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屋上の亡霊

満員電車に揺られながら、とりとめのないことを考える。今日の外出予定と訪問先、そしてノルマ…。

 小倉真一は、つり革に捕まりながらぎゅっと目をつむった。

―今日も、ヤツはあそこにいるのか?

 真一の脳裏には、だらりと肩を落とし真下にある大通りを見下ろす人影の姿があった。

―今日もあいつが表れるのだろうか。

 あいつは決まってこんなどんよりとした天気の日に現れる。そうして、そんな日は必ず嫌なことが起きるのだ。

 真一は憂鬱な気持ちになりながら、電車の窓から見えるビル群を眺めた。

 電車から降り、大勢の人だかりと共に大通りへと続く交差点を渡った。今日は夕方から雨が降るようで、低気圧前線が関東一帯を覆っているらしい。勤め先に向かいながら、陽一はかすかな頭痛に顔をしかめた。そして目線を上げると灰色のビルの屋上に、またヤツがいた。

 陽一は反射的に目を逸らした。だが、勤め先に行くためには、あの灰色のビルの前を通らなければいけない。陽一は早歩きでビルの前を通り過ぎ、勤め先である銀行の職員専用通路へとたどり着いた。

 ロッカーにコートをしまい、自分のデスクに座る。パソコンの電源を起動しつつ、営業用のパンフレットなどをまとめているうちに朝礼の時間が来た。

 支店長が皆の前に立ち、もうすぐ監査がやってくること、年度末に向けて支店の数値目標を各自達成するよう各自努力することを述べた。

 最後にお客様に対する掛け声を皆で復唱した後、解散となった。しかし陽一はデスクに戻る途中で支店長に呼び止められた。

 振り返った瞬間、支店長の肩越しにある窓から、あの灰色のビルが見えた。陽一の額には脂汗が浮かんだ。支店長を無視して通り過ぎることは出来ない。しかし、陽一の視界には否応なしにあのビルの屋上が見える。

「…であるから、今後は君も…って、小倉くん?聞いているのか?」

 支店長が怪訝な顔で陽一の顔を覗き込んだ。陽一は恐怖のあまり口をぱくぱくさせ、ビルの屋上から目を離せない。

 屋上にいる人影は、いつもだったら項垂れるように立ったまま下を向いている。しかし、今はまるで陽一に視線を合わせるようにこちらに身体の向きを向いているのだ。その亡霊は、まるで陽一に手招きするように、じっとその場に佇んでいた。


「最近めっきり寒くなって来ましたねえ」

 紫苑が頬を赤くし背を丸めながら探偵事務へ入って来た。

 事務所の中には玲一がデスクの上で新聞を広げて座っている。

「今日も暇みたいですね」

 紫苑が皮肉っぽく言うと、玲一は新聞を静かに折りたたみながら言った。

「仕事が暇だと、そのうち紫苑くんの時給が減ってしまうぞ。ホームページの造りをもっとちゃんとしたらどうだ?」

「よく言いますよ。ほとんど無給で作ってあげたんですから、文句言わないでくださいね」

 鏡探偵事務のホームページは紫苑が学校の授業で習った知識を生かし、見よう見まねで作ったものだ。完成してみればあまりにも素人臭く、玲一にさんざん文句を言われたが外注する金がないらしい。結局それを公開し続けている。

「紫苑くんが仕事中にこっそり学校の課題をしているのを見逃してやってるわけだが?」

 玲一は畳みかけるように言った。

「ああ~っもう、それくらいいいじゃないですか!どうせ仕事がないんだし…」

 紫苑がやり返そうと声を荒げた瞬間、事務所のドアが遠慮がちに開かれた。

「あの…遅れて申し訳ありません。本日の十九時で予約をした小倉という者ですが…」

 現れたのは若いサラリーマン風の青年だった。きっちりと撫でつけられた髪に実直そうな太い眉が印象的だ。紫苑と玲一を交互に見比べている。

「お客様ですね!どうぞどうぞ!」

 紫苑は接客スマイルを浮かべ、小倉にソファーを進めた。小倉は恐縮しながら浅く腰掛ける。

「コートはこちらでお預かりしますね。コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」

「では、コーヒーで…」

 紫苑はさっそく給湯室に行きコーヒーを淹れに行った。

 玲一は小倉の前に座った。

「ご連絡が出来ておらず申し訳ありません。営業先への訪問が予想外に長引きまして…途中で携帯の電源が切れてしまったものですから」

「気になさらないでください。それよりも、事務所に来て頂いただけで有難いですよ。よくあるんですよ。予約だけ入れてドタキャンされるの」

「え、そうなんですか?」

 小倉は目を丸くした。

「ええ。こういった内容の仕事ですからね。後ろめたいことも話さなきゃいけない。当日になって億劫になってしまうんでしょうね。まあ、就職活動と同じですよ。よく言うでしょ?面接ブッチ」

 玲一は朗らかに笑った。

「はあ…」

 紫苑がコーヒーカップを小倉の前へ置いた。

「温かいうちにどうぞ」

「いい香りですね。それでは、頂きます」

 いくらか緊張が柔らだのか、小倉は香りを味わうように一口すすった。

「これは美味しいですね!どんな豆を使ってるんですか?キリマンジャロ系ですか?」

 小倉は感嘆して言った。

「よくご存知ですね。これはキリマンジャロ系の中でも一等のえりすぐりの豆を使用してるんですよ。小倉さんはコーヒーにお詳しいですね」

 玲一も嬉しそうに説明する。

「はい、学生時代に凝ってた時期がありまして。まあ、今は一人暮らしの身だし、お金もないのでこんな高級豆は買えなくなってしまいましたが」

 しばらくコーヒー豆豆についての雑談をした後、玲一は本題に入った。

「それで小倉さん。今回の依頼内容というのは?」

「ええ、それが…」

 小倉は空になったコーヒーカップを置き、姿勢を正した。

「亡霊が見えるんです」

 声をひそめて言う。

「ほう、亡霊?」

 玲一もわずかに身を乗り出した。

「かれこれ、一か月以上前から悩んでいるんです。僕が勤めている銀行の支店の窓から、会計事務所が入っているビルの屋上が見えるんです。そこに見えるんです。下を向いて今にも飛び降りそうにしている男の姿が…」

「それはそれは」

 玲一は大真面目になって小倉の話を聞いている。

「調べてみたら、向かいのビルは昔証券会社が入っていたようです。けど、男性社員が激務の末うつ病になり、会社の屋上から飛び降りた事件があったようなんです。おそらく、あの亡霊はその男性社員なんじゃないかと思うんです」

 小倉は身震いをするように肩を縮こませた。

「他の人には見えないんですか?」

「はい。会社にいる何人かの同僚にそれとなく尋ねたこともあります。けど、皆屋上に人影なんて見えないと言うんです。僕だけなんです。あの亡霊が見えるのは…」

 小倉は空になったティーカップを握りしめ、思い詰めたように言った。

「僕には霊感なんてまったくないと思っていました。今までそういう体験なんてしたことがなかったんです。でも今日、支店から屋上を見たら、その亡霊が僕の方に身体の向きを変えていたんです。あれは明らかに僕と目を合わせようとしているよいに思えました。もしかしたら、僕にとりつこうとしているんじゃないかと思って怖くなって…こんなことを相談出来る場所なんて、ここ以外に見つからなくて…」

 一気に話し終えると、小倉は深く息を吐いた。

「なるほど。だいたいわかりました」

「鏡さん、僕には何かとりついているのでしょうか?」

 小倉が怯えた声で尋ねた。

「今はまだ大丈夫かと思えますが、今後危険かもしれない」

 喉の奥でひっという音を出しながら、小倉は固まった。

紫苑は応接間から離れた事務机でファイルの整理をしつつ、聞き耳を立てていた。また玲一があることないこと言っている。

「僕はどうしたらいいんでしょうか!」

「落ち着いてください小倉さん。その亡霊の特徴は?背格好とか、服装とか」

「背は、中肉中背ぐらいですね…でも、表情や服装などはわかりません。全体的にぼやけているというか、あやふやなんです。灰色がかっていて、もやのようにも見えます」

 小倉がひと呼吸置いたタイミングを見計らったかのように、玲一が言った。

「小倉さん。これは言葉で説明されるより実際に現場を見たほうが早いでしょう。今度、お時間いただけますか?勤務先まで案内してください。その時に、本当にあなたに害を及ぼす存在かどうかわかります」

「本当ですか?是非お願いします!」

 小倉はほっとしたように玲一に頭を下げた。


 その三日後、玲一と紫苑は玲一に案内され都内の企業オフィスが立ち並ぶ一角へ立っていた。休日ということもあって、通りの人はまばらだ。陽介は私服のせいか、固い雰囲気から若返ってまるで大学生のようだった。

「ここが僕の勤める銀行の入ったビルです」

 陽介は赤い企業マークのロゴが大きく印字されたガラス窓を指した。

「すごーいっ小倉さんってメガバンクにお勤めなんですね!」

 紫苑が関心したように言うと、陽介は苦笑しながら「いや、まあ…」と頭をかいた。

「あれが例の亡霊が見えるビルですか?」

 玲一が銀行の向かいにある灰色のビルを見上げた。

「そうです。かなり築年数のある建物らしいんです」

 それは四階立てのかなりこじんまりとしたビルだった。まるで水で薄めた墨汁を頭からかぶったような色をしていて、周りの背の高いビルに押しつぶされそうな印象を受ける。

「ここから見える限りでは亡霊らしきものは見えないですね」

「ええ。屋上と同じ目線にならないと現れないんです。今日は銀行のフロアには入れませんが、非常階段なら通れます。階段で四階まで行けば見れるはずです」

 陽介、玲一、紫苑は職員専用通路を渡り、扉の横に作られている非常階段を上って行った。

「銀行員のお仕事ってどうですか?やっぱりお金が好きじゃないと出来ないんですかね?」

 紫苑が軽快な足取りで階段を昇りつつ、前を行く陽介に尋ねた。

「ええ、まあ…そうでもないですよ。僕なんて、経済学部こそ出てますけど、金融の知識なんてロクにないですから。その代わり、入社前に資格を沢山取らされましたけど」

「へえ、やっぱり頭がよくないとなれないんですね!」

「そうですね。法律が変わるたびにまた勉強し直さなきゃいけないですから。大変ですね…」

 陽介はため息を吐いた。それが階段を昇ることによる息切れによるものなのかわからない。

「やっぱり上司に倍返しとかあるんですか?土下座させたり」

「いや、それはドラマの世界の話なんで…」

 そうこう話している内に、四階の高さまでやってきた。踊り場で、陽介は息をつき通りの向こう側を指さした。

「ほら、あそこです!亡霊が見えるでしょ?」

 紫苑と玲一はその指さす方向を見た。しかし、人影らしきものは何も見えない。

 向かいの大通りの裏は飲食店街になっているらしく、ごちゃごちゃした看板が屋上越しに見え、その中で一際目を引くオレンジ色の看板があった。灰色のビルは屋上緑化でもしているのか、屋上から緑色の葉をつけた低木が生えているのが見える。しかし、それ以外は特に変わった様子は見られない。

 紫苑ははじめ、この看板の表記を陽介が人影だと勘違いしているのではないかと思ったしかし、よくよく目を凝らしてみても人影に見える要素のある看板はどこにもない。

「小倉さん。私には人影は見えませんが…」

 紫苑が目を凝らしながら言った。

「そんなはずはありません!僕の目にはしっかりとあの亡霊が見えるんです!」

 小倉は確信を持った口調で言った。

「こう見えて、視力は良い方なんですよ。これまで眼科にかかったことだってありません。やっぱり、お二人にも見えないですか?」

 陽介は玲一の様子を窺った。玲一は腕組をして、向かいのビルを睨んでいる。紫苑は玲一が何て切り出すか気になった。依頼人に話を合わせるだろうか?

「紫苑くん。カメラの用意を」

「あ、そうか!カメラですね!」

 紫苑は鞄の中から母親の形見である一眼レフカメラを大事そうに取り出した。

「ここで助手にカメラを撮らせます。もしかしたら亡霊の姿が写真に収められるかもしれない」

 玲一はもっともらしく陽介に説明をした。

 きっと玲一には亡霊の姿など見えないのだろう、と紫苑は確信した。だから、写真を撮るなどと言ってごまかすのだ。

 カメラを絞り、紫苑は角度を変えてビルの屋上をカメラに収めた。

「紫苑くん。拡大して撮ってくれ」

 玲一が素早く紫苑の耳元で囁いた。何か策があるのだろうか。紫苑は言われた通り、高性能の望遠レンズに取り換え、また数枚をフィルターへ収めた。

「さてと、今日のところの調査はこれで終了です」

 紫苑が一通り写真を撮り終えたところで、玲一は言った。

「え、もう終わりですか?結局、亡霊の正体は何だったんです?」

 陽介は拍子抜けしたように問うた。

「あなたを悩ませる亡霊は写真に反応する性質であるように見受けられます。まずは今撮った写真を現像して、じっくりと鑑定します。後日、調査結果が分かったらご連絡しますよ」

 玲一は有無を言わせぬ口調で言った。陽介は不満そうにしていたが、結局は従った。


「どうするんですか?亡霊が見えませんでした、なんて今さら言えなくなっちゃいますよ」

 玲一と紫苑は陽介と別れた後、事務所に戻った。

「とりあえず、紫苑くんはさっき撮った屋上の写真を現像してくるように」

「今日ですか?」

「もちろんだ」

 紫苑は面倒くさく思いながら、一眼レフカメラの液晶画面を見つめた。

「亡霊なんて写ってないんだけどなあ…」


 翌日、紫苑が事務所を訪れると、玲一がホワイトボードに屋上の写真を張り付けていた。

 大きく印刷された写真には、何やらマジックで線が引いてある。

「亡霊事件は解決したんですか?」

 紫苑が尋ねると、玲一は一枚の写真を差し出した。昨日見た、何の変哲もないビルの屋上を写した写真だ。

「いいか紫苑くん。このシルエットをよく見てくれ」

 そう言って玲一はマジックで写真に写っているあるものを塗りつぶした。

「あっこれって…」

 紫苑は驚いて写真に見入った。

「そうだ。早速依頼人を呼び出そう」

 

 玲一と紫苑は陽介を銀行の前へ呼び出した。陽介は不安そうに尋ねて来る。

「それで、亡霊の正体はわかったんですか?」

「はい。まずは真相をお伝えするために、あの屋上をもう一度見てみましょう」

 玲一は陽介を促し、銀行の入っているビルの非常階段へ向かった。

「どうです、小倉さん。まだ亡霊は見えますか?」

「はい、見えます。僕の方を向いています」

 陽介は確信に満ちた声で言った。

「では、この眼鏡をかけてみてください」

 玲一は陽介に黒ぶちの眼鏡を差し出した。普通の眼鏡とは違い、レンズには光沢のある緑色のような光彩を放っている。陽介は訝しがりながらも、それを目にかけ、再び前を向いた。

「あっ…」

 言葉にならない驚きの声を上げ、陽介は屋上を食い入るように見つめた。眼鏡を外したり、またかけたりを繰り返している。

「これは…僕が今まで見ていたものは…」

「そうです。小倉さん、あなたは色盲だったんです。それは色盲矯正眼鏡と言って、今あなたがレンズ越しに見ている風景は、色盲ではない人から見た屋上の様子です。つまり、亡霊はどこにもいない」

 陽介は尚も眼鏡をかけたり外したりして、信じられないような目つきで玲一を振り返った。

「いや、僕はこれまで特に問題なく生きてきました。色もちゃんと認識出来ています」

「誤解されがちですが、色盲とは色がまったく認識出来ないような、モノクロームの世界しか見えないことを指しているのではありません。ある特定の色が灰色や茶色に見えてしまうんです。更に、見え方にも細かい個人差があります。小倉さん、あなたはおそらく緑錐体が機能しない第2種色盲でしょう。」

「第2種色盲…」

 陽介はうわ事のように繰り返した。紫苑が陽介に説明する。

「小倉さんは、屋上に植えてある低木を亡霊だと勘違いしていたんです。小倉さんにとって、あの深緑は黒や灰色っぽく見えてしまったんでしょう。さらに、背後にある黄色い看板は普通の人ならオレンジ色っぽく見えますが、第2種色盲の人から見たら蛍光色に近い黄色に見える。だから、余計に低木の色を際立たせてしまっていたんです」

「そう…だったんですね…」

 陽介はようやく事態を飲み込めたようだった。

「でも、どうして今まで色盲だって気が付かなかったんだ?」

「小倉さんの世代では、小学校の眼科検診で色盲検査が廃止されてしまっているんです」

 玲一が指に髪の毛を絡ませながら言った。

「色盲検査で異常が見つかった生徒に対し、差別が助長されるとかなんとかで、小学校の眼科検診での色盲検査は廃止されました。その世代が今、大学を卒業して社会人になり、色彩感覚が必要とされる職業について初めて色盲だとわかる…なんて悲劇も起こっています。小倉さんは、視力がよくて眼科に行ったことがないと仰っていましたね。今まで色盲だと気づく機会もなく、こうして大人になってしまったんでしょう」

 陽介は眼鏡を握りしめ、自嘲気味に笑った。

「はは…なんだ、そういうことだったんですね。亡霊なんていなかったんだ。全部僕の勘違いか…。はは、こんなことってあるんですかね、よりにもよって幽霊に見えるなんて」

「低木の位置や光の加減、見る位置、あらゆる条件が重なってあたかも人が屋上から飛び降りようとしている様に見えてしまったんでしょう。しかしそれ以上に、小倉さん。あなたの精神状態が影響しているとしか思えないんです」

 玲一はじっと陽介を見つめた。陽介はうろたえながら「え?」と聞き返す。

「深い悩み事があるんじゃないんですか。あなたはそのせいで、精神を病む一歩手前まで来ている。あの今にも自殺しようとしている亡霊と、自分を重ね合わせてしまい、あれは幽霊だと必要以上に思いこんでしまっている。私にはそのように見えます」

「ど、どうしてそんなことが分かるんですか?」

「簡単ですよ」

 玲一は朗らかに笑った。

「顔色の悪さ、目の下の隈から察するに、満足に眠れていないようだ。それに加え、銀行の前を通る時にロゴマークから目を逸らせようとする。なるべく嫌なことを思い出さないように。まあ、一般のサラリーマンにも言えることですがね。けど、私にはあなたはよっぽど重度に見える。なんせ、職員専用通路を通るだけでも手足が震えていましたからね」

 紫苑は玲一の観察眼の鋭さに舌を巻いた。そんなこと、まったく気が付かなかった。

 陽介は、身体から力が抜けたように、非常階段の手すりに持たれかかった。

「…僕は、銀行員に向いていないんです」

 絞り出すような悲痛な声は、紫苑の胸に響いた。限界を迎える人間の叫び声だ。

「銀行の営業は、とにかく数字が命なんです。支店ごとに目標が設定され、個人にノルマが課せられる。僕は、口下手なんです。それほどいい商品だと思えないものを、さも素晴らしい商品だと言ってお客に売りつけることが出来ない…そうしている内に、僕の営業成績は支店の中で最低です。この間支店長にも言われましたよ。お前のせいで支店の評価が下がるって…新卒で入ってもう三年目ですが、一向に仕事が出来なくて」

 紫苑は思わず同情した。小倉のいかにも生真面目な性格ゆえだろう。

「それに、金融にも興味が湧かないんです。本当に向いてないと思います。ただ、世間体と生涯年収だけで就職先を決めてしまいました。今でも思います。もっと自分の本当にやりたいことを仕事にするべきだったって…」

「今からでも間に合いますよ!」

 思わず紫苑は声を上げた。

「小倉さんは、まだまだ若いじゃないですか。これから転職して、自分に向いている仕事を探せばいいじゃないですか!」

 紫苑の励ましに小倉は顔を上げ、弱弱しく微笑んだ。

「ありがとうございます。そうですよね。…実は僕の本当にやりたかったことは料理人なんです。子供のころから、いつか自分の店を持つことが夢でした。だから、大学に行かず料理の専門学校に行こうとしていた時期もあったんです。でも結局諦めて、普通の4年制大学に入ってしまいましたけど」

「どうして諦めちゃったんですか?」

「情けない話ですが、両親に止められたんです。今の時代、ボーナスも退職金も貰えない自営業なんて大変だぞ、大企業のサラリーマンになるのが一番幸せなんだって。それに、ただでさえ僕たちの世代は年金制度が破たんして、老後に貰えるお金はスズメの涙だって言うじゃないですか。働けなくなったら老後の生活はどうなるんだって言われると、結局怖じ気ついてしまいまして」

 紫苑は複雑な気持ちになった。確かに、親の立場からしてみれば、子どもには安定した人生を送ってほしいだろう。しかし、いくら経済的に安定していても、幸せな人生とは限らない。紫苑は自分の母親を思いうかべた。

 母だって、高級マンションに住み安定した生活を手に入れたものの、重度のうつ病になって死んでしまった。結局は、お金とは幸せになる為の一つのピースに過ぎない。たとえなくても、他の要素で補えるものなのだ。

「なんだ、そんな理由か」

 玲一は呆れたように言った。

「私なんて、七年勤めた警察を辞めたぞ」

「えっ」

 紫苑と陽介は同時に声を上げた。玲一のことを、インチキ霊媒師の成り上がりだと思いこんでいた紫苑は驚愕のまなざしで玲一を見た。こんな胡散臭いオーラを放つ男が元警官だって?ありえない。

 しかし陽介は別の意味で玲一に羨望のまなざしを注いでいた。

「すごいですね。こんなご時世なのに、公務員を辞めるなんて。あの、差し支えなければ教えて頂きたいんですけど、なぜ辞めたんですか?」

「君と同じ理由だよ」

 玲一は涼しい顔を向けた。

「自分の本当にやりたいことをやってみたかったんだ」

 それがこのインチキ心霊探偵なのか…

 紫苑は内心ツッコミを入れた。

「刑事を辞めて本当によかったと思っているよ。金なんて、自分の腕でいくらでも稼げる。常に誰かのせいにして生きるより、一人で博打を打つほうがよっぽどいい。小倉くん。今の日本は戦争もない恵まれた時代だ。一体何を恐れている?君はまだ若く、しかも独身で、可能性に満ちている。迷っている時間が勿体無いじゃないか。君はもう、十分に頑張ったよ」

 玲一の言葉は、陽介の心に深く入り込み、満たしていった。

 自分はずっと誰かにこの言葉を言って欲しかった。

常に数字数字と追い立てられ、同僚に弱音を吐こうにも、誰もがライバルで俺の方が頑張っているとやり返されるかバカにされる。もっと頑張れ、途中で投げ出すな、甘えるな、もっと辛いことはいくらでもあるぞ…

 そんな言葉に追いつめられ、とうとうここまで来てしまった。

「そう…ですよね。ちゃんと自分の人生を歩まないと」

 陽介の死んだような瞳に一筋の光が見えた。



 それから二か月後、玲一と紫苑の元に、突然陽介が表れた。

「あっ小倉さんじゃないですか!お久しぶりですね、どうしたんですか?」

 紫苑は驚きつつ陽介を応接間に通した。

「ようやく生活が落ち着いたんで、お二人にご挨拶をと思いまして」

 二か月ぶりに見る陽介の姿は、健康そのものではつらつとしている。青白い顔は日に焼けて顔色がよくなり、心なしか身体も引き締まってみえる。

 陽介はソファーに身体を沈めるなり、こう切り出した。

「実は、一か月前に銀行を辞めました」

 そういう表情からは、後悔の色はなく何か吹っ切れたようだった。

「それはおめでとう。ようやく決断出来たんだね」

「はい。鏡さんのおかげです。もしこの探偵事務所に依頼をしていなかったら、僕はまだあの銀行で亡霊に怯えながら死んだような顔をして出勤していました」

 陽介は二人に近況を話した。今は都内にある某有名店で修業中なのだという。

「確かに生活は厳しいですが、毎日が本当に充実しています。自分の好きなことに打ち込めるって、本当に素晴らしいですね」

「よかったじゃないですか!ついに自分の人生を手に入れたんですね」

 紫苑が喜びながら陽介の前にコーヒーカップを置いた。以前陽介が絶賛していたキリマンジャロ豆だ。

「はい。なので、今日はお二人にささやかですが、プレゼントを持って来たんです。僕が作りました。このコーヒーに合うと思います」

 そういって、陽介は持って来たクーラーボックスの中から白い箱を取り出した。中は、ココア色の光沢を放つワンホールのチョコレートケーキだった。

「わあ美味しそう!」

 甘いものも大好きな紫苑は、感嘆の声を上げた。箱の中から出された瞬間、チョコレートの濃密な香りが辺りに溢れ出す。

「小倉さんは、パテシェ希望だったんですね。それにしても、見事ですね。まるでお店で売られているみたいだ」

 玲一がチョコレートケーキの出来栄えをほめると、陽介は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます。まだまだ修業中ですけどね。これからもっと勉強して、一流のパテシエになってみせますよ」


 陽介を見送った後、紫苑は言った。

「あ~あ、所長の一声でまた一人の若者の人生が変わっちゃいましたね」

 陽介の決断が正しかったかどうかは、彼が人生を終える時でないと誰にもわからない。

「何も俺の一声がなくても、遅かれ早かれ彼はその内銀行を辞めていたと思うよ。本人の中で結論はもう出していた。ただ、誰かに背中を押されたかっただけだ」

 玲一はケーキを切り出しながら言った。

「へえ、そんなもんですかねえ」

 紫苑は早速ケーキを一口食べた。濃厚なチョコレートケーキの甘みとともに、ほのかにブランデーの香りが鼻から抜ける。チョコレートソースに覆われたスポンジはやわらかく、ほろほろと口の中で溶けた。あまりくどくない甘さで、コーヒーにも抜群に合う。あまりの美味しさに、紫苑は興奮して言った。

「所長っこれめっちゃくちゃ美味しいですよ!こんなケーキが作れるなんて、小倉さん銀行辞めて正解ですね!」

「紫苑くんの判断基準がいまいち分からないが、確かに彼には才能がありそうだ」

 玲一もケーキを口に含んで言った。

「あ、思い出したんですけど所長。所長が元警官だって本当ですか」

 紫苑が声をひそめて尋ねると、玲一はフォークを持つ手を止めて急に真顔になった。紫苑は普段とは違う玲一の雰囲気に思わず緊張した。

 そして玲一は鼻で笑いながら言った。

「嘘に決まってるだろ」

 紫苑はのけ反った。

「サイテーっ小倉さんをあんな風に騙すなんて!その内天罰が下りますよ」

「嘘も方便だって言うだろ」

 玲一はまたいつもの表情に戻り、窓の外を見た。抜けるような青空は雲ひとつない。

「それと紫苑くん。まさかそのケーキを一人で食べるわけじゃないだろうな?」

「げげっどうしてわかったんですか?」

「あと、事務所の経費でお菓子を買い込むもの止めなさい。いい加減にしないと太るぞ」

「そういう脅しはやめてください!」

 かすかにセミの鳴き声が聞こえて来る。梅雨が明け、もうすぐ夏本番だ。

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