仕方なく素直に認めた。安藤先生は苦手だ。いつの無表情で何を考えているのかわからない。三十代後半くらいなのに、独身らしい。いつも化粧っ気がなく地味で野暮ったい服装をしている。流伽は先生は子供が嫌いなのかも、と思うことがある。
「一度や二度じゃないでしょう。先生は、前にもあなたがあそこに立ち入っているのを見たの」
安藤先生は淡々として言った。流伽は絶句した。
「普段の笠原くんは真面目な子だから、あえて見逃してあげたの。だけど、何回も続くとなると先生も考えなくちゃいけないわね」
「ごめんなさい。もう二度としません。だから…」
流伽は慌てた。先生は母と父にこのことを伝えるのだろうか。母はともかく、父に知られるのはまずい。心配性の父のことだ。外出禁止だなんて言い出しかねない。
安藤先生はしばらく思案するように流伽を見下ろしていたが、やがて髪の毛のおくれ毛をかき上げながら言った。
「まあ、いいでしょう。これで懲りたならね。荷物を持ってくるから、帰る仕度をしなさい。家の人に迎えにきてもらうよう、先生が連絡するから」
「え、それは大丈夫です。僕、一人で帰ります」
母は病気で家から出られないし、父は仕事中だ。しかし、安藤先生はそんな流伽の訴えを無視した。
「そんな怪我じゃ歩けないでしょう。子供が怪我をしたときは、必ず保護者に迎えに行かせる決まりになってるの。お家の人が来るまで、そこで待ってなさい」
そう言って安藤先生は保健室を出て行った。
母が病気であることは安藤先生も知っているはずなのに、どうして先生はわかってくれないんだろう。流伽は唇を噛みしめた。あの人は事あるごとに決まりだから、という理由で生徒を縛りつける。まるでロボットだ。安藤先生は立ち入り禁止の場所に流伽が入って怪我をしたと父に言うかもしれない。それは何とかして阻止したかった。
しばらく流伽は保健室のベットで膝の痛みが引くのを待っていたが、一向に良くならない。そうしている間に不安でいたたまれなくなり、起き上がって痛む足を引き摺りながら職員室に行くことにした。安藤先生を説得して、父に連絡することを止めてもらおう。それに、日中は仕事中だから携帯は繋がらないはずだ。
職員室の引き戸を開けて中を覗き込む。しかし流伽は目に飛び込んできた光景に思わず叫んだ。
「おじさん!」
玲一は流伽の姿を認めると、安藤先生に向き合いにっこりと笑った。
「ほら、あの通り。流伽も喜んでくれてる。私が責任を持って彼を病院に連れて行きますよ」
一方安藤先生は疑り深そうな目で玲一を見ている。
「はあ、まあ、そうですが、保護者として緊急連絡先に名前のない方に生徒を引き渡しすることは出来ない決まりなんです」
「どうしてです?私は流伽の母方の親戚なんです。流伽とは幼い頃に交友がありまして、彼も私によくなついている」
玲一は大ウソを安藤先生に吹き込んでいた。流伽も早速加勢する。
「おじさん、帰って来てくれたんだね!ねえ、僕転んで怪我しちゃったんだ。早く病院に連れてってよ」
「そりゃ大変だ!一刻も早く治療しないとな。…というわけで、流伽の父は仕事で夕方にならないと迎えに来ることが出来ません。それまでずっと放置しているのも可哀想でしょ?」
それでも尚安藤先生はぶつぶつと文句を言っていたが、最終的には流伽を玲一に引き渡してくれた。校門を出るなり、流伽は弾む声で玲一に尋ねた。
「どうして来てくれたの?」
「君のお母さんに頼まれてな」
玲一は苦い顔で答えた。父にばれる前に、お母さんが助けてくれたんだ。流伽は嬉しくなって飛び上がりたかったが、膝が痛すぎて無理だった。
「まずは病院に行くことが先決だな。ここで一番近い病院はどこだ?タクシーを呼ぶから待ってなさい」
「南山病院だよ。じゃあ、おじさんは僕の依頼を引き受けてくれるの?」
「…それとこれとは別問題だ。それと、私のことはおじさんではなくお兄さんと呼べ」
「でも、お母さんはあのこともおじさんに頼んだんでしょ?」
流伽は玲一の主張を無視して続けた。
玲一は腰に手を当て、じっと流伽を見た。その張り詰めた視線に、流伽は思わず硬直する。西日を背に受けた玲一の顔色には陰影ができ、まるで彫像のように見えた。その視線は、流伽ではない別の何かを見ているようで、思わず後ろを振り返った。しかし、誰もいない。
「わかった。明日、学校が終わったら大島図書館に行ってくれ。そこで待ち合わせしよう」
玲一は諦めたように言った。大島図書館は、流伽が女の子のことを調べようとして訪れた場所だ。
「えっ本当?やったあ!」
流伽がガッツポーズを決めるのを横目に、玲一はため息をついた。
玲一は流伽を病院に連れて行き、家まで送り届けてくれた。病院での診察は幸いなことに対した怪我ではなかった。化膿止めと痛み止めの薬をもらい、流伽は家路に着いた。
ランドセルを置いて居間に行き、流伽は早速母親に今日の出来事を話した。
「お母さんがおじさんを説得してくれたんだね。ありがとう!」
母はにこにこしながら、嬉しそうに言った。
「どういたしまして。お母さんが出来ることはこれくらいだからね」
夜になると、父が帰宅して来た。父は流伽の足の怪我に驚いたが、あまり父を心配させたくない流伽は、サッカーをして転んだと適当に言い訳をした。
普段父は帰宅が遅いため、先に流伽が夕食を済ませることが多い。三人揃っての夕食は久しぶりだった。流伽が学校であった出来事を両親に話す。母は微笑みながら息子の話に耳を傾けていた。
「お母さん、食欲ないの?」
母は料理に一切手を付けていなかった。
「うん。でも大丈夫よ。お薬飲んでるから」
流伽は一刻も早く母の病気が治るようにと祈った。半年前の元気だった姿に戻りますように、と。
翌日の放課後、流伽は自転車を飛ばして図書館に言った。そこには玲一の他に紫苑もいた。
「やっほー、流伽くん久しぶり!」
「お姉ちゃんも来てくれたんだね!」
流伽は息を弾ませながら二人に並んだ。
「所長がやっぱり流伽君の依頼を引き受けるって言い出した時には驚きましたよ!見直しちゃいました!」
「紫苑君のタダ働きしてくれるっていうからな」
玲一は皮肉混じりに言った。
三人はパソコンのあるエリアへ向かった。
「僕、ここで女の子のこと調べたことがあるよ。あの学校内で死んだんじゃないかって。でも、そんな記事は見つからなかった」
「検索の仕方が悪いんだよ」
玲一はそう言ってキーワードを打ち込んだ。
『大島区 男子児童 行方不明』
「えっあの子、男の子だったの?」
流伽が驚く間もなく、検索画面に複数の記事がヒットした。
大島区男子児童行方不明事件
二〇〇七年八月五日、東京都大島区で区議会議員の大西雄一郎さんの長男・眞くん(当時七歳)が深夜、家から行方不明となった。事件から十年以上経った今も発見につながる情報はない。
事件概要
この夜、家には大西さんと妻歩美さん、長女がいた。
眞くんと長女は昼間二人が通っている小学校のスイミングスクールに行き、午後三時に帰宅している。その後二人は自室でテレビゲームをして遊んでいた。
午後六時ごろ、妻の歩美さんが仕事から帰宅し三人で夕食をとった。その後は八時まで歩美さんは二人の夏休みの宿題を手伝い、その後眞くんと長女は風呂に入り、九時には就寝したという。
午後十時ごろ、眞くんの父親雄一郎さんが帰宅した。その際、二人の部屋を覗いて眞くんが寝ているところを確認している。夫婦は0時に就寝した。
午前六時、妻歩美さんが目を覚まし、朝食などの仕度をする。そして午前七時、眞くんが起きてこないので自室に向かったところ、姿がないことに気づく。近所を捜索したが見つけられず、午前十時、警察に通報した。
難しい漢字はわからないが、事件のあらすじは流伽にも理解できた。十年前、七歳の男の子が深夜に家から忽然と姿を消したのだ。
記事をスクロールしていくと、行方不明時の大西眞くんの写真が表れた。
流伽は食い入るように写真を見つめた。色白で坊ちゃん刈りの髪型、黒目がちの大きな瞳。男の子にしては可愛らしい顔立ちをしている。鼻筋や顔の輪郭は似ている。しかし、あの女の子ではない。
「おじさん、この事件が本当にあの女の子と関係があるの?小学校で行方不明になったわけじゃないし、そもそも男の子だよ」
「関係ないとは言い切れないだろ?大島区で行方不明になった児童は、この男の子だけだ。それに、君のいう女の子の服装から考えて、それほど大昔にいなくなったとは考えにくい。せいぜい、ここ十年以内に生きていた霊だろう。となると、この事件と関連がある」
玲一は机の上をとん、と叩いた。なぜそれほどにも断言出来るのだろうか。
「う~ん。こじつけみたいな推測ですね。でも、どうやって十年前の事件を調べるんですか?記事によると、三年前に捜査は打ち切られたとありますけど」
紫苑も同じことを思ったらしい。首を傾げている。その時、流伽はあっとひらめいた。
「もしかしたら、あの女の子は行方不明になった男の子の姉妹かも…」
この記事には年齢は記されていないが、一緒にスイミングスクールに通ったりテレビゲームをするあたり、年は近いのだろう。顔立ちもよく似ている。弟か兄が行方不明になり、そのショックが生霊となって学校に現れているのかもしれない。それに、大島小学校は屋内プールの設備が充実しているため、現在もスイミングスクールがある。二人を結びつけているものがプールだとしたら…
そこまで考えて、再び流伽は頭を捻りたくなる。ではどうしてプールに女の子の霊が表れないのだろう?
「その可能性は大いにあるな」
玲一は考え込む流伽を横目に、椅子から立ち上がった。
「さて、私はこれから用事がある。君たち二人は先に帰ってくれ」
玲一がさっさと図書館を後にしてしまったので、取り残された紫苑と流伽はしばらく図書館をぶらぶらした。
「流伽くんは、どんな本が好きなの?」
「探偵物かな!シャーロックホームズとか好きだよ。あと江戸川乱歩とかも!」
流伽が怪人二十面相について熱く語った。
「僕も大人になったら探偵になろうかな」
「止めたほうがいいよ。そんな楽しい仕事じゃないから」
紫苑は思わず冷静にツッコミをしてしまった。実際、浮気調査や身辺調査といえば地道で泥臭い仕事ばかりで漫画やドラマのような華々しい活躍など出来ない。そもそも、現実的に考えて一般人が警察を差し置いて犯罪事件の調査をすること事態、無理があるのだ。
「でも、人の役には立つでしょ?」
流伽がにっこりとして紫苑を見上げた。
確かに、と紫苑は思った。これまで心霊現象の調査依頼をしてきた依頼人たちは、皆感謝していた。確かにそうかもしれない。女の子の霊が本当に実在するのか未だ疑問だが、紫苑はこの謎の解明が流伽の役に立てればいいと思った。
数日後、紫苑は流伽の依頼の件で事務所に呼び出された。
「調査に進展があったんですか?」
「まあ、進展というか状況整理が出来そうだ。…そろそろ来るかな」
玲一がドアに目をやると、一人の男が事務所に入って来た。スーツ姿で頭は短く刈り上げている。がっしりとした体躯にするどい目つき。年は三十代くらいだろうか。ただのサラリーマンではなさそうだ。
「いやいや、久しぶりだな」
男は玲一の姿を認めるとたちまち破顔した。笑うとくしゃくしゃっとしわが広がり、強面の雰囲気はいくらか和らいだ。
「俺が贈った胡蝶蘭、ちゃんと世話してるか?それにしても一年続くと思わなかったな」
「お前が選んだにしては品のある贈り物だな」
玲一が皮肉交じりに言う。どうやら二人は親しい間柄らしい。男は紫苑に向き直って礼儀正しく名刺を差し出した。
「どうも初めまして。警視庁捜査一課の多部です」
紫苑はぽかんとして名刺を受けとった。
捜査一課?刑事?本物?
「えっ所長、刑事さんと友達なんですか?」
紫苑が玲一を振り向くと、多部が訂正をする。
「友達ってわけじゃない。元同僚だよ」
紫苑はコーヒーカップを多部の前に差し出した。
「おっいい香りだな?豆は例のキリマンジャロ産かな?」
多部は嬉しそうにカップを口元へ運んだ。
紫苑は緊張しながら多部と玲一を見比べた。刑事と会うなんて、母の自殺以来だ。あのぞんざいな態度が嫌でも思い出される。でも、目の前にいる刑事はいい人そうだ。
それにしても、玲一が元刑事だったという話は本当だったのだ。紫苑は多部から貰った名刺をしげしげと見つめた。涼しい顔をして横にいる玲一を思わず睨みそうになった。後で話を聞かなくては。
「それにしても、なんだって十年前の児童行方不明事件を調べてるんだ。あれは迷宮入りになってるんだぞ」
多部が早速本題を切り出した。
「有力な証言があるんだ」
玲一が両手を組んで多部を見据えた。
有力な証言―それは流伽の言う女の子の霊だ。しかし、刑事相手にそんな理屈が通用するはずがない。
「ふうん。証言ねえ……」
多部はコーヒーカップを回しながら呟いた。
「ま、そういうことか。わかったよ」
多部は玲一を言葉をどう解釈したのだろうか。紫苑は疑問に思ったが、口には出せない。玲一は質問をした。
「行方不明の男子児童には姉がいたんだろ?」
「ああ。ひとつ違いのな」
やっぱり、流伽の予想は当たっていた。
「姉と弟は別々の寝室で寝ていたから、弟が家を抜け出したかどうかもわからなかったらしい」
「真っ先に家族が疑われただろうな」
「ああ」
多部はコーヒーカップをテーブルに置き、眉を寄せた。
「父親も母親もアリバイがなかった。だけど、父親が区議会議員で母親も会社経営者だったからな。誘拐の可能性も疑われた。しかし、犯行声明は一切なし。怨恨の線もあったがこれといった証拠もなし」
「弟が家を抜け出していたっていう物証はあるのか?」
「それが、ないんだ。当時、防犯カメラは商店街やコンビニ、スーパーにしか取り付けられていなかった。それらの通りを避けていくとしたら、場所はせいぜい公園か、学校か、近所の林だ。警察はもちろんしらみつぶしに探したさ。けど、見つけられなかった」
「男の子の性格は?」
「大人しく、よく親の言うことを聞くいい子だそうだ。だから、夜中に黙って外に出ることは考えられないと周囲の人は言っていたそうだ」
まさに神隠しだ。こんな事件がたった十年前に起こり、未だ未解決なんて。紫苑は身震いがした。
「警察は、もう捜査してないんですよね」
紫苑が遠慮がち口を開いた。
「ああ。不満に思うかもしれないが、警察の予算も限られているんでね。これ以上証拠の出ない事件を漁るより、目の前の事件に人員を割きたい。こういう風にして未解決になっている事件が、日本には山ほどあるよ。他の児童行方不明事件も然りね」
多部は仕方ない、というように肩をすくめた。確かに、紫苑が知らないだけで、眞くんの他にも行方がわからないまま何十年も過ぎている子供がいるのだ。紫苑は家族の気持ちを想うといたたまれなくなった。
玲一は質問を続けた。
「今、その家族はどこにいるんだ?」
「姉は事件後、アメリカの学校に転入したらしい。父親の職業のこともあり、何かとマスコミも騒がしくてね」
その時、玲一の携帯が鳴った。玲一は席離れ、小声で話し始める。紫苑はその隙を見計らって多部に尋ねた。
「あの、所長が刑事だったって本当ですか?」
「本当だよ。しかも、東大卒のキャリア組で、俺たち同期の中でも一番の出世頭だったんだ。あのなりでさ。ヤなヤツだろ?」
多部はがははと豪快に笑った。東大?その話も初めて聞いた。所長はやっぱりわからないことだらけだ。紫苑は思わず身を乗り出した。
「だって、前に調査でそれらしいことを言ってたんですけど、すぐに嘘だって否定したんですよ」
「いかにもあいつらしいな。昔っから天の邪鬼みたいなところがあるんだよ」
多部は面白そうに言う。そこで紫苑はこっそりと聞いてみた。
「所長が警視庁を辞めた理由って何だったんですか?…やっぱり、何かやらかしたんですか?」
多部は一瞬の間を置いて肩を震わせてわらった。
「やらかしたか!まあ、そういうことかもな」
含みのある言い方に、さらに紫苑の興味が掻き立てられる。更に紫苑が尋ねようと思ったときに、電話を終えた玲一が遮るように言った。
「被害者家族と連絡が取れた。紫苑くん、明日付き合ってもらうぞ」
翌週、紫苑はベージュ色の地味なスーツを来てとある住宅街に来ていた。ポケットの中にある名刺には、全国犯罪被害者支援の会 幹事福田菜緒と記されてある。身分詐称をするのは初めてではないが、さすがにこれは気が引ける。
「本当にうまく行くんでしょうか…何というか、その、ボロが出なきゃいいんですけど」
紫苑は二年前強盗殺人で兄を失くした被害者遺族という設定だ。
「なに、紫苑くんなら大丈夫だろう。なんせ、実際に母親を亡くしている」
「……所長って、こういう時デリカシーないですよね」
紫苑はため息まじりに玲一を横目で見た。いつものグレースーツを着ているが、やはりスタイルがいいため様になっている。この人が元刑事だなんて。人は見かけによらないのか。紫苑は改めて思った。
「どうした紫苑くん」
「何でもないです。さ、早く眞くんのお父さんとお母さんに会いに行きましょう」
大西夫婦が住まう家は東京の高級住宅街とされる一帯にあった。どっしりとした門構えで、塀の上には監視カメラがついている。人目見るだけで防犯システムは万全だということがわかる。紫苑は見ているだけで息苦しくなるような家だと思った。
インターフォンを鳴らすと、中から家政婦らしき中年女性が出て来て玲一達を案内した。二人が通された部屋は天上が高く広々としていて、地味だがしつらえのしっかりとした家具が並んでいた。
紫苑は表彰状がたくさん壁に掛けられている居間を見渡した。革張りのソファーは固く何となく落ち着かない。
湯呑で緑茶をすすっていると、奥の扉から夫婦が連れだって現れた。これから出かける予定でもあるのか、二人ともスーツ姿で夫人に至っては髪の毛もセットされている。
「お忙しいところお時間を頂きありがとうございます」
玲一は早速得意の営業スマイルで二人に挨拶をした。そして全国犯罪被害者支援の会のパンフレットを並べ、二人に説明をする。
「今回、我々の組織は設立十年という節目を迎えます。そこで、改めて如何に犯罪被害者の人権やプライバシーが軽視されて来たかという現状を、世間に対し訴えようと考えています。特に大西さんご夫婦の場合は、ご子息の事件以降、職業柄大変だったでしょう。その生の体験談を、是非ともお聞かせ頂きたいのです」
そう言って玲一は気遣うように夫婦の顔を相互に見比べた。先に口を開いたのは夫の大西雄一郎だった。
「ええ、私たちは眞が行方不明になってから、世間から身を隠さざる得ない状況に陥りました。特に事件当初は誘拐の可能性も取りざたされ、挙句の果てには両親の仕事柄、恨みを買われたのだろうとか、親のトラブルに巻き込まれた子どもが可哀想だとか、マスコミにはあることないこと書かれました」
雄一郎は疲れ切ったような声色で話した。今でも現役の区議会議員だけあって、小声でもよく通る。
「私も、当時は専業主婦を辞めて父の会社を継いだ直後でしたから、正直言って子どもの面倒をきちんと見れていたか自信がありません。けど、マスコミは鬼の首を取ったように母親の怠慢が原因だのと攻撃して来ました」
妻の歩美もハンカチを握り締めながら夫に続いた。
その後も自分達が事件後いかに報道の自由に悩まされて来たのかという話を、玲一と紫苑は夫婦から聞かされた。聞いている内に、紫苑は違和感を覚えた。息子を失った悲しみというより、夫婦の中にあるものは事件をきっかに二人が被った被害に対する怒りだ。それはそれで気持ちはわかるが、子どもを失う悲しみに勝るものがこの世にあるのだろうか?夫婦の口からは、今だ行方不明の息子を案じる言葉は出なかった。
一通り話を聞き終えたところで、玲一が切り出した。
「ところで、差し支えなければ眞くんのお姉さんにもお話を聞きたいのですが」
玲一が何も知らないふりをして尋ねる。
「姉は今、アメリカに住んでいるんです」
歩美が間髪入れずに答えた。
「ほう。それは、やはり日本にいると何かと騒がしいからで?」
「ええ、それもありますけど、やはりアメリカで教育を受けさせた方が本人の為にもなると判断したんです」
「お姉さんは、今二十歳ですよね?大学もアメリカですか?」
「ええ、その予定です」
「今はアメリカでも夏休みの期間ですよね。日本には帰って来ないのですか?」
「はい、ずっとアメリカにいる予定です。あっちで勉強したいことがあるとかで」
歩美はそう言ってお茶をすすった。雄一郎は腕時計を見ると、腰を浮かせた。
「申し訳ない、そろそろ外出しなければ。これから二人とも仕事でして」
「ああ、そうでしたか。お忙しい中、すみませんね」
玲一は愛想よく答えると、いつの間にかに家政婦が居間に来ていて二人を玄関まで先導した。
門の手前まで来ると、玲一は振り返り夫婦に礼を言った後、こう付け加えた。
「これからお仕事とは。休日なのに、大変ですね」
「ええ、まあ」
雄一郎は何となく苦い顔をして短く答えた。
大西邸を出た後、紫苑は額の汗を拭きながら玲一を見上げた。
「ふう。何とか怪しまれずに済みましたね。で、収穫はあったんですか?」
玲一はにやりと笑った。
「ある。あの夫婦は隠し事をしている」
「えっどういう事ですか?」
紫苑は一瞬で考えを巡らせた。息子の行方不明事件について触れない夫婦。もしかしたら……
「もしかしてあのご両親が、事件の犯人ですか?」
「それはいくらなんでも飛躍し過ぎだ」
玲一にあっさり否定され、紫苑はがっくりした。
「姉のことだよ。大西茜は、現在日本に滞在している」
いつの間にかにそんなことを調べていたのか。紫苑は玲一に詰め寄った。
「じゃあ、日本にいないって嘘をついていたわけですね。でもどうして?」
「姉が日本にいることを知られれば、私達が姉にも話を聞きに行こうとするだろう。ご両親は、それを止めたかったんだよ」
う~ん、と紫苑はしばし考え込んだ。
「お姉さんのことは、そっとしておいてあげたかったんじゃないですか?本人としても、未だにトラウマが残っている可能性もあるわけですし……」
「だったら嘘なんてつかずに、正直に言えばいい。我々は全国犯罪被害者支援の会の一員だぞ。マスコミとは違う。嘘までつくってことは、後ろめたいことがあるはずだ」
玲一はそう言って携帯を取り出した。
「……思ったより早かったな」
「何がですか?」
紫苑が尋ねると、玲一は渡ろうとしていた横断歩道に背を向け、反対方向へ歩き出した。
「姉の居場所が分かった。案の定、病院に表れたよ」
「病院?」
紫苑はわけもわからず、玲一の後を慌てて追った。
二人はタクシーで大学病院の前へ来た。大島総合病院と記された看板を見上げ、紫苑はため息をついた。タクシーの中で玲一に明かされた話が頭の中に渦巻く。
「お姉さんは、祖母の危篤を聞きつけてアメリカから日本に帰ってきたということですか。でも、どうして今までアメリカにずっと住んでたんでしょうか?」
玲一の情報によると、大西眞の姉である茜は眞とひとつ違いだった。ここ十年間、姉の茜は正月でさえも日本に帰省することはなかったらしい。
「もう事件から十年も経ったわけだし、マスコミのほとぼりも覚めてますよね。それにまだ学生なんだし、いくら勉強で忙しいからって日本に帰れないほどではないと思うんですけど」
「そこなんだよ紫苑くん」
玲一は人差し指を突き出した。
「そこに事件の真相が隠されている。今から姉に直接問いただすぞ」
病院の受付にいる看護師に玲一が話しかけると、若い女性看護師がにこやかに応対した。二人の雰囲気から、どうやら顔見知りの間柄らしい。しばらくすると、玲一が紫苑の元へ戻って来た。
「ちょうど二十分前に大西茜が祖母の面かいをしに病院を訪れているらしい。805号室だ」
「……どうしてそんな情報、あっさり入手できるんですか?」
先ほど玲一の携帯にあった着信も、あの看護師によるものなのではないか。そもそも、そんな個人情報を外部に漏らしてしまっていいのだろうか。
「あの看護師とは、刑事時代にちょっとした繋がりがあってね」
玲一はそう言って紫苑の追及をかわした。
エレベーターで四階まで上がり、リノリウムの床を進みながら805号室の前にたどり着いた。そこだけ部屋のナンバープレートが見当たらない。どうやら、ここは個室病室らしい。さすが、区議会議員の親だけあるな、と紫苑は思った。
玲一は紫苑が止める間もなくノックもせずに扉を開けた。
「失礼。大西さんの病室はこちらかな?」
上品なクリーム色で統一された室内の奥には、一台のベットがある。そこには骨と皮ばかりになった老人が寝かされていた。そのそばの椅子に腰かけていたであろう人物が玲一の姿を認めると、すくっと立ち上がった。
「どなたですか?」
何となく剣呑な言い方である。紫苑は思わず「スミマセン」と頭を下げた。
「君が大西茜さんだね」
玲一はその人物の目の前にやって来た。
「そうですけど……」
大西茜は、まるで玲一の視線から逃れるように後ずさった。ほっそりとした女性だ。青白い顔に長い髪の毛。この暑い中、タートルネックに長袖のワンピースを着ている。
「突然お邪魔して申し訳ない。実は我々はこういう者でして」
玲一はそう言って全国犯罪被害者支援の会の名刺を差し出した。そして、先ほど大西夫妻に会って来た経緯を説明する。
「この場所は、ご両親から伺ったんです。ちょうど今日本に眞くんのお姉さんが滞在しているので、是非当時のお話をお聞かせ願いたいと思いましてね」
玲一が嘘八百を茜に吹き込む。しかし茜は信じたようだ。
「はあ、そうだったんですか……」
茜は帰国子女らしい明瞭な発音をしている。
「でも、なんで父と母はそんなことを……こんな話聞いてないのに」
その戸惑いは玲一ではなく両親に向けて発せられているようだ。そしてベットに寝ている老人を見やった。老人の鼻や口、腕からはチューブが取り付けられている。人目見るだけで、傍にある機械のおかげで命を繋いでいることは明瞭だった。紫苑はこの病院が末期がんの患者のホスピスも兼ねている施設だということを思い出した。
「どこか違う場所で話しませんか」
大西茜は小声で二人に提案した。まるで老人に聞かされたくない話をするように。玲一は静かに頷いた。
大西茜は病院の中庭を選んだ。綺麗に芝生が切り揃えられており、日陰になっているのでいくらか涼しい。大西茜は隅にあるベンチへ腰かけた。
「それで、どういったことをお聞きしたいんですか」
茜は改めて玲一に尋ねた。外で見ると病的な肌の白さが一層際立つ。事件当時十歳だということは、今は二十歳か。病室にいるときには気づかなかったが、女性にしてはかなり背が高い。おまけにほっそりとしていて、まるでモデルのようだ。
「大したことじゃありませんよ。私の推測が正しいことを、あなたに証明してもらいたいのです?」
「推測?」
茜は眉を寄せた。一層深くなった眉間の切れ込みのせいで、老けて見える。
「あなたが大西眞さんであるということを」
紫苑は息を呑んだ。同時に大西茜も目を見開き、言葉を失っている。数秒置いて、ようやく口を開いた。
「何を言ってるんですか?」
「いや、私も実際あなたにお会いするまでは半信半疑でした。しかし、実物を見てようやく確信しましたよ」
玲一はじっと茜を見据えた。まるで射るような目つきだった。
「大西眞くん行方不明事件は不可解なことが多い。なにせ手がかりが少なすぎる。これは、誰かが事実を隠蔽していると思いました。何分、元刑事なもので気になってしまいましてね」
大西茜は唇を震わせながら、玲一を睨んでいる。
「眞は十年前の夜に家から居なくなったんです。本当です」
「ええ、ある意味本当のことだと思いますよ」
玲一は遮るように言った。
「九歳の子どもが計画的に夜中に家を抜け出そうと思ったとき、普通は寝巻から普段着に着替えようとするはずです。パジャマ姿で外をうろうろするなんて、夏とはいえおかしすぎる。それを想定して眞くんの部屋にある衣類を確認して、無くなっている服があればそれを行方不明時に着用していた衣服として公開するべきです。だけど、ご両親はそれをなさらなかった」
玲一の指摘を聞き、紫苑は思い出した。確か、警察が公開した大西眞くんの情報には「きかんしゃトーマス」のパジャマを着ている、とあった。
「弟は、パジャマ姿のまま失踪したんですよ」
茜が吐き捨てるように言った。
「ですが、実際にそのパジャマを着ている姿は確認されていない。ご家族を覗けばね」
「弟の部屋から、パジャマが無くなっていたんです」
「本当に無くなっていたかどうかはわかりません。家族によって隠蔽されてしまえばそれまでです」
「何なんですか、あなたは!私が事件の犯人だとでも言うんですか!」
大西茜は激昂して立ち上がった。顔面はますます蒼白にり、髪は乱れ顔に降りかかっている。
紫苑は改めて大西茜―いや、大西眞を見た。顔立ちや身体つき、声、どこからどう見ても女性である。彼が十年前に行方不明となった少年だなんて。姉と弟は、事件をきっかけに入れ替わっていたのだ。無論、大西夫婦も知っていたのだ。では、大西茜は一体どこにいるのだろう?そこまで考えて、紫苑はふとある可能性を思いついた。
「いえ、そうではありません。あなたに関するいくつかの情報を繋ぎ合わせて、推測しているだけです。大西さん、あなた、アメリカでホルモン治療を受けていますね?」
玲一は静かに尋ねた。大西茜はその場で棒立ちになったまま、玲一を見下ろしている。
「そして、八歳から十年間、歯や眼の治療もすべてアメリカの医療機関を利用している。アメリカの医療保険って、高いんでしょう?日本に戻って国民健康保険で受信する方が、飛行機代を差し引いても安くすむはずだ。だが、あなたにはそれが出来ない。なぜなら戸籍が女性でも身体が男性であることがバレてしまうから。違いますか?」
大西眞は崩れ落ちるようにベンチへ座り込んだ。
「初めから分かっていたんですね……」
諦めるような口調で、力なく呟いた。
「どうしてわかったんですか?」
眞の問いに、玲一は答えず腕を組んで言った。
「それはまた後でお話しましょう。私が知りたいのは、十年前、あなた方ご家族に何があったかです」
眞は項垂れたまま、事件当夜の詳細を話し始めた。
物心ついた頃から、女の子になりたかったんだと眞は話した。
「ずっと自分の性に違和感を持ってました。外で遊ぶより女の子とおままごとをして遊ぶ方が楽しかったし、自分も姉のようにフリルのついたスカートや可愛らしいリボンをつけたかった。水泳の授業では他の男の子と同じように上半身裸にならなきゃいけないのが凄く嫌でした」
幼い頃の眞は、いつか自分も大人になったら女の子のようになれる、と信じて疑わなかったのだという。きっとそのうちペニスは消えて胸が大きくなれるのだと。しかし、彼の思いは父親によって打ち砕かれた。
「父は、ずっと男の子を望んでいました。自分のようにたくましく、強い男の子を。だから、ひ弱な上に女になりたがる私のことがどうしても許せなかったんです。
ある日、こっそり姉のスカートを履いて鏡の前に立つ眞を見つけた父親は、彼を殴りつけたのだと言う。
「それから、私が少しでも女らしい言動をすると殴られるようになりました。自分が男であることを自覚出来るようにって、あえて裸でいなきゃいけないスイミングスクールに通わされたんです」
同じころ、姉の茜も水泳を習いたいと言い出した。
「両親は、姉にはとっても甘かったんです。女の子だからって、いつも大事にされて、欲しいものは何でも買ってもらえて。堂々と髪も伸ばせて可愛い服を着せてもらえる姉が、本当に羨ましくて堪りませんでした」
そんな中、二〇〇七年八月五日の夜がやって来た。
宿題を終え、寝る仕度をしていた眞の元へ、茜がやって来た。なぜかパジャマから赤いキュロットスカートに着替えている。
「ねえ、これから学校に行って肝試ししない?」
茜は内緒話をするように言った。
茜は昔から行動的でたまに突拍子もないことをやってのける。姉のそういう部分が眞には羨ましかった。眞はこんな夜中に家を抜け出すなんて考えられなかったが、断ると意気地ないと言われるのが嫌で渋々姉の言うとおりに従った。パジャマから普段着のTシャツとカーゴパンツに着替え、居間にいる両親に見つからないよう外に出た。
「姉は私を驚かせようと、わざと人気のない場所を選んで学校へ向かいました」
茜は用意周到にも懐中電灯まで持っていた。
「その時、私に計画を話してくれました。あの当時学校で流行っていた七不思議を試そうとしたんです。大島小学校のプールの底には、昔溺れて死んでしまった女の子の霊が住み着いてるという噂がありました。その女の子は、深夜0時になるとプールの表面に浮かび上がっていくらしいんです」
―長い髪の毛が水面にばさーっと広がって、水ぶくれで皮膚がぶよぶよになって目玉が飛び出している女の子の死体が浮かんでくるんだよぉ。
茜は怖がる弟の反応を楽しむかのように怪談噺を聞かせた。眞はこの時点でもう家に帰りたかったが、後で姉から弱虫だとけなされるのが嫌で我慢していた。
―0時になってから、プールサイドを三階反時計周りにぐるっと回るの。そして、プールに向かってお~い、お~い、こっちだよ~って呼びかけるの。そうすると、女の子は助けが来たと思って水面に浮かんでくるの。でね、ここで絶対に守らなきゃいけないことがあるの。0時になってからプールサイドの周りを歩き始めたら、絶対に止まっちゃいけない。止まったら最後、その女の子にプールの底へ引き摺り込まれちゃうから!
茜は懐中電灯を自分の顔に照らし、凄みながら言い放った。眞が顔を引きつらせると、あはは、と楽しそうにスキップしながら、大島小学校の門をくぐり校庭へと駆け出した。眞は姉に置いてけぼりにされないよう、必死で後を追った。
大島小学校のプールは野外の高台にあり、周りをフェンスで囲まれている。普段は施錠されている学校のプールだが、茜は一体どこで見つけてきたのか、金網のフェンスが破れている個所から器用に身体を滑り込ませた。眞も姉の後に続き、二人はプールに潜入した。夏休みの間は使用禁止となっているので表面に木の枝や虫などのゴミが浮いていた。それがあたかも女の子の長い髪の毛のように思えて、眞は恐ろしかった。プールの背後には森があり、その黒いシルエットが今にも自分の方へ迫って来そうである。
茜は懐中電灯で辺りを照らしながら、腕時計を見た。
―あともう少しで0時だね。
しばらしくして、姉の掛け声とともに眞はプールサイドを歩き始めた。この時点でもう膝は震えていた。前を歩く姉の背中にだけ神経を集中させる。
一週目、二週目……
眞は早く終わればいいと祈りながら、足を奮い立たせていた。だが、茜はわざとなのか、やたらゆっくりとした歩調でのろのろと歩いている。
その時、森の方から突風が吹き荒れた。木々はざわざわと音を立て、プールの水はさざなみを打つ。その様子は、まるで女の子が水面へ浮かんでくるようだったと眞は話した。
「その時、私は女の子が悪ふざけをする私達を怒っているのだと思いました」
眞はもう限界であった。
姉との約束を破り、一目散でその場から逃げ出した。金網のフェンスをくぐり抜けた際に腕や足がひっかかり、鋭い痛みが走ったが、それも気にならなかった。無我夢中で走る最中、背後で姉の叫び声が聞こえた。だが、それでも震える足は止まらなかった。全速力で校庭を突っ切り、門の前まで来た。
そこでふと我に返った。息が切れ、ぜいぜいと苦しい。
姉を残して来てしまった。今さらながら、罪悪感が胸に迫ってくる。プールサイドを三周しなければいけないのに。途中で止めたら、女の子が水面から出てきて引き摺り込まれてしまうのに。
しばらく待っても、姉は一向に自分を追って来なかった。風も止み、静かで不気味な空気が校庭を覆っている。
眞は意を決して姉を探しに元来た道を戻ることにした。姉はどこに行ってしまったのだろう。もしかしたら、プールの底に沈みこんでいるのではないか。そんな不安ではち切れそうになりながら、そろりそろりと足を進める。
眞はプールへと続くコンクリートの階段の下に、姉はいた。一番下の段に頭をもたれかけるように、寝そべっている。目は大きく開いていた。
初めは、姉がまた死んだふりをしてふざけているのだと思った。だが、身体をゆすっても頬を叩いても、姉は一向に起きなかった。
「姉は、そこで死んでいました」
今思えば、弟を追って慌てて階段を下りるうちに、足を滑らせて転んだ拍子に頭を打ってしまったのだろう。しかし、当時の眞はそう思わなかった。
「自分が、姉を殺したのだと思いました」
自分がプールサイドを三周回らなかったから、姉は死んでしまったのだ。きっと、これはプールの底に沈んでいる女の子の呪いだ。
取返しのつかないことをしてしまったという思いがこみ上げる。眞はどうしていいかわからず途方に暮れた。一体、いつまでそこに佇んでいただろうか。姉の死体を見下ろしながら、ただただ泣いていた。
両親は自分よりも姉を愛している。姉が死んだと分かれば、きっと深く悲しむだろう。こんなことになるんだったら、姉じゃなくて自分が死ねばよかったのに。
そこでふと、眞の脳裏にある考えが浮かんだ。
「思えば、あの時の私はどうかしてました。異常な状況かの中、普通の思考ではなかったんです」
自分が姉と入れ替わればいい。今ここで死んでいるのは眞なのだ。幸いにも、自分の顔立ちは姉とよく似ている。服を交換して、姉そっくりに立ち振る舞えば両親にもばれることはないだろう。
現実逃避からなる、一種の麻薬のようなものが、自分の脳内に溢れてきたと眞は言った。
「目の前にある姉の死体も、今の状況も、何もかもが非現実的でした。まるで違う世界に迷い込んだかのように、意識が陶酔していたんです」
眞は姉が着ていた赤のキュロットスカートを脱がし始めた。そして、自分が着ていたボーダー柄のTシャツとカーゴパンツを姉に着せ、自分はキュロットスカートに着替えた。姉の後頭部から流れる血が眞の手や膝を汚したが、眞は気にならなかった。ようやくこれで堂々と女の恰好が出来ることに興奮し、喜びを感じていた。
女になりたいという願望を抑圧されて来た眞の思考は歪んでいた。姉の死を悲しむよりも、女として生まれ変われることに夢中になっていた。
こうして眞は姉の姿になり替わると、その場を離れ学校を後にした。両親が寝静まる家にこっそりと帰り、姉の部屋へたどり着いた。明日になれば、眞の姿がいないことに気づいた両親が辺りを探し回るだろう。そして、プールへと続く階段の下で冷たくなった眞を発見するはずだ。眞は男として葬られるが、自分は茜として女の人生を歩むことが出来る。そう思うと、興奮して目が冴えた。
しかし、物音に気付いた母親が茜の部屋へ様子を見に行った。
―茜、こんな夜中まで起きてちゃ駄目でしょ。
母親は灯りが漏れる茜の部屋のドアを開けた。そして、目の前の光景に叫び声を上げる。眞が茜の恰好をして、血だらけのまま立ち尽くしていたのだ。
眞は茜に化けられたと信じ込んでいるが、両親の目を誤魔化すことなど出来ない。母親は眞に茜の行方を問いただした。
―私は茜だよ。眞じゃない。それに、眞はもう死んだの。
眞はまるで憑りつかれたようにその言葉を繰り返した。母は父を起こし、部屋に読んだ。眞の身体を仔細に調べても、どこにも怪我をしている様子はない。では、この血は一体誰の血なのだろう?
―眞は、私のせいで死んだの。
眞は申し訳なさそうに言った。
―私が眞の事を裏切って逃げ出したから、眞は階段から落ちて死んじゃった。私が眞を殺したの。
両親は真意を確かめるために、学校へ向かった。そこには、眞の証言通り、変わり果てた茜の姿があった。
半狂乱になりながら、母は冷たくなった茜の身体にしがみついた。しかし、父の頭は一連の出来事を冷静に見ていた。
弟の眞が、姉を殺したのだ。
眞は女で自分よりも優秀な茜を妬むあまり、階段から突き落として死なせたのではないだろうか。コンクリートの壁には眞のものと思われる血の手形があり、茜の身体は無理やり服を着替えさせられたせいで奇妙な姿勢になっている。もし警察が来たら、この状況をどう思うだろうか。眞が自分が姉を殺したと証言してしまったら?ただの事故死だと片付けてはくれないだろう。それ以前に、男なのに女の恰好をする眞が、世間からどう見られるか……。あの子は完全に気が狂ってしまっている。
雄一郎はすすり泣く母の肩に手を置いた。
―茜の死体を隠そう。
そして、両親は娘の死の真相を闇に葬る為、茜の死体をプールの裏手にある森の中へ埋めた。血で染まったコンクリートは近くの水道からホースを伸ばしてきて洗い流した。夜が明ける前に夫婦は黙々と作業をした。母は最初父を罵っていたが、やがて現実が見えて来たのか素直に従うことにした。二人は何としてでも、息子を殺人犯にしたくはなかったのである。そして、雄一郎はある考えを歩美に提案した。
そして朝になってから眞が家にいないと警察に捜索願を出した。
こうして眞は、両親から女として生きることを認められたのである。
話し終えた眞は、両手を握り締めたまま固く唇を結んだ。
「事件当初は、私はただただ嬉しかった。自分の計画通りに両親は私を茜として扱ってくれて、眞は世間からいないものとされたことが。だけど、大人になるにつれて自分達家族がどれだけ狂っているのか、だんだんわかるようになって来ました。だけど、両親に改めて事件のことを問いただす勇気がありませんでした。今でも両親からは、たくさんの援助をしてもらっています。アメリカでの生活費用や、女性ホルモンの投与にかかる医療費も、出してもらっています。私にはそれが、まるで口止め料のように思えるのです。もう、私は両親から愛される価値のない子どもになりました。両親は私を遠ざけるようにアメリカの寄宿学校へ送り、年に数回しか会ってくれません」
眞の告白を、紫苑は信じられない気持ちで聞いていた。確かに、眞の常軌を逸した言動は理解出来ない。だが、眞の歪んだ変身願望を生み出したのは両親のせいでもあるのだ。
「……何よりも悲しいのは、両親は私が姉を殺したと今でも信じ込んでいることです。お話した通り、姉は不幸な事故で亡くなりました。決して私は故意に姉を殺してなんかない。だけど、もう今となっては誰も信じてもらえないでしょうね……」
その時、三人に元に二つの人影が迫って来た。大西夫妻が目を丸くして眞と玲一を見ている。
「どうしてここがわかったんですか?」
怒りの形相で雄一郎は玲一に詰め寄った。だが玲一はひるむ様子はなく、涼しい顔でさらりと答えた。
「お姉さんがアメリカにいるなんて話は、嘘だったんですねえ。そんなに私達を合わせたくなかったんですか」
歩美は雄一郎の後ろで震えている。
「……茜、あなた、この人に何か喋ったの?」
だが眞は無言のまま俯いたままだ。
「答えろ、茜。私たちも十年前の出来事を蒸し返されたくないんだ!」
堪らずに、紫苑は眞と雄一郎の間に割って入った。
「そんな剣幕で怒鳴らなくてもいいじゃないですか。ちょっとは息子さんの話も聞いてあげましょうよ」
紫苑の言葉は火の油を注いだようだ。雄一郎は紫苑を押しのけて眞につかみかかるような勢いで詰め寄った。
「お前、全部話したのか!」
眞は肩をびくりとさせ、上目遣いに父親を見た。
「俺たちがこの十年間、どんな思いでお前のことを守って来たと思ってるんだ!」
「そっちこそ、なんなんですか、その言い方!」
紫苑が負けじと対抗する。
「そもそも、息子さんがお姉さんと代わりたいとここまで追い詰められたのは、お父さんが厳しすぎるせいじゃないですか!」
雄一郎はぎろりと紫苑を睨みつけた。
「さっきから、人の家族間の問題に口出しやがって……あんたがたは知らないんだろうな!犯罪者の家族が世間からどのような目で見られるか!」
両手を広げ、唾を飛ばしながら雄一郎は激昂した。
「息子が実の姉を殺めたと知られれば、私も妻も職を失う!息子と一緒に、一生世間から後ろ指を指されて生きていくんだ!そんなことになって堪るか!」
紫苑は怒りを通り越して悲しくなった。この親は、息子を守る為と言いながら結局は自分達が一番かわいいのだ。
「まあまあ落ち着いてくださいよ。ご両親はあたかも息子さんが本当にお姉さんを殺害したかのように話していますが、実際は違います。そうでしょう?」
玲一は眞を振り返った。
「せっかく日本に帰って来たんだ。ここでご両親に、あの日あった本当のことを話してみるべきじゃないですか」
玲一に促され、ずっと俯いていた眞はそろそろと顔を上げた。目には涙をためている。
「お父さん、お母さん、今まで一度も私の話を聞いてくれなかったね……。心の中では、ずっと寂しかったの。どうしてあの時、私がお姉ちゃんを殺したんだって信じたの?お前はそんなことをするはずないって、本当は言ってほしかった……」
そう言って、堰を切るように眞は真実を話し始めた。学校の七不思議を試している時に、怖気づいた自分が逃げてしまい、姉はそんな自分の後を追って階段から転落してしまったこと。そして、自分が女になりたいと渇望するばかりに、死んだ姉になり替わろうとしたこと。
「本当にごめんなさい……私のせいでお姉ちゃんが死んだことには変わりはないの。けど、もうずっとお姉ちゃんのふりをして生きるの、疲れたよ。それに、お姉ちゃんのこと、ちゃんと埋葬してあげたい。ちゃんと謝りたい……」
眞は両手で顔を覆い、肩を震わせてしゃくりあげた。
雄一郎と歩美は、そんな息子の姿を呆然として見つめている。玲一がおもむろに切り出した。
「真実を警察に話すかどうかは、あなた方次第です。なんせ、お父さんのおっしゃる通り、この事件は家族間の問題ですからね。ですが、お嬢さんの遺体は早めに掘り起こさないと手遅れになりますよ。十年前にプールの裏手にある森だった場所は、今新校舎を建設するために工事中になっていますからね」
そこで紫苑はあっと思った。流伽が最初に女の子の霊に出会った場所。あそここそ、大西茜が両親の手によって埋められた場所だったのだ。茜は、自分の死体が永遠に見つからなくなってしまうことを察した。だから、流伽の前に姿を現したのだ。
両親と弟によって、存在をねつ造されてしまった少女のことを想い、紫苑は胸が苦しくなった。
歩美は涙を流しながら、息子の元へ駆け寄った。
「……ごめんね、ごめんね……」
言葉にならない思いを吐き出すように、眞の肩を抱きしめる。雄一郎は、唇を固く結んだまま微動だにしなかった。
「さて紫苑くん。学校を彷徨う女の子の正体もわかったことだし、依頼人に報告するとしよう」
玲一が紫苑を振り返り小声で言った。
「え、でも……」
「ここから先はあの家族の問題だ。死体遺棄罪の時効はもうとっくに過ぎている。誰も彼らを裁けない」
そう言って玲一は紫苑を促した。
「これからどうするかは、彼ら次第だな」
紫苑は病院の中庭を後にする際、もう一度家族を振り返った。雄一郎は項垂れて眞の肩に手を置いていた。彼らは、十年前の悲劇ともう一度向き合うようになれるのかもしれない、と紫苑は思った。
玲一からの連絡を受け、流伽は息を弾ませながら事務所に駆けつけた。
「やっぱり、僕の勘は正しかったんだね!女の子はきっと、学校内で死んでしまった霊だと思ったんだよ」
コーヒーを飲みながら、嬉しそうに言う流伽を紫苑は微笑ましく思った。
「けど、流伽くんは本当に茜ちゃんの霊を見てたんだね。服装も、亡くなった時に来ていたものと同じだったし」
紫苑は未だに信じられずにいた。流伽はたまたまどこかで大西茜の写真を見て、その女の子の霊が自分に付きまとっていると信じ込んでいたのではないかと、半ば強引な推理をしている。
「当たり前でしょ。僕らは霊の姿が見えるんだよ。お姉ちゃん、そんなことも信じないでどうしてここで働いているの?」
流伽は不思議そうに紫苑に向かって首を傾げる。紫苑はなぜかいたたまれない気持ちになった。
「それは、今までの心霊現象の依頼が全部勘違いや思いこみによるものだったからだよ。ガチで心霊っぽい依頼なんて、今回が初めてだし」
紫苑は玲一に向き直って尋ねた。
「どうして所長は眞さんが茜さんと入れ替わってるとわかったんですか?」
「なぜそんなことを今更聞く?」
玲一はコーヒーをうまそうに飲みながら答えた。
「少年が学校で女の子の霊を見たと言ったじゃないか。だが、十年前に行方不明になっているのは男の子だ。つまり、誰かが事件をねつ造している。ねつ造出来るのは、もちろん家族しかない。だから、家族の身辺調査を徹底的にやったまでだ」
流伽の証言を絶対だと信じない限り、出来ない推理だ。紫苑は玲一という人間がわからなくなった。子どもが霊が見えると騒いだところで、真に受ける大人などいない。もしかしたら、流伽の言うように玲一も本当は霊が見えているのではないだろうか?
「これでお母さんにも事件が解決したって報告出来るよ」
流伽は弾んだ声で言った。
「でもさ、あの家族が女の子の死体を埋めたこと、ちゃんと警察に言うかなあ?」
紫苑は立ち去る間際に見た家族の様子を思い出した。
「きっと、大丈夫だと思うよ。ちゃんと、茜ちゃんのことを供養してくれると思う」
後日、新聞の見出しに踊っている文章を見て、紫苑は鏡探偵事務所に駆け込んだ。
「所長!大西茜ちゃんの事件のことが書かれてます!」
記事によると、大島区議会議員の大西雄一郎は、当時十歳だった大西茜ちゃんの遺体を大島小学校の裏庭に埋めたと証言した。息子が姉を殺害したと思いこみ、証拠隠滅のために犯行に及んだという。
時効が成立している為、罪には問われないが、法律を犯したことには違いない。大西雄一郎は、今月いっぱいで区議会議員を辞職するのだという。茜ちゃんの遺体の捜索が始まり、学校の工事現場を掘り返すと、そこには白骨化した女児の遺体が見つかった。
「これでようやく、茜ちゃんの霊は報われますね」
紫苑はほっと息をついた。きっと、流伽もこのニュースを見て喜んでいるに違いない。
「大西眞くんは、これから先どうなっちゃうんでしょうか?もう大西茜ではいられないわけだし、男として生きていくことになりますよね」
玲一は新聞を畳みながら言った。
「今後については本人から聞くことにしよう。紫苑くん、今から大島病院まで一緒に行かないか?」
「えっ?今からですか?」
紫苑は玲一の意図がわからず首を傾げた。
「是非君に会いたいという人がいるんだよ」
大島病院の待合室で、玲一と紫苑は辺りを見渡していた。
先に玲一が気づき、会釈をする。やって来た人物を見て、紫苑は目を丸くさせた。
「あれ?……大西眞さん?」
大西眞ははにかみながら、軽く頭を下げる。
「お久しぶりです」
紫苑は目の前にいる青年を見た。やせ形で青白い顔色は変わらないが、長かった髪をばっさりと切り、ショートカットにしている。そして口もとにはうっすらとひげの青い跡が見え、声も男性そのものだ。心なしか、骨格までがっしりしているように見える。
「半月前から、女性ホルモンの投与を止めているんです」
眞は、玲一と紫苑を病室まで案内しながら言った。
「日本に来たのは、一時だけホルモン投与を止めて男になることが目的でした」
「一時?」
紫苑が聞き返すと、眞は目の前にある病室のドアを開けた。
「おばあちゃんに会う為です」
そこは、以前玲一が紫苑と共に大西茜に会いに訊ねた病室だった。奥のベットには、前回と変わらず痩せ細った老婆が寝かされている。
「あの事件以来、両親は、親族との付き合いも断ちました。もう十年間、祖母とも会っていなかったんです」
そう言って、眞は老婆の額にかかる白髪をそっとはらってやった。
「私が女になりたいと言い出した時、唯一祖母だけが話を聞いてくれました。私のために髪留めや洋服をプレゼントしてくれたり、大きくなったらきっと可愛い女の子になれるよって言ってくれました。……そんな祖母が、私が行方不明になったと聞いてどれだけ悲しんだか……それなのに私は、本当のことが言えず十年間祖母と会う事が出来ませんでした」
眞の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
「祖母は、もう末期癌で長くありません。あとどれだけ延命出来るか……。祖母の意識があるうちに、眞が生きていることを知らせてあげたいんです」
そう言って眞は玲一と紫苑に向き直り、深く頭を下げた。
「こんなところまで来ていただいて、ありがとうございます。本当の私のことを知ってくれているのは、お二人だけです。私一人じゃ、どうしても怖くて……。心のどこかで、こんな姿を祖母に見られたくないと思ってるんです」
「そんなに卑下しなくてもいいですよ!」
紫苑が明るく言った。
「眞さんは、女の子でも男の子でも綺麗ですって!おばあちゃんも、成長した眞さんの姿を見れば、きっと喜んでくれますよ」
紫苑の言葉に、眞はほっとしたように顔をほころばせた。
やがて、祖母に投与されている鎮痛剤が切れる時間がやってきた。それまで死んだように眠っていた老婆の瞼が、ゆっくりと開かれる。
「……おばあちゃん?」
眞が祖母の顔を覗き込んだ。
「僕だよ、おばあちゃん。眞だよ」
眞の呼びかけに反応するように、祖母の顔がピクリと動き、眼球が眞の姿を捕えるように揺れている。
「十年ぶりだね。僕、やっと家に帰れたんだよ。ほら見て。背もこんなに大きくなったよ」
眞は祖母に笑いかけた。その時、老婆の顔には染み渡るような笑みが広がった。
「……眞ちゃん」
祖母は懸命にくぐもった声を発した。酸素マスクが呼吸に合わせて曇った。
「今までどこにいたの……おばあちゃん、ずっと探してたのよ……」
「ごめんね、おばあちゃん……」
祖母のしわくちゃになった瞼から、涙が零れ落ちた。眞は祖母の胸に顔を沈めた。
「こんなに立派になって……ああ、本当に夢みたいだわ」
眞と老婆は泣きながら固く抱き合った。紫苑もつられて涙ぐむ。
しかし、二人の再会は長くは続かなかった。看護師がやって来て、点滴に再び薬を投与すると、すぐに祖母の意識はなくなった。
「最後に、私の姿を見せられてよかった」
中庭に移動した三人は、夕暮れの空を眺めていた。
「おばあちゃんは、人目で眞さんだってわかりましたね。それだけ、成長したお孫さんの姿を思い描き続けていたんでしょうね」
「……そうですね。だけど、私が今の姿でいられるのはこれで最後です」
眞の言葉に、紫苑が訝しげに聞き返した。
「また女性ホルモンの投与を始めるってことですか?」
「いいえ。今度は、身体を女性に作り変えるんです。明日、海外へ発ちます。そこで性転換手術を受けるつもりです」
眞の表情は固い決意で満ちていた。
「……そうなんですね。だから、今日……」
「はい。これで正々堂々、女として生きて行けます。お二人には、あの時一緒にいてくださって助かりました。私一人じゃ、あそこまで言う勇気はなかったです」
「礼には及びませんよ」
玲一がにこやかに言った。
「最終的にあのご両親を説得させて、お姉さんの遺体を掘り返させたのはあなたでしょう?」
眞は静かに首を振った。
「私達家族がしでかしたことは、決して許されるものではありません。姉には、本当に申し訳ないことをしてしまいました。だから、これからは、何があっても家族で協力して生きて行こうと思います」
仮面のような家族がこれでもう一度、本物の家族になれるのだ。紫苑は、三人の家族の前途を想い心が温かくなった。
「それにしても、なぜお二人は私が大西眞だとわかったんですか?」
ふいをつくような眞の質問に、紫苑は顔をこわばらせた。
「あの後、気になって全国犯罪被害者支援の会に問い合わせたんです。そしたら、お二人は会員ではなかった。あなた方は、一体どこの誰なんですか?」
率直な指摘に、紫苑は答えることが出来ず玲一に助けを求めた。
「失礼しました。こうでもしないとご両親が話を聞いてくれないと思いましてね。実は、私たちは心霊探偵事務所の者なんです」
玲一はあっさりと自らの正体を明かし、調査に至った理由を包み隠さず説明した。紫苑は内心気が気ではない。大島小学校に茜の霊が現れたなんて、まともな人間なら信じるはずがない。だが眞は、口を挟むことなく神妙な面持ちで玲一の話を聞いている。
玲一が全ての話を終えた後、眞は大きく息を吐いた。
「……そういう事だったんですね」
「え、信じちゃうんですか?」
紫苑が思わず突っ込んだ。
「ええ、まあ。だって、あなた方はお金目当てでもなさそうだし。仮に父の政敵からの依頼だったとしても、こんな突拍子もない言い訳、普通は考えつかないですからね」
眞がふふ、と笑った。
「実を言うと、私も小さいころから霊的な存在を感じたことが何度もあります。わりと信じてるんですよ、そういうの」
霊の存在を信じる人は、紫苑が思っている以上に多いのだ。紫苑がかつてそうであったように。
「あの、学校にいる姉の霊は、どんな様子でしたか?怒っていますか?それとも悲しんでいますか?」
眞がひっそりと玲一へ尋ねた。
「いえ、そのような恨みの感情はなさそうでした。純粋に、自分の遺体を発見してほしいだけのように見えます。眞さんやご両親対する怒りも、特に感じません」
玲一はまるで茜の霊と遭遇したかのように断言した。
「よかった。姉には、これまでの埋め合わせをしなきゃいけませんね。ずっと忘れないようにしなきゃ」
眞は少しだけ晴れやかな表情になった。
三人は病院の玄関先で別れた。最後に眞はこう付け加えた。
「最初に姉を見つけてくれた流伽くんって子にも、お礼を言っておいてくださいね」
この言葉を聞いた流伽はきっと喜ぶだろう。紫苑は流伽に会うのが楽しみになった。
「ただいまー」
学校から帰ると、流伽はランドセルを部屋に置いた。今日は、鏡探偵事務に遊びに行く日だ。紫苑が美味しいお菓子を用意してくれているらしい。母に伝えようと、寝室の扉を開いた。だが、誰もいない。それどころか、部屋の隅には段ボールが積み上げられていた。母が使っていたドレッサーや洋服類がなくなっている。流伽は急いで居間へ向かった。
そこには父がいた。本屋雑誌などを段ボールの中に詰めていた。
「お父さん?何してるの?」
流伽の問いに、父は額の汗をぬぐった。
「この場所から引っ越しすることになったんだ」
「えっ?」
あまりにも突然のことに、流伽は唖然とした。
「お父さんの会社で転勤が決まったんだ。急ですまないが、後二週間後には新しい家に移動しなきゃいけない。早めに準備しておかないとね」
父は淡々とした様子で言った。
「そんな……」
これまでも、父が出張で長期間家を空けることはあった。だが、母が病気になってからはほとんどなくなっていた。なのに、ここへ来て転勤だなんて。
「お母さんはどうするの?」
流伽の問いに、父は本の箱詰め作業をする手を止めずに答えた。
「お母さんは一緒に来ない。これからは、新しい場所で父さんの二人で暮らすんだ」
父は何でもない風に言うが、流伽にはにわかに信じられなかった。
「お母さんを置いていくの?可哀想だよ!病気なのに!」
流伽は父に詰め寄った。その時、父は手を止めて立ち上がった。その形相は、流伽がこれまでに見たことのないものだった。
「いい加減にしろ!」
父は怒鳴った。流伽は普段穏やかな父のそんな声を聞くのは初めてだった。
「母さんはもういないんだ!これからは、二人で生きて行くしかないんだよ。もう、母さんの話をするのは止めてくれ!」
流伽は雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。父は、そんな息子の様子を見てはっとしたように我に返った。
「……とにかく、明日は父さんは休みを取るよ。学校への手続きもしてくるから、流伽も部屋のものを片付けておきなさい」
父は静かに首を振って、また箱詰めの作業に取り掛かった。流伽は後ろを振り返った。そこには母がいた。青白くやつれた姿をして、父を見下ろしている。
父と母は、喧嘩をしたのだ。母が病気になってからは、二人が衝突することはなくなった。だが、ここへ来てまた二人の関係がぎくしゃくしている。
両親は、別れてしまうのだろうか。母は病気だから自分の面倒が見れない。だから、父に引き取られてしまうのだ。
流伽はどうしようもない現状に苛立ちとやるせなさを感じながら、どうすることも出来なかった。父に聞こえないように、そっと母に問いかけた。
「お母さんは、お父さんと別れちゃうの?」
母は、悲しげな顔をした。もう何度も見て来た母の表情だ。流伽は心が痛んだ。
「……ごめんね、流伽。お母さんとはもう、離れたほうがいいわ」
「そんなのやだよ!」
流伽は思わず母に抱き着いた。
母は流伽の背中を手のひらで撫でながら、ただごめんねと繰り返した。
探偵事務所に表れた流伽は、見るからに元気がなかった。紫苑が用意したチョコレートケーキにも手をつけない。
流伽から引っ越しの話を聞き、紫苑は思わずフォークを動かす手を止めた。
「そんな突然に?じゃあ、ご両親は離婚しちゃうんですか?」
流伽は力なく頷いた。
「転校するのは嫌だし、お母さんと一緒に暮らせなくなるのも嫌だよ。でも、どうすればいいんだろう?」
そう言って、流伽はようやくチョコレートケーキを食べ始めた。
「わあ、すごく美味しいね、これ!」
ようやく笑顔になった流伽に、紫苑はほっとした。
「このケーキね、うちの依頼人だった人が働いているケーキ屋さんで買ってきたの。その人が作ったんだって」
「へえ、パティシエの人だったんだ。色んな人の依頼が来るんだね」
あらかたケーキを食べ終えた流伽は、改めて玲一に向き直った。
「ねえおじさん、おじさんがお父さんを説得してくれない?」
「どうして私が?」
玲一はコーヒーカップをテーブルに置き、足を組んだ。
「だって、おじさんって人のこと騙すの得意でしょ」
「騙すだなんて、人聞きが悪いな」
「安藤先生のことも騙してたじゃん」
流伽はにこにこしながら玲一を見上げた。
「あれは特別対応だ。それに、お父さんの転勤はもう決まっているんだろう?今さら覆すなんて無理だ」
「お父さんが遠くへ行くのはしょうがないよ。僕はお母さんが心配なんだ。病気なのに一人にして行けないよ。僕、お母さんの面倒を見るために残りたい」
流伽は切実に訴えた。紫苑も応援してやりやくなるが、小学生が大人の世話をするなんて現実的に無理だろう。
「その心意気は立派だが、君一人では母親の面倒など見れるわけないだろう。それに、母親も大人なんだし、自分一人で生きていけるさ」
玲一はやや突き放したような物言いだった。流伽は唇をかみしめ、俯いている。紫苑も何といっていいかわからなかった。
一週間はあっという間に過ぎた。父親はさっさと家中のものを段ボールに詰め込み、引っ越し業者へと引き渡した。流伽は朝、登校する前にがらんどうになった部屋を見渡した。母が家具のなくなった居間の中心に佇んでいる。
「お母さん、ごめんね」
流伽は母に呼び掛けた。母はふっと微笑みを浮かべた。
「気にしなくてもいいのよ。お母さんは一人でもやって行けるから」
「お母さんは、僕のこと忘れたりしない?」
「何言ってるのよ。忘れるわけないじゃない」
母はおかしそうに笑った。
流伽は学校で同級生へ最後の挨拶を交わした。
親友の大輔くんは、目を真っ赤にしながらサッカーボールをプレゼントしてくれた。クラスの女子からは花束と寄せ書きを渡された。その一言一言を読みながら、流伽は嬉しさと寂しさで胸がいっぱいになった。
ここを離れたくない。
流伽は叫びたいほどの想いを必死に抑えながら、学校を後にした。校門には、父が運転する車が横付けされていた。
「お友達とたくさん話せたかい?これから新しい家に向かうよ。今日の夜には着くからね」
父はどこか解放感に溢れたような表情をしている。その様子が、流伽には憎らしく見えた。そんなに早く母から離れたいのだろうか?
車はやがて高速道路へと入って行った。日が暮れ始め、ライトに照らされたトンネルへ車がびゅんびゅんと吸い込まれていく。行きかう車のヘッドライトが流伽の頬を照らした。流伽はサッカーボールを抱きしめながら、不安に苛まれていた。
朝、家を出て行ったときの母の表情。自分は母を置いてけぼりにしてしまった。もう二度と、会えないかもしれない。次に家に帰った時には、もう母の姿は消えてなくなっているかもしれない。
猛烈な後悔が胸をえぐった。その時、父が後部座席にいる流伽を振り返った。
「そろそろ休憩にしようか。流伽、サービスエリアでトイレを済ませてきなさい。そこで夕食にしよう」
流伽は父と二人でサービスエリアにあるフードコートに入った。うどんをすすっている間も、流伽は上の空だった。父はしきりにこれから自分達の住む家がどれだけ便利かを言い聞かせている。
今ここで戻らないと、手遅れになる。
ほとんど強迫観念に似た感情が流伽を支配していた。トイレを済ませ、流伽は父と共に車の前まで戻った。
手のひらはじっとりと汗をかき、心臓はバクバクとうるさく波打っている。父が先に鍵を開けて運転席に乗り込んだ。シートベルトを締める間、流伽は後部座席のドアを開け、上半身をシートの上に乗せて体重をかけた。あたかも流伽が座席に乗り込んだかのように。
大丈夫だ。後部座席は父のスーツケースやランドセル、引っ越し業者に渡しそこなった衣類を詰めたバックで埋まっている。運転席のバックミラー越しにみられても、流伽の姿が見えないことは不自然ではない。
「ごはん食べたら眠くなっちゃった。家に着くまで寝てるね」
流伽は前にいる父に呼び掛けた。父の返事を聞くと、素早く上半身を車の外に出し、ドアを勢いよく閉めた。父はそのまま後ろを振り返ることなく、車を発進させた。
暗闇の中で遠ざかって行く車のナンバープレートを目で追いながら、流伽は大きく息を吐いた。やった!うまく行った!
そしてトラックや大型バスばかりが立ち並ぶサービスエリアを眺めた。オレンジ色の街灯が駐車場を照らしている。さて、これからどうしようか。
流伽はフードコートで父に渡された千円札のお釣りをまだ持っていた。このお金を使って家まで戻ろう。流伽はタクシーを探した。
目を凝らして見ると、トイレの近くに一台のタクシーを見つけた。流伽は速足で駆け寄る。父が流伽がいないことに気づいて、引き返してしまう前に移動しなければ。
「すみません」
流伽は車の外でストレッチをしている白髪交じりの中年のタクシー運転手に話しかけた。
「東京都大島区まで行きたいんですけど」
運転手は流伽の姿を認めると「うん?」と声を上げた。
「東京都大島区って……そんな遠い所まで行くの?すごいお金かかっちゃうよ」
流伽は思いもよらない言葉に戸惑った。
「どれくらいですか?」
「高速道路を使うから、二万円ぐらいにはなっちゃうかもね」
流伽は仰天した。タクシーがそんなにお金のかかるものだったとは。流伽が絶句していると、運転手は訝しげに流伽の顔を覗き込んだ。
「君一人なの?お家の人は?」
流伽は危険を察知した。一人でいることがバレたら、警察に連れて行かれるかもしれない。「大丈夫です、すみません」と言い残し、流伽は慌ててその場を離れた。
どうしよう。このままでは家に帰れないどころか、サービスエリアからも出られない。途端に心細くなり辺りをきょろきょろと見渡した。そこにいるのは運送業者らしい男性ばかりで、皆次々に車に取り込みサービスエリアを後にしている。車のヘッドライトが遠ざかっては消えていく。時が経つに連れ、人気がなくなり始めていた。
流伽は自分の馬鹿さ加減を呪いながら、サービスエリアのベンチに腰を下ろした。ポケットの中にある小銭を数えてみる。このお金だとどこにも行けないのだ。
ふと顔を上げると、トイレの脇の公衆電話が目に留まった。流伽はすがるような思いでそこに駆け寄った。受話器を取り上げ、小銭を入れると、暗記していた電話番号をプッシュした。
どれほどの時間が経っただろうか。流伽はベンチの座り込み、膝を抱えていた。ふと目の前に人の気配を感じる。
「まったく、君は突拍子もないことをするな」
「おじさん!」
流伽は顔を上げて目を輝かせた。玲一が流伽の目の前に立ち、腕を組みながらため息をついた。
「そんなはした金で東京まで行けるわけがないだろう」
玲一はスーツ姿だったが、いつも来ているジャケットは身に付けておらず、ワイシャツ姿のまま袖を肘までまくり上げている。流伽は安心感で胸がいっぱいになった。
「ごめんなさい。どうしても、お母さんを一人にしたくなくて……」
玲一の険しい顔に見下ろされると、鼻の奥がつんとして涙がじわじわとこみ上げた。すると、玲一の後を追いかけるように、紫苑が走ってきた。
「流伽くん!ああ、よかったあ、見つかったんですね」
流伽は公衆電話で鏡探偵事務へ電話をした。初めに電話口に出たのが紫苑だった。流伽は自分がどこにいるかもよくわからなかったが、道路沿いにある標識を読み上げた。紫苑はなぜ流伽が一人でサービスエリアにいるのか、問い詰めなかった。ただ、変な大人についていかないように、なるべく人の多い場所で待っているようにと念を押して、すぐ迎えに行くと言ってくれた。ただ、流伽は大人に見つかって警察に通報されるのが怖くて、なるべく人目のつかない場所を選んでしまったために、紫苑はフードコート中を探し回るハメになった。しかし玲一は流伽がいそうな場所の見当がすぐついたようだった。
「もう業務時間外なんだが」
玲一が腕時計を見つめた。
「そんなこと言わずに、流伽くんを家まで送ってあげましょうよ」
「まったく、これで叙々苑は当分お預けだからな」
二人の軽口を聞きながら、流伽は父の元に送り返されるのではないかと内心びくびくしていた。しかし、玲一も紫苑も当たり前のように流伽を車へと促した。
「さ、家に帰ろうか」
玲一の運転する車に乗り込み、流伽はほっと息をついた。
「おじさん、車持ってたんだね」
「これは私のじゃない。友人から借りたんだ」
革張りの後部座席は固く落ち着かない。車の車種もよくわからない流伽の目にも、高級車であることはわかった。
「おじさんの友達はお金持ちなんだね」
助手席にいる紫苑が振り返って流伽に笑いかけた。
「すごいでしょ。本人は車よりも人力車が似合いそうなんだけど」
「……紫苑くん。本人に言いつけるぞ」
流伽は玲一と紫苑が頼もしく見えた。二人がいてくれれば、きっと大丈夫。お母さんのところに無事にたどり着けるだろう。
緊張の糸がほぐれたせいか、瞼が重くなってくる。流伽はそのままうとうとと船を漕ぎはじめた。
流伽が目を覚ましたころには、窓から見える景色は高速道路ではなく見慣れた住宅街になっていた。
家に戻れたのだ。流伽は嬉しくなって一気に目が冴えた。
「着いたぞ」
玲一が流伽の家の前で車を停めた。家はしんとしていて人の気配がない。
流伽はドアを開けて玄関へと急ぐ。家の中は真っ暗だった。居間の電気をつけると、流伽は辺りを見渡した。
「……流伽?」
居間の奥から母親が現れた。
「お母さん!」
流伽は母の元に駆け寄った。
「僕、やっぱりお母さんのことが心配で戻ってきたんだ」
母は驚いた顔で流伽を見下ろした。そして、顔を苦し気にゆがませる。
「そんな……流伽、お父さんは?どうやってここまで来たの?」
「探偵事務所の人が車で連れて行ってくれたんだ!ほら、前にも言ってたでしょ。この人たちだよ」
流伽は後ろを振り返った。玲一と紫苑がその場に立ちすくんでいた。紫苑は、戸惑いの表情を浮かべながら流伽を見つめている。
「えっと……流伽くん、どういうこと?」
流伽は「えっ?」と聞き返した。
「誰もいないよ?さっきから誰と喋ってるの?」
流伽は心臓の鼓動がどくんと波打つのを感じた。
「お姉ちゃんこそ、何言ってるの?」
声を張り上げて流伽は拳を握り締めた。
「ほら、ここにいるじゃん。僕のお母さんだよ。病気だから、外に出られないんだ。ずっと家にいなきゃいけなくて……」
流伽は泣きそうになりながら玲一に同意を求めた。
「おじさんなら見えるよね?お母さんと話したんでしょ?」
玲一は険しい表情でじっと流伽を見据えた。
「私にも何も見えない」
その瞬間、流伽は頬を叩かれたような衝撃を受けた。
「紫苑くんの言うとおりだ。君は妄想の産物と会話しているに過ぎない。君の母親は、この家にはいない」
流伽は玲一を穴のあくほど見つめた。裏切られたような気持ちになり、涙がこみ上げそうになる。
「君の母親はもう半年前に病気で死んでいる。葬式をやっただろ?その目で、母親の遺体が焼かれ墓に埋められるのを見たはずだ」
流伽は母の方を振り返った。母は悲しそうな表情で流伽を見つめていた。その輪郭がおぼろげになって行く。
「母親は死んだんだ。もうこの世にはいない。いつまでも現実から目を逸らすな」
玲一は強く言い放った。流伽の目の前で、母の姿がぼやけ、やがて消えてなくなっていく。いやだ!心の中で叫んだ。だが、まるでろうそくの炎が風でかき消されるように、ふっと母親の姿が見えなくなった。
流伽はその場で崩れ落ちそうになった。母の姿を探して、家の中を駆けずり回った。寝室、キッチン、バスルーム、どの部屋にも母の姿はない。家具がなくなった家の中は暗く、空気が重たく感じられた。流伽は必死になって母の面影を探し求めた。だが、母の名残は何ひとつ見つけられなかった。
紫苑が呆然とする流伽を無理やりに抱き留めた。
「流伽くん、もういいよ。今まで、つらかったよね。ごめんね、気づいてあげられなくて」
紫苑に頭を撫でられると、流伽はかつての母のぬくもりを思い出した。まるでせき止められた濁流が決壊したかのように涙が溢れ出した。
流伽は紫苑の胸に顔を押し付け泣きじゃくった。
母はもう、この世にいない。
自分は、そのことを頭のどこかでわかっていた。だけど、自分にしか見えない母と接するうちに、母の死という現実はどんどん片隅に追いやられていった。直視出来ない恐怖と寂しさに押しつぶされ、流伽は必死になって自分の世界を守り続けていたのだ。
その時、家の前で車のブレーキ音がした。慌ただしい足音が聞こえ、ドアから流伽の父が飛び込んで来た。
「流伽!」
父の顔は真っ青だった、紫苑に抱き留められている流伽の姿を認めると、その場にへたり込んだ。
流伽は顔を上げて父を見た。
「お父さん……」
「どうしていきなりいなくなったりしたんだ!」
唐突に父は怒鳴った。その声はわずかに震えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
流伽は泣き続けながら謝った。父はそんな流伽を抱きしめ、「ああ、よかった……」と呟いた。
流伽と父は、駅前のホテルへ泊まることになった。泣き疲れて眠る流伽を車に乗せて、父は玲一と紫苑に向き直り、頭を下げた。
「息子がご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」
紫苑が流伽から連絡を受けた後、玲一は流伽の父親に電話をした。父親の連絡先は、保護者として大島小学校の職員室を訪問した際、安藤先生が持つ書類の内容を盗み見て記憶したのだという。玲一は、あえて流伽に父へ連絡していることを言わなかった。
「いえ、私たちは大丈夫ですけど、あの、流伽くんのこと、そんなに怒らないであげてくださいね」
紫苑は言いにくそうに両手を握り締めた。父は深いため息をつき、項垂れた。
「あの子は昔から、人とものの見え方が違う子でした。母親に似たんです。いわゆる霊感が強いんです」
そうして、父はぽつりぽつりと話し始めた。
「幼いころは、私には見えない霊と一緒に遊んだりしていました。だけど、母が何度も注意をして教え込んだおかげで、小学生になるころにはその癖も治ってきました。だけど、半年前に母親が癌で死んでしまってから、何もかも狂ってしまいました」
父は疲労の残る目元を指で押さえつけた。
「母親が亡くなって、流伽はとても落ち込んで一日中ふさぎこむようになりました。母親が恋しくてたまらないようで、私が母の遺品を少しでも処分することを嫌がりました。私も流伽が可哀想で、母の私物はそっくりそのままにしておいたんです。母の死を連想させる仏壇や遺影も、家から取り除きました。でも、今思えばそれが逆効果だったんです」
紫苑は車の助手席で眠り込んでいる流伽の横顔を見つめた。頬には涙の後が幾筋もついている。ふと、母が死んだ直後のことが思い起こされた。
「その内に、流伽は家の中であたかも母が生きているかのように振る舞いました。朝が来れば母に挨拶をして、食卓を囲めば母に今日あった出来事を語って聞かせる。母が家の中だけに存在している理由をでっち上げで、自分自身を納得させる……。私も最初の方は、流伽が不憫でたまらなく、調子を合わせたりしていました。だけど、徐々に怖くなったんです」
父は身震いするように肩を縮こませた。
「息子が、息子でなくなるような感覚でした。何もいない空間に向かって話しかける流伽が不気味で仕方ありませんでした。その内、もう耐えきれなくなりました。家に帰るのもおっくうだし、妄想の世界に生きる息子を見るのも嫌でした。息子に母は死んだんだと言聞かせても、まったく信じてもらえないんです。もう、どうしていいかわからなくって……」
そんな時、会社の人事異動で転勤のチャンスが舞い込んだのだと言う。
「この家を離れれば、流伽の妄想も収まってくれると思ったんです。だけど、そんな簡単にはいきませんね……。逆に、あの子を傷つけてしまった」
父は車の中で眠っている流伽を見つめた。
玲一と紫苑は流伽の父と別れた後、借り物の車に戻った。
「さて、これからヤツに車を返しに行くとしよう。紫苑くん、家まで送ろうか、」
玲一は、助手席でいつまでもぐずぐずと泣いている紫苑を横目に見て、うんざりしたようにため息をついた。
「頼むから、その鼻水でシートを汚すなよ」
「所長、ひどいですよ」
紫苑が大きく鼻をすすった。
「流伽くんにあんな言い方しなくてもよかったのに……」
「じゃあ、他にどう言うんだ?」
玲一はぴしゃりと遮った。
「あの子はいつまでも妄想の世界から抜け出せないままだ。母親が死んだと分からせるには、あれしかなかったんだ」
それっきり、玲一はむっつりと押し黙った。紫苑は涙をぬぐい、夜の街並みを窓ガラス越しに眺めた。街灯の灯りがちらちらと瞬き、紫苑の目を照らして行った。
それからしばらく後、鏡探偵事務所に一人の女性が現れた。
「この度は、流伽がご面倒をおかけしました」
女性はなめらかに腰を折って玲一に挨拶をした。
玲一は女性にコーヒーを煎れ、向かいのソファへ座った。
「流伽くんは元気ですか?」
玲一の問いに女性は微笑んだ。肩まである髪の毛がさらさらと揺れる。色白で肌のきめ細かさが際立っている。
「ええ、あれから一時期落ち込んでいましたけど、今は笑顔も見られるようになりました」
女性はコーヒーカップには口をつけず、香りを楽しむかのように顔だけを寄せた。
「あの子の父は仕事が忙しく、流伽の面倒を満足に見れません。結局、私の親戚筋の夫婦に預けることになりました」
「そうなんですか」
玲一は考え深く頷いた。
「私も幼いころに世話になった方々で、とてもいい人たちなんですよ。……父親は流伽に後ろめたく思っているようですが、仕方ないですよね。男手ひとつで子育てするのは大変ですから。それに、流伽にとっても、父親と離れた方がいいと思うんです。もうお互いの溝は埋まりませんから」
女性は伏し目がちになって膝の上に置いた両手を見つめた。
「確かに、ご主人にとってもその方がいいかもしれませんね。理解の出来ない息子と一緒に暮らすよりは、自分の新しい人生をスタートさせたいでしょう」
そう言って玲一は肩をすくませた。
「親子といっても、しょせんは他人ですからね」
女性は少しだけ微笑み、眩しそうに玲一を見た。
「あなたは、人が言いにくいところをずけずけと言いますね」
「昔はもっとしおらしかったんですけどね。この仕事をやっていると、神経が図太くなりまして」
「まあ、羨ましいわ」
女性はくすくすと笑った。
窓の外は茜色に染まり、遠くで鐘の音が聞こえる。間の抜けた車のクラクション音が響いて来た。
女性は流伽との思い出話を玲一に聞かせた。玲一は相槌を打ち、女性は話し続けた。それは、まるで流伽のことを忘れないように自分に言い聞かせているような話し方だった。
やがて一通り話し終えた女性はほうっと深く息をついた。
「いつか、あの子と会うことがありましたら、この話を聞かせてやってください」
その瞳には涙が溜まっていた。
「あの子には申し訳ないことをしました。少しでも傍にいてやりたかったんです。本当は、いけないことだと気づいていました。流伽に現実を受け入れてもらわなきゃいけないって。だけど……」
そこから先の言葉を詰まらせ、女性は俯いた。
「わかってますよ」
玲一が静かに言った。
「流伽くんも、いずれわかってくれるでしょう」
女性は、その言葉に安心したように、ゆっくりと頷いた。その瞬間、女性の身体の輪郭はぼやけ、空気の中に溶け込むようにして無くなった。
玲一はコーヒーカップをテーブルに置き、女性が座っていたはずのソファをじっと見つめた。
「おはようございます~」
その時、ドアが勢いよく開き、買い物袋を下げた紫苑が顔を出した。
「神楽坂のお店に行ったんですけど、丁度豆が在庫切れになってたんですよ~。だから、わざわざ吉祥寺にある別の店舗まで行ったんです。もう、超疲れました。だけど、買わないと所長がまたうるさく言うから……あれ?」
紫苑がテーブルの上にある二つのコーヒーカップを指さした。
「お客さんが来てたんですか?」
玲一の向かいにあるコーヒーカップの中身は無くなっていなかった。
「いいや」
玲一は短く答えると、ソファから立ち上がった。
「今日はこれから依頼人が来るぞ。幽霊屋敷に出る女の霊を除霊してもらいたいそうだ」
「うへえ、それって幽霊屋敷と言いつつ、ゴミ屋敷だってパターンじゃないですか」
紫苑は買い物袋をがさがさと片付けた。
「あ、そういえば、流伽くんから手紙が届きましたよ。親戚の方は随分田舎に住んでいるみたいですね。そこに同い年の子もいるみたいで、一緒に学校に行ってるんですって」
紫苑はほっとしたように頬を緩ませた。
「お父さんのところについていっても、一人で寂しい思いをしそうですからね。帰ってよかったのかもしれませんねえ」
「そうか。それはよかった」
玲一は窓ガラスのブラインドを覗き、夕焼けの景色を楽しむように目を細めた。