家にいる見知らぬ女
蒸し暑い夕暮れ時、キヨは家の中でひとり掃除をしていた。
昔ながらのほうきとちりとりで、襖のレールやテレビの裏側に溜まった埃を集めていく。キヨは掃除機のやかましい音が嫌いだった。
一通り掃除を終えた後、キヨは一息ついてお茶を沸かしにキッチンへ向かった。緑茶を急須に入れ、自室へと引き返す。襖を開けようとした瞬間、キヨは中から人の気配を感じた。
おかしい。今、家には自分一人しかいないはずなのに。
キヨは注意深く足音を忍ばせ、襖を少しだけ開けた。
そこにいたのは、髪の長い女だった。ぼさぼさの黒髪を後ろに束ね、白い服を着ている。こちら側に背を向けているので、表情まではわからない。キヨはその場に立ちすくみ、湯呑を握りしめた。恐怖のあまり足が動かない。
女はやがて、キヨの存在に気づいたかのようにゆっくりと顔を向けた。キヨは叫んだ。湯呑を放り出し、一目散に玄関へと走り出す。陶器の割れる音が家に響く。キヨは構わずサンダルを足に突っかけ家を飛び出した。
もうこんな家には居られない。
キヨは行く宛てもなくふらふらと街を彷徨い歩いた。
「ああ~っ涼しい~天国~」
紫苑は探偵事務所の古びたクーラーの前に陣取り、シャツの襟を開けて冷気を浴びていた。クーラーのリモコンを19℃の強風設定にしている。
「紫苑くん。君は節電意識がないのか?タダで冷房が使えるわけじゃないんだぞ」
玲一がリモコンを28℃まで下げ、紫苑をたしなめた。
「いいじゃないですか少しくらい。こっちは神楽坂まで行ってコーヒー豆を補充しに来たんですよ。あんな坂が多いところを、荷物を持ってえっちらおっちら…」
そう言って紫苑は来客用のソファーに寝そべり、団扇で風を仰いでいる。
「はあ。君には品性のかけらもないな」
「一日中涼しい所にいる人に言われたくないです」
紫苑が口を尖らせる。
「まあいい。あと十分したらそこをどいてくれ。来客が来るからな。例の依頼の件で」
「え、久々ですね。今度はどんな依頼なんでしょうか?」
紫苑はソファーから起き上がり玲一を振り返った。
「まだわからん。だが、どうやらかなりの上玉だ」
玲一はなぜかにやりと笑った。紫苑はそんな玲一の様子に不吉なものを感じた。またインチキ霊媒師の新たなる犠牲者が出てしまうのだろうか…。
事務所に現れた坂田キヨは、七十代ぐらいの老婦人だった。
日傘を畳みながら、うやうやしく玲一に挨拶をする。
「坂田キヨと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
年齢の割にしっかりとした口調で、身なりも白いブラウスにロングスカートを合わせ、白髪をきっちりと後ろにまとめている。いかにも上品な有閑マダムといった雰囲気だ。こんな人まで霊の存在を信じているのか。紫苑は内心驚くと同時に、玲一が上玉だと言った理由が分かった。この年代の人がこういった探偵事務所に相談に来る場合、金に糸目をつけない場合が多い。さらにキヨの風貌からして、金を持っていると踏んだのだろう。紫苑は玲一のえげつなさに辟易した。
「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」
紫苑が応接室まで案内して尋ねると、キヨはきっぱりと言った。
「わたくし、飲み物は緑茶しか飲みませんの」
「あ、そうですか…」
紫苑は少々気落ちしながら引き返した。汗水たらして神楽坂へ買いに言った新鮮なコーヒー豆で淹れたのに。
仕方なく緑茶のティーパックを探して来てキヨに差し出す。キヨは緑茶を美味しそうに飲んだ。
「それで坂田さん。今回の相談内容というのは?」
玲一が早速切り出した。
「はい。わたくしの家に、女の幽霊が出るんです」
キヨは迷いのない口調で言い放った。玲一は真剣な眼差してキヨを見据える。
「ほう。それはどのような女です?」
「髪の長い女です。後ろでひとつに束ねていて、いつも白い服を着ています」
キヨは身震いするように肩を竦めた。
「あの女は、私を嫌っています。私を見ると、睨んだり悪口を言ってくるんです。夏に入ってから見かけるようになりました。なぜだか私にも理由がわかりません。家族に言っても相手にしてくれないんです」
疲れ切ったように深くため息をつき、キヨは玲一にすがるように言った。
「あの女の幽霊を除霊してくれません。このままじゃ、夜もろくに眠れません。あの女がいつ襲ってくるかわからないんです」
玲一はしばらく考え込むような素振りを見せていたが、やがて顔を上げて言った。
「わかりました。では早速、ご都合のよい日時に伺いましょう」
キヨの住まいは都心から離れた郊外の閑静な住宅街にあった。
玲一と紫苑はキヨと最寄り駅で待ち合わせをした。日は暮れており、空は紺一色となっている。生暖かい空気が漂う中、キヨはぽつりぽつりと身の上話をした。
「最近、夫の仕事の関係で東京に越してきましたの。出身は茨城なんですよ。子供は三人いるんです。みんな男の子。東京は遊ぶところがたくさんあるっていうでしょう?でも、人も多いしごみごみしていて、私は一向に好きになれませんの」
「住み慣れた土地を離れるのは大変ですね。私も田舎育ちだったのでよくわかります」
玲一はキヨのゆっくりとした歩調に合わせながら相槌をうつ。紫苑は玲一が田舎育ちだということに驚いた。てっきり生まれも育ちも東京だと思っていたのに。
キヨも同じ思いを抱いたのか、玲一を見上げて意外そうに言う。
「まあそうなんですか。あなたみたいなハイカラな人が田舎育ちなんてねえ」
「都会にもまれていく内に、人は段々と変わって行くものなんですよ」
「あらまあ。昔のあなたがどうだったか知りたいわ」
キヨがくすりと笑った。
「そりゃあひどいものですよ。あまり思い出したくありませんね」
玲一が苦笑する。
そうしている内にキヨの住まう一軒家が見えて来た。クリーム色の外壁をしている今風の頑丈そうな家だ。
「立派なお家ですねえ」
紫苑が関心していると、キヨは謙遜して言った。
「大したことありませんよ。周りにはもっと大きい家がありますから」
キヨの後をついて家に上がると、部屋はしんとして無人だった。リビングに招かれ、玲一と紫苑がソファーに座る。キヨは険しい表情で家の中を見渡した。
「そう。この時間帯になると、あの女が姿を現すんです」
壁にかけられている時計の針を見ると、夜の七時を指していた。
紫苑はなんとなく辺りを見渡した。
新聞や雑誌が無造作にテーブルの上へ置かれていたり、飲み残しのあるコップや朝食に使用したと思われる、トーストの残りカスがある皿が放置されている。部屋の隅はほこりっぽく、きちんと掃除をされていないようだ。ああ見えて、キヨはおおざっぱな性格なのだろうか。
しかし、紫苑はこの家に違和感を抱いた。どこかがおかしい。だが、その違和感の正体が掴めない。もやもやしながら、キヨの言う女が表れる時間になるのを待つ。
すると、玄関の方でガチャガチャと音が鳴った。鍵が開けられる音だ。途端にキヨは身を固くした。
「あの女です!」
そして階段を踏みしめる音が聞こえる。リビングのドアを開けられ、中から女が表れる。キヨは小さく悲鳴を上げた。女は玲一と紫苑の姿を見ると、目を大きくして驚きの表情になった。
「あの、どちら様ですか?」
女がしゃべった。
幽霊が見える!と紫苑が一瞬興奮したのもつかの間、すぐに間違いだと気づいた。女はどう見ても生身の人間に見える。どこにでもいる、四十代くらいの主婦だ。長い黒髪を後ろにまとめている。
「探偵さん。あの女の姿が見えます?」
キヨは玲一の服の袖を引っ張り、怯えたように女を指さす。
「はあ?お義母さん、私ですよ!一体何なんですか、もう」
黒髪の女は買い物袋を床に投げ出し、肩を落とした。
「ついに見知らぬ人を家に招くようになっちゃったわ…」
玲一はキヨの手を取り、にっこりと笑った。
「ええ、見えますよ、あの女の人が。ひとまず、この状況を整理した方がよさそうですね」
玲一と紫苑が女に自己紹介をし、ようやく黒髪の女は落ち着きを取り戻した。
「心霊探偵なんてものが本当にこの世に存在するなんて…」
訝し気に玲一から受け取った名刺を見る。
「はは、いわゆる隙間産業というものでしてね。一定の需要があるんですよ」
玲一は感じのいい笑みを浮かべた。女は玲一の容貌に好感を持ったのか、いくらか警戒心を解いた。
「そのようですね。私はこのおばあちゃんの息子の嫁で、坂田晶子と言います。見ての通り、お義母さんは認知症にかかってまして」
そこまで言って、晶子は額にかかった髪の毛を払った。
「一か月前から、私の存在を忘れるようになったんです。お義母さんにとって、私が赤の他人だからでしょうかね。家の中で一緒にテレビを見ていても、突然あんたは誰だって騒ぎ出すようになっちゃって」
「いわゆる見当識障害ですね」
「ええ、そうなんです」
玲一の言葉に、晶子は疲れ切ったように頷いた。
「ええと、すみません。見当識障害とは?」
紫苑が遠慮がちに手を挙げると、玲一が解説をした。
「認知症の初期症状の一つだよ。今の時間や季節がわからなくなったり、自分のいる場所がわからなかったりする」
紫苑は、キヨが日が暮れているにもかかわらず日傘を差していたことを思い出した。
「その他の症状としては、人がわからなくなることが挙げられる。家族や友人の顔が認識出来なくて、今みたいに、頑なに知らないと言い張ったり」
その間も、キヨは始終不安げに晶子の様子を窺っていた。まるで晶子にいつか襲われるのではないかと言わんばかりに警戒している。
「そうなんですか…坂田さん、あんなにしっかりしていたのに、まさか認知症だったなんて」
「よく言われます。お義母さんは外では受け答えもしっか出来るんですよ。元々、ずっと接客の仕事をやって来たから、その癖が出ちゃうんでしょうね。でも、家ではこのありさまです」
その時、玄関の開く音が聞こえた。誰か帰って来たようだ。ワイシャツにネクタイ姿の中年男性がリビングにやって来て、驚いた目で玲一と紫苑を見つめる。この男がキヨの息子で晶子の夫なのだろう。
「ええと、今日は保険屋さんが来る日だったんだっけ?」
「違うわよ。あなた、メール見た?」
晶子が棘のある言い方で訂正する。
「お義母さんが私のことを幽霊だと勘違いして、勝手に霊媒師を家に寄んだのよ」
晶子が玲一のことを霊媒師呼ばわりしているのを聞いて紫苑は思わず笑いそうになった。夫は「ええ?」と素っ頓狂な声を出している。
「だから言ったでしょ!早く施設に入れてって!もう手に負えないわよ!」
苛立った晶子が夫に詰め寄る。そして玲一と紫苑を横目で見て思い直したのか、夫をキッチンの方へと引っ張って行った。しかし、声はだだ漏れである。
「今日は早く帰るって言ったじゃない!どうしてこんな時間になったのよ」
「仕方ないだろ…今月は忙しいんだから」
「いつもそればっかり!私だって働いてるのよ?そうやって何もかも押し付けて!」
妻の攻撃に対し、夫はひたすらぼそぼそと言い訳を繰り返すだけだ。紫苑は聞いていて悲しくなった。キヨは目の前から晶子が消えてほっとしたのか、玲一の腕を取りニコニコとしている。
「そういえば美味しいもなかがあるの。お茶と一緒にいかが?」
どうやら玲一のことが気に入っているようだ。
「是非頂きたいのですが、今はそれどころじゃなさそうですよ」
「いいじゃない。少しくらい」
夫婦の口喧嘩がヒートアップしていく中、玄関から乱暴に開かれ、どたどたと足音が聞こえた。中学生と高校生くらいの兄弟らしき少年二人が表れる。
少年達は玲一と紫苑を一瞥した後、無言でリビングを突っ切り二階へと続く階段を昇った。
「こらっあんたたち、お客さんに挨拶くらいしなさい!」
晶子が叱りつけると、兄弟は面倒くさそうに首を捻って言った。
「母さん、今日夕飯要らないから。外で食べて来た」
「何よそれ!何で前もって連絡しないのよ!」
晶子の詰問から逃れるように、二人はそそくさと二階に上がってしまった。
その様子を紫苑は呆気に取られて眺めた。思春期の男の子は母親と滅多に口を利かなくなるというが、こういう風になるのか、と思った。
「ボケた姑に口煩い妻。仕事で疲れ切った夫に加え、クソ生意気な子供か…まさに現代日本の縮図だな」
玲一が小声で笑った。
「あの、他人事だからって楽しんでません?」
そうしている内に、キヨが玲一と紫苑の為に最中とお茶を用意してしまった。
「さ、熱いうちにどうぞ」
差し出された以上、食べるしかない。紫苑はありがたく頂くことにした。
最中はさくさくとした中にねっとりとしたあんこの甘さが絶妙だった。
「すっごく美味しいですね!お茶にも合いますし」
紫苑が大喜びで食べていると、キヨは嬉しそうに笑った。
「いっぱいあるから、どんどん食べていいのよ」
夫婦喧嘩がひと段落したのか、夫の隆が自己紹介をしつつ玲一の前に座った。
「今回はご迷惑をおかけし申し訳ありません」
深々と頭を下げられる。薄くなった口頭部が哀愁を漂わせている。
「いえいえ、とんでもないです。キヨさんは認知症のようですね」
「ええ。そうなんです。最近ますますひどくなっています。妻は施設に入れるべきだっていうんですけど、私はどうしても抵抗がありまして…」
キヨは最中を夢中になって食べている。口の端からぽろぽろと食べカスが落ちていた。こうしてみると、やはりキヨはボケている。
「やっぱり、ご主人としては家で面倒を見たいということですか」
「はい…でも、私も仕事が忙しいので、結局妻に面倒を押し付けてしまうことになってしまうんですよ。先ほどもお聞きしていたと思いますが、お恥ずかしい話、家では毎回あんな感じです」
隆は深々とため息をついた。
「他のご兄弟の協力は頼めないんですか?」
「それが、兄二人は遠方に住んでいるので、なかなか難しくて。それに、私は末っ子ということもあり母には特別に可愛がられましてね。だからどうしても最後まで面倒を見てやりたいんですが…」
そう言って困り果てた表情で隆はキヨを見た。キヨは床に散らばった食べカスも気にせず茶をすすっている。
紫苑は何だか悲しくなった。事情があるにせよ、厄介者扱いされる母親。不平不満でいっぱいの妻。まるで家族に関心がないように見える子供たち。紫苑は父親と二人暮らしなので、ずっと大家族というものに憧れていた。しかし、この家族はせっかく同じ家に住んでいるのに、皆バラバラになり機能していない。
最中も食べ終えたころを見計らって、玲一と紫苑は退去することにした。二人を玄関まで見送り、隆は何度も申し訳なさそうに礼を言った。
「本当に、こんな遠い所まで足を運んでくださったのに、すみません」
いくら玲一でも、ボケた老人に対し調査料金は請求できない。今回は完全に無駄足になってしまったのだ。
「残念ですね、所長。ま、日ごろの行いが悪かったということでしょうね」
紫苑が小声でささやく。
「紫苑くん。もう叙々苑に行けなくなるぞ」
玲一は穏やかな笑みを浮かべて言った。
その時、家の中から晶子の叫び声が聞こえた。何事かと思い玲一と紫苑は玄関口から家の廊下を覗き込む。
「あなた、大変!」
まさかキヨがまたおかしな行動をとったのかと紫苑は不安に思った。しかし、晶子の手に握られたのは一枚の紙切れだった。ノートの切れ端らしい。
「貴也の机の上にこんな書置きがあったの!帰りが遅いから心配して塾に電話をかけてみても、今日は来てないっていうのよ」
ノートの切れ端には、少年らしいおおざっぱな字体でこう記されていた。
『もうこんな家にはいたくありません。家を出ます。探さないでください。 貴也』
隆はそれを読むなり青ざめて言った。
「どういうことだ?どうして突然…」
「とにかく探さないと!変質者に連れ去られたら大変よ!」
晶子は取り乱した様子で携帯を取り出した。
「とりあえず、翔ちゃん家と大くんの家にかけてみるわ!もしかしたらそこに遊びに来たのかもしれないし」
騒ぎを聞きつけたらしく、家の中から二人の兄弟がどたどたと現れた。
「貴也のやつ、家出したって?」
「バカだな、どうしてそんなことするんだ?」
「あんたたちも協力して!貴也が行きそうなところを探すのよ!」
晶子が兄弟に向かって叫んだ。
「貴也くんとは、末の息子さんですか?」
玲一がごく自然に家族の間に割って入って行った。
「ええ、そうです」
隆が額の汗をぬぐいながら頷く。
「まだ小学校一年生なんです。こんな突拍子のないことをするなんて」
「あなた、翔ちゃんと大くんのお母さんも、貴也は家に来てないって言ってるの」
青ざめながら晶子は言った。
「警察に言った方がいいかしら?」
「大きな騒ぎになっても困るだろ。まずは、心当たりのあるところを探さないと」
夫婦が話し合っているところへ、紫苑がたまらず提案した。
「あの、私達もお手伝いします」
夫婦は驚いた顔で紫苑を振り返った。
「せっかくここまで来たんですから、何かお役に立ちたいんです。その年の子なら、そんなに遠くまで行けないはずです。ここの土地勘はありませんが、子供が立ち寄りそうなところは携帯で調べれば検討がつきますし」
おずおずとした様子で紫苑は二人の顔色を窺った。
「そう、そうね、そうしてくれるなら有難いわ!」
晶子は何度も深く頷いて、夫に向き直った。
「探すんだったら、なるべく大人数の方がいいでしょ?あなた、手伝ってもらいましょうよ」
隆は晶子に同調するように、うんうんと頷く。
「紫苑くん。まさか私にもこの捜索を手伝えと?」
玲一は避難がましい目で紫苑を見た。
「だって、放っておけないじゃないですか」
紫苑は口を尖らせた。この家族のことが気がかりだったのだ。それに、このままキヨに何も出来ず去っていくのは心残りだった。
玲一はため息をついて言った。
「わかったよ。私も協力しよう」
「本当ですか?」
てっきり玲一はこのまま帰ってしまうのかと思っていた紫苑は、その言葉に嬉しくなった。
「その代り、ここからは無給だからな」玲一は付け加えた。
「わかってますって。さ、私たちはどこへ探しに行きましょうか?」
坂田家の家族と話し合った結果、隆と高校生の晃一は近所の商店街へ、晶子と中学生の雄太は貴也の友達の家を探しに行くことになった。
「じゃあ、私たちは子供達が集まりそうな公園を探しますね」
紫苑が提案すると、晶子は携帯の地図画面を見せて言った。
「貴也がよく遊んでいた公園は、こことここよ。それと、これが貴也の写真」
携帯画面には、家族と那須高原にでも遊びに行ったのだろうか。牧場を背景に満面の笑みでアイスクリームをほおばる貴也の姿があった。ぷっくりとした赤い頬に父親譲りのくっきりとした二重まぶたをしている。
「貴也くんはお父さん似なんですねえ」
「ええ、そうなんです。普段は大人しい子なんですけど、どうしてこんな家出なんて…」
そう言って晶子は声を詰まらせた。
キヨは家に残ったままになった。隆は母に言い聞かせた。
「母さん。僕たちはしばらく家を空けるよ。その間、ここで大人しくしてるんだよ」
「はいはい、分かりましたよ」
キヨは事態を理解していないのか、ニコニコしながら頷いた。
最後に紫苑は晶子から今日着ていた貴也の服装の説明を受けた。
晶子が厳重に家の戸締りし、六人は捜索を開始した。
坂田家と別れ、紫苑と玲一は家から一番近い公園を目指した。
外には月が出ていた。相変わらず夏の空気は湿っているが、風がある分、日中よりはいくらか過ごしやすい。
「所長。もしかして私達は当りかもしれませんよ」
「何のだ?」
「そりゃ、貴也くんを見つけられるかもって意味です」
紫苑は張り切って胸を上げた。
「私も貴也くんと同じくらいの年齢の時に家出してるんです。と言っても、一晩にも満たないくらいですけどね。すぐ捕まっちゃいましたけど」
「ほう。紫苑くんがそんな夜遊びをしていたとはな」
「小学校低学年の夜遊びって何やるんですか。とにかく、私はその時無性に一人になりたかったんです。だから、人のいる店や友達の家ではなく、自分が一番落ち着ける場所に逃げ込みました」
「そこが公園ってことか」
「はい」
ノートの切れ端に書かれた子供らしい字。紫苑は、会ったことのない貴也の気持ちが分かるような気がした。
「所長は家出したことないんですか」
「私か?まあなんせ田舎だったからな。家出しようにもイノシシや熊に出くわすことが怖くてね。なかなか隠れる場所がなかったな」
玲一は渇いた笑いを浮かべた。
「その話本当なんですか?てっきり、キヨさんに話を合わせているだけかと思いました」
「この話は本当だよ」
所長はますますわからない、と紫苑は思った。
家から近い一つ目の公園をくまなく探したが、貴也の姿は見つからなかった。時折セミの鳴き声が響く夜の公園は、不気味であまり長居したくない。幼い頃は、この非日常的な空間にワクワクしていた。紫苑は昔を思い出し、懐かしくなった。
「この公園は遊具が少ないな」
玲一がぽつりと呟いた。
「そうですね。最近では、危ない遊具はすぐに撤去されちゃいますからね」
「いや、身を隠せる遊具がないという意味だ」
そうか、と紫苑は思い出した。当時の自分が隠れていた場所は、プリン山と呼ばれていたドーム状の滑り台だった。中がくりぬかれており、そこに丸まって夜を明かそうと思ったのだ。
「ここじゃありませんね。次の公園に行きましょう」
二人は急ぎ足で坂田家からさらに離れた場所にある比較的大きな公園へ向かった。そこには、タコを模した滑り台があった。紫苑は一目散にそこへ向かい、中を覗き込んだ。やっぱり、と紫苑はほっとした。
貴也はトンネル状になっている空間へ、ランドセルを枕にして丸まっていた。暗くて顔はよく見えないが、背格好はよく似ている。
「坂田貴也くん?」
紫苑の問いかけに、貴也はびくりとしてこちらを見た。
「…誰?」
くっきりとした二重まぶた。間違いない、貴也だった。
「私はお母さんとお父さんの友達なの。家族みんな、貴也くんのこと探してるよ。だから、一緒に家に帰ろう?」
しかし、貴也は警戒するような目で紫苑を睨んでいる。見ず知らずの人間についていかないように教育されているのだろう。
しまった。これでは子供をさらう変質者のセリフみたいになってしまっている。どうすれば貴也を説得できるだろうか。紫苑が考えあぐねていると、玲一が紫苑の隣にかがみ込み、貴也に話しかけた。
「私たちは探偵だ。君を探しに来た」
貴也はその言葉に反応したようだ。興味深そうに玲一を見ている。
「探偵?本当に?」
「ああ、そうだ」
「誰が僕を探しているの?どうせお母さんかお父さんでしょ」
「依頼人の名前は明かせないことになっているんだ」
「何で?」
「私たちはある重大な任務を任されている。そのために、君の力を借りたい。ここから出てくれないか」
芝居がかった玲一のセリフに、紫苑は呆れた。しかし、貴也は違うようだった。
「本物の探偵って初めて見た!」
目を輝かせながらあっさりとトンネルから出て来た貴也に、紫苑は腰を抜かしそうになった。男の子って、わからない。
「ねえねえ、探偵って秘密道具を使うんでしょ。人を眠らせる銃とか、水の上を走れる車とか」
「はは、なかなか壮大だな。だが我々の組織では、表立った行動はしないんだ。あくまでも、隠密行動が得意でね」
「じゃあどんなことをするの?」
「身分を偽り役人のいるパーティーに潜入したりとかかな」
「すげえじゃん!それ、映画で見たよ」
玲一は巧みに貴也の気を引き、坂田家がある方角へと誘導していた。そして曲がり角の先には泣き出しそうになっている晶子がいた。
「たっちゃん!今までどこにいたのよ!」
一瞬で騙されたことを悟った貴也が回れ右をしようとした瞬間、玲一は貴也の背負うランドセルをがっちり捕まえた。
「さあ、これから君を尋問する。覚悟するように」
貴也の顔が恐怖で歪んだ。
貴也の保護を聞きつけた隆と高校生の晃一も家に集まり、貴也を取り囲んだ。
「貴也、何で家出なんてしたんだ?もう怒らないから、正直に話なさい。お父さんもお母さんも心配したんだぞ」
隆があくまでも優しく問い詰める。貴也は唇を噛みしめ、下を向いた。家の中はキヨが茶をすする音だけが響いていた。
「だって、おばあちゃんが言ってたんだもん」
貴也が絞り出すように言った。隆が聞き返した。
「え?おばあちゃんが何だって?」
「おばあちゃんが言ったんだよ!僕はお母さんの本当の子供じゃないって!」
貴也が声を張り上げた。晶子と隆、兄弟二人も呆気にとられた。
「何ですって?そ」
晶子が驚きながら否定した。
「本当だもん!おばあちゃんが泣きながら僕に言ったんだ!僕の本当のお母さんは、僕を捨てて消えちゃったんだ。だから、お母さんが可哀想に思って僕を引き取ったんだって!」
貴也は泣き出し、顔をくちゃくちゃにさせてすすり泣いた。
「だから僕はにいにたちと似てないんだ!」
紫苑は兄弟達と晶子を見比べた。たしかに、二人とも母親似の顔立ちをしている。
「嘘に決まってるでしょ!あなたは正真正銘母さんの子よ?」
「そうだぞ、貴也、どうしておばあちゃんの話を信じるんだ?」
晶子も隆も取り乱し、キヨに詰め寄った。
「どうして子供にそんな嘘をつくの?」
「そうだよ母さん、貴也が本気にして傷ついたじゃないか!」
キヨは二人に責め立てられ、おろおろしながら目を泳がせている。
「やめてください!おばあちゃんが怯えてますよ!」
紫苑が二人に割って入る。しかし晶子の怒りは収まらない。
「もう我慢出来ない。子供にこんな嘘を吹き込むなんて。一体どういうつもりなの?」
おもむろに玲一が立ち上がって言った。
「このご家族の不幸はすべて、キヨさんの話をちゃんと聞かないことが原因だと思います」
「何ですって?祖母は認知症なのよ。まともに話が出来ないんだから」
晶子が苛立ちながら言った。
「いや、違う。認知症だが嘘は言っていない。そうですよね、キヨさん」
玲一に微笑みかけられたせいか、キヨはいくらか落ち着いて答えた。
「ええ。たっちゃんがお母さんが生んだ子供じゃないのは本当のことですよ」
「だから、それは間違いだって…」
隆が口を挟もうとしたところを、玲一が制した。
「キヨさん。この人は誰ですか?」
そう言って玲一は隆を指出した。
「私の夫ですよ」
キヨは当たり前のように答えた。
「では、この三人の子供たちは?」
「もちろん、私の息子たちです」
「キヨさん、お孫さんはいますか?」
「いやだ、まだそんな年じゃないですよ」
キヨはほほほ、と笑った。
「では、ここにいる女の人は?」玲一は晶子を指出した。途端にキヨは怪訝な表情になる。
「知らない人だわ」
玲一が家族を見渡した。
「この通り、キヨさんは孫を実の息子だと思いこんでいる。これは見当識障害の症状のひとつです。隆さん、自分には二人の兄がいると仰っていましたね?つまり男三人兄弟だった。そして、今もあなたには三人の息子がいる。それが余計にキヨさんを混乱させる原因となった。キヨさんは自分はまだ若く、三人の息子と夫と暮らしていると思いこんでいるんです。だから、家族構成にない晶子さんのことを認識出来ないんだ」
晶子は口をぽかんと開けている。玲一はさらに続けた。
「隆さん。あなた、幼い頃キヨさんから何と呼ばれていましたか?」
「それは…たっちゃんって…あっ」
隆は口元に手をやり目を見開いた。
「そう。キヨさんは貴也くんのことをあなただと思っている。貴也くんは、晶子さんの実の息子だが、隆さんは違うということです。そうですよね、キヨさん?」
玲一はキヨに問いかけた。キヨは目を伏せ、静かに話し出した。
「ええ、たっちゃんは私の子供じゃないの。お父さんの遠縁の女の人が生んだ子よ。その女の人はまだ若く、父親とすぐに別れて子供を育てられなかった。施設に預けることになりそうになって、私がお父さんを説得して家に迎え入れたの。女の人はその後すぐに蒸発したわ。男を作ってね」
隆は信じられない目で母親を見ていた。
「たっちゃんは私に言ったの。どうして僕だけへその緒がないのって。お兄ちゃん二人のへその緒は大事にとってあるけど、たっちゃんのだけなかったから。だから、家の庭に落ちていたセミの幼虫が干からびたものを切り取って、これがたっちゃんのへその緒だよって見せたわ。桐箱がなかったから、指輪のケースに入れてね」
キヨはおかしそうに笑った。
隆は思い当たる節があるのか、「そうだったのか…」と呟いている。
「ずっと今まで、言えなかったの。実の母親に捨てられたことを知って、たっちゃんが傷つくと思って。でも、それ以上に私が怖かったの。お母さんのところから離れていっちゃう気がして。でもお母さんはたっちゃんを引き取ることが出来て本当によかった。後悔をしたことなんて一度もないわ。血は繋がっていなくても、たっちゃんは正真正銘、お母さんの子よ」
キヨは涙をはらはらと流した。そして貴也を抱きしめた。貴也は呆然としている。そして隆も。
「まさか…そんな…じゃあ、今まで母さんは実の子供じゃない僕のことを育ててきてくれたのか…?」
「ねえお父さん」
貴也がキヨの肩越しに呼び掛けた。
「おばあちゃんを施設に入れないでよ」
それまで押し黙っていた兄弟二人も口々に言い始めた。
「そうだよ。俺も、これからはなるべく家事を手伝うようにするし…」
「俺も。バイトのお金入れるから、母さんパート減らせよ」
「だからさ、もう少しおばあちゃんと一緒にいようよ」
しばらくの間、坂田家の五人はキヨを中心にして静まり返った。
適当な頃合いを見計らい、玲一と紫苑は坂田家を後にした。
静まり返った住宅街に、二人の足音がよく響く。正面から来る夜風が気持ちよかった。
「あの家族、今後は仲良く出来るといいですね」
「どうだかな。老人介護は思った以上に大変だ」
「息子さんたちも協力してくれれば、きっと何とか行きますよ」
そこでふと、紫苑は玲一に尋ねてみた。
「所長はどんな家庭で育ったんですか?」
「私か?あの父親と同じだよ」
玲一は笑って言った。
「母親は私を生んですぐに蒸発した。私は親戚の家に預けられた。あの父親と違うところは、私を本当の家族のように思ってくれる人はいなかったことくらいだな」
紫苑は何も言い返せずに押し黙ってしまう。しかしすぐに言い返した。
「その話、本当なんですか?」
「どうして今ここで嘘をつく必要がある?」
玲一の表情からは何も読み取れない。つくづくわからない人だと紫苑は思った。
しつこい残暑が続く夏の終わりに、坂田家の父親、隆が探偵事務所を訪ねて来た。
「あの時は、貴也の捜索を手伝ってくれましたのに、まともにお礼も出来ずにすみませんでした」
額の汗をふきつつ、紫苑に菓子折りを差し出した。
「これはほんの気持ちです」
「えっこんなものをわざわざありがとうございます!あの後、キヨさんはどうなったんですか?」
「施設には入れず、家族で面倒を見ることにしました。子供たちが協力してくれるんで、妻の負担も減って助かっています」
「それはいいことだ。息子さんたちにとっても、いい教育になるでしょう」
玲一の言葉に、隆は深く頷いた。
「ええ。そうですね。あれから家族の会話も増えました。僕も、上司に相談して、残業の少ない部署に異動させてもらいました。出世は遅れますが、今はそれよりも大事なことがありますから」
隆は胸を張って言った。
「あのあと叔父を訪ねて母の話が本当かどうかを確かめました。やっぱり、僕は母さんの本当の子供じゃありませんでした。二人の兄も驚いていましたよ。僕が引き取られた当初は幼かったので、まったくわからなかったそうです」
「そうだったんですね…」
紫苑は声を詰まらせた。
「両親は、実の息子じゃない僕をここまで育ててくれました。おまけに、大学まで通わせてもらって…本当に感謝しきれません。父はもう死んでしまいましたが、母はまだ生きてますから、これからたくさん恩返しをしたいと思います」
隆は静かに、しかし強い決意を表すように言った。
隆を見送った後、玲一が窓の外を眺めながら言った。
「不思議なものだな。血のつながりがないと分かった瞬間、結束力は強くなる」
「血がつながっているから当然だと思っていたものが、実は特別なことだった、と気づくんですよ」
空はうっすらとオレンジ色に染まりつつあった。